23.これください
視点が葉月に戻ります。
南高校に、アルバイトを禁止する校則はない。
っていうか基本、日本国憲法に反しなければオッケーで、校則らしい校則なんてないに等しい。
頭にオウムを乗っけた変人に生徒会長を任せる校風からも、推して知るべし。私たち南校生は野放しなのだ。
制限された自由の中で、分からず屋の大人たちを欺いたり、衝突したり、そういうことを繰り返して、若者は大人になっていくものだと思うの。
だからね、最初っから『何でも好きなようにやりなさいよ』的寛容な姿勢をとられちゃうと、『え? ほんとにいいの?』って、怖気づきそうになる。
目標の前に立ちはだかる障害を乗り越えてこそ、やる気もあがるってものでしょ。
私の場合、壁はお兄ちゃんだった。
「アルバイトなんて絶対ダメだ」
蒸し暑いアパートで、エアコンもつけずに汗だくで、雑誌を紐でまとめる手を止め、お兄ちゃんが私を睨む。
「大丈夫だよ。三瀬のお父さんのスーパーの試食販売員だよ。三角巾かぶって食品コーナーで餃子を焼いて配るだけだよ。危ないことなんて起きるはずないよ」
「葉月はかわいいから、そこに立ってるだけで、ある種の輩には刺激物なんだ」
「じゃあ変装するから。コンタクト外して、昔の眼鏡つけていくから」
「そんなものじゃもう隠せないところまできてるんだよ、おまえの美貌は!」
「大げさなこと言わないでよ。それじゃあ、お父さんの形見の鼻眼鏡つけていく」
「やめろ、雇う側にご迷惑だ」
「だったら、どうしたらいいのぉぉ」
反対されればされるほど、私の気持ちが燃え上がるとも知らずに、お兄ちゃんの馬鹿。
両手足を床に投げ出し、子どものようにばたつかせ、駄々をこねてみても、お兄ちゃんは頷いてくれない。
「ねえ、話を聞いてよお兄ちゃん」
「今荷造りで忙しいんだ」
「さっきまで引越めんどくさい、荷造りは適当でいいって言ってたじゃん」
「俺はいつだって一生懸命だ」
汗だくの癖に涼しげなお兄ちゃんの横顔が、今日はなんだか腹立たしい。
「わかった。もういい! 私、太る! 白豚眼鏡に戻る! それならいいでしょ」
最初はお兄ちゃんを脅すつもりで言った言葉が、だんだんナイスアイデアに思えてきた。
「そうだよ、太れば私のファンクラブは解散、学校生活も元通り地味になって、お兄ちゃんの不安も解消! いいことだらけだよ」
「身体に悪いからダメ。それに、おまえが太ったくらいで俺の心配性は治らない」
そんなこときっぱり断言されても困る。
「じゃあ、どうしたらお兄ちゃんの不安は解消するの?」
「そうだなぁ」
と呟いてお兄ちゃんは人差し指と親指で、自分の下唇をふにふにとつまむ。考え事をする時のお兄ちゃんの癖だ。だから、執筆活動が終わった後、お兄ちゃんの唇はいつも腫れている。
「俺しか知らない秘密の場所に、鍵付きの檻を置いて、その中に葉月を閉じ込めたら、治るかもね」
「やだぁ、怖い! 太るよりそっちの方がずっと体に悪いじゃん」
お兄ちゃんは、ぶはぁぁぁっとこれ見よがしに大きなため息をつく。
汗で紺色から濃紺へと色を変えたジーンズの膝に手をついて、よっこらしょと立ち上がり、台所へと歩いていくお兄ちゃんを追いかける。
台所でお兄ちゃんは、ヨーグルト、牛乳、グレープフルーツ、レモンを下ごしらえしてジューサーに突っ込む。
最近のお兄ちゃんは、妊婦さんばりにすっぱいものを好む。
出来上がったジュースをグラスに注いで「ん」とお兄ちゃんが私に差し出す。
「ありがとう。ねえ、夏休みにね、川澄さんは、三瀬のファンクラブ活動に全力を注ぐんだって。緑青さんは、全国規模の合コンを開催するんだって」
「全国規模の合コン? 意味がわからないんだけど」
「だよね、わけわからないでしょ? そんな同級生に比べたら、私なんてかなりまともだよ。アルバイトくらい、許してよ。お願い」
私は頭を下げる。お兄ちゃんは困った顔をした。
「何かほしいものでもあるのか」
「うん。ある」
「俺が買ってやる。昔と違って今はそれなりに貯えがあるから、遠慮しないでもっとわがまま言えよ」
「それじゃ、だめなの。自分のお金で買いたい」
ぶへぇぇぇっ。
ため息の後で、仕方ないなぁとお兄ちゃんが呟いた。
*
アルバイトは短期雇用。拘束時間は朝十時から午後六時まで。休憩時間は一時間。
時給は千円。三瀬のお父さんはもっと出すって言ってくれたけど、身内でもお金のことでは甘えたくないので、断った。
朝九時四十五分。
白いシャツにカーキのチノパン、髪を三つ編みにして、眼鏡をかけて、三角巾をかぶる。仕上げにマスクを着けて、準備はオッケー。
精肉コーナーの一角で、ホットプレートに油を引き、パックから取り出した餃子を焼く。私は少し緊張していたが、すぐにそんな気持ちも忘れた。
夏休みのスーパーは子どもづれのファミリーで賑わい、特に昼時には焼き上がりを待つ列ができるほどの大盛況で、とにかく忙しかった。
午後の休憩明けに三瀬のお父さんが顔を出してくれた。その後に、お母さんが様子を見に来た。仕事は滞りなく終わった。危険なことは何も起こらず、私はほっとして、少し誇らしい気持ちで、家路についた。
このアルバイトは一週間のみの契約で、あっという間に最終日がやってきた。
午前には、金髪モヒカンの見知らぬ男の人が、「うわぁ! こんなところで何してるの?」と、お姉言葉で話しかけてきた。どこかで見たような顔だったけれど、思いだせない。首を傾げているうちに、その人は何処かへ行ってしまった。
その日は土曜日で、これまで以上の賑わいを見せるフロアで、目まぐるしく働いているうちにあっという間に一日が終わろうとしていた。
午後六時が近づき、あともう一頑張り。立ち仕事でむくんだ足を撫でて顔を上げると、お兄ちゃんが立っていた。
商品のパック餃子を手に取り、成分表をチェックして、「添加物多すぎ」とお兄ちゃんは文句を言う。
「営業妨害ですよ」
「頑張ったな、葉月。一緒に帰ろう」
お兄ちゃん、私を迎えに来てくれたのか。
心配することなんて何もなかったよ。私は、生まれて初めて自分の力でお金を稼いだ。
帰り際にバックヤードの事務所に顔を出し、一週間分のお給料をいただいた。
しめて四万九千円也。
茶封筒にキスをしてムフフと笑う私。
お兄ちゃんも笑っている。
「ね、お兄ちゃん、ちょっと付き合って」
「どこへ?」
私は答えずにまたムフフと笑う。
お兄ちゃんの腕を引いて踊るように通りを歩き、やってきたのは駅前の大型家電量販店だ。
一回のデジカメコーナーで足を止めた私達に、若い女性の店員がやって来て、「いかがですか?」と抽象的な質問をする。「なかなかですね」と、私も曖昧に答える。店員は、お兄ちゃんの顔ばかり見ている。お客は私なのに。
シャッターボタンを押した時の音、手に触れる質感、展示された出来上がりの写真。全部いい感じ。
お値段は、税込四万九千八百円。
「これください」
デジタル一眼レフカメラだ。コンパクトデジカメとは違う、本格的な奴。ずっとこれがほしかった。
お兄ちゃんは驚いている。
「ご一緒に記録メディア、液晶保護シート、カメラケースはいかがですか?」
店員の言葉に財布を確認する。
残念ながら所持金が足りない。
お兄ちゃんがポケットから財布を取り出そうとするのを制止した私の右手を、お兄ちゃんがそっと握る。
「店員さん、今言った一式、おまけにつけてください」
お兄ちゃんは、駆け引きなしに、真正面から店員に頼んだ。
無茶言うなあと思っていたら、以外にも検討の余地はあったらしい。
新人らしい彼女は、店長に確認してきますと、フロアの端まで走って行った。
「葉月、アルバイトしてまで欲しかったものってこれ?」
「うん。これでね、一緒に写真を撮ろうよ」
私たちが家族になってから今日まで、ずっと撮ることができなかった家族写真。
「例えばこの先、誰かが欠けてしまう時が来ても、写真だけは消えずに残るでしょ」
お兄ちゃんは唇を噛み、目を閉じた。
やっぱりだめかな。
私も、ピカピカのリノリウムのフロアに目を落とした。
その時お兄ちゃんの腕が伸びてきて、強く強く、私の背中を抱き寄せた。
お兄ちゃんの背中に手を回し、負けずに強く抱きしめ返した。
息苦しさも、甘く感じる。
手を伸ばしてふわふわの髪を撫でると、お兄ちゃんはすん、と音を立てて鼻を鳴らした。
私は目を瞑り、少しだけ昔のことを思いだした。
次話、過去回想に続きます。




