18.ああ、普通
三瀬粉雪の視点です
全体的に古ぼけて手狭だが、掃除が行き届いた清潔な台所で、橘葉月が夕食を作っている。
白地に青い小花の散ったワンピースに赤いエプロンを着た彼女の頬を、小窓から西日が照らす。
橙色の光が、天使や妖精のように彼女の輪郭を幻想的に縁取る。
俺とバカ兄はテーブルを挟んで向かい合い、料理が出来上がる時を待つ。会話はない。
手持無沙汰ですっかり冷めてしまったインスタントコーヒーをすする他にはやることが無い。
ぱちぱちと油の跳ねる音、じゅうじゅうと肉に火が通る音、「あっちぃ」と彼女の悲鳴が聞こえる。
バカ兄は、弾かれた銃弾のように飛んで行って、「大丈夫か、やけどしてないか」と彼女の手を取った。
間もなく料理が出来上がり、俺とバカ兄はテーブルに皿や箸を並べる。
「お兄ちゃんの大学の近くに、汗臭い男子大学生に大人気の唐揚げ屋さんがあって、そこに通って研究したんだよ」
「何それ。俺が汗臭い男子高校生だって言いたいわけ?」
橘葉月が笑いながらエプロンのリボンを解く。
笑顔が殺人的にかわいすぎて、息が止まりそうになる。
唐揚げは、外はサクサク、中はジューシー、手作りのタルタルソースは蜂蜜の甘みとピクルスの酸味が絶妙で超絶上手い。店出せるレベル。
「葉月、また腕を上げたな」
バカ兄に頭を撫でられ、橘は猫みたいに目を細める。
こいつが、俺のことを好きだと言った時、絶対に嘘だとすぐにわかった。
どう考えても、橘がこの世で一番好きなのは、バカ兄に決まってる。
ふて腐れながら料理にがっついていると、
「どう? 三瀬はおいしい?」
と、声がする。橘が俺の顔色を窺っている。
上手いよって言えばいいのに「ああ、普通」とか、唇尖らせて言ってから後悔した。
バカ兄と目が合い、すべてお見通しだというような顔で笑われた。
「笑ってんじゃねえよきめえ」
「いや、青いなと思って」
橘は困った顔をして、睨み合う俺とバカ兄を交互に見つめている。
小学生の頃とは別人のように痩せてしまった彼女を見るにつけ、胸が痛い。
病気が彼女を連れ去らず、この地上に押しとどめてくれた。それだけでいい。それ以上を、俺は望んでいなかった。彼女の手料理を食べる日が来るなんて、こんな幸福。
食事を終えると、バカ兄はバカでかいジョッキ一杯に野菜ジュースを作った。
橘はそれを飲みほした後、「お兄ちゃん、またアレを入れたでしょ」と力なく呟き、気を失ってしまった。
「おい、大丈夫かよ」
焦る俺の前で、橘を抱き上げて部屋を出て行くバカ兄。
一人で居間に戻ってきて、「これでゆっくり話ができるな」と言った。
俺と二人で話したいがために、橘のジュースに何か盛ったのだろう。時代劇の悪代官みたいな男だ。
兄は冷蔵庫から缶ビールを取り出してテーブルに置く。
「君はこれね」と、原液多めのカルピスを俺の前においた。「氷が解ければ飲み頃だよ」とか、腹黒の癖に面倒見がいい。十年ぶりのカルピスは、懐かしい味がした。
「うちの妹、君のこと大嫌いなんだよね」
「だろうね」
「話してくれる?」
静かに怒る兄。
俺は頷き、昔を思いだす。
高校に入学する直前に、親父は俺に橘葉子を紹介した。
「ずっと片思いだったんだ。やっと射止めた。俺のヴィーナス」
とか言って、彼女の肩を抱いて笑う親父はほんっとうにキモく、俺は自分の馬鹿さ加減を死ぬほど悔いた。名前も知らないババァの戯言を信じて俺は、何の罪もないその女の娘を憎んできたのだ。取り返しがつかない。
俺の母が俺たちを捨てたのは、父以上に好きな男ができたせいだった。それを俺は長い間、誤解していた。橘葉子という女が、俺の母親を追い出したのだと思っていたのだ。
『パートの橘さんがね、粉雪君のお父さんと不倫してるのよ』
親父の妹が俺にそう吹聴し、不倫の意味を知るはずもない幼稚園児だった俺に、馬鹿丁寧に不倫相手(実際には違った)を紹介してくれた。
「こんにちは、粉雪君」
悪びれずに笑う橘葉子を憎んだ。
入学式の朝に親父が言った。
「知り合いの娘さんが、おまえと同じ小学校に入学するんだ。橘葉月ちゃん。仲良くしろよ」
憎い女の娘と俺が、どうして仲良くしなくちゃならないわけ? とは言わずに、わかったよと頷いて見せた。
新一年生なんて、半分幼稚園児だ。
体育館では、不安で泣きだす奴や、黙ってられない奴や、座ってられない奴がうじゃうじゃいて、動物園みたいに騒がしい。真後ろの女子たちがの呑気な会話もむかつく。パイプ椅子に座り、キッズフォーマルの短パンから伸びた自分の脛を眺めているうちに、俺の苛立ちは頂点に達した。
「名前、なんて言うの? 私、まい」
「私、橘葉月。よろしくね、まいちゃん」
俺は、鶏みたいに首を素早く真後ろに向けた。
黒縁眼鏡越しに、驚いている橘葉月と目が合って、俺はありったけの悪意を込めて、「こっち見てんじゃねえよ、この白豚眼鏡」とでかい声で言った。
さっきまでぎゃあぎゃあうるさかったはずの会場は、なぜかその一瞬だけ水を打ったように静まり、遠くまで俺の声が響いた。
橘葉月は、泣き出しそうに顔を歪めた。
ざまあ。
その日から俺は、ことあるごとに彼女をからかった。
クラスメイト達が彼女を蔑みやすいように、わかりやすい言葉で彼女を罵った。
皆が俺に同調し、いつしか彼女は教室に欠かせない、サンドバックに落ちた。
彼女は感情を押し殺すようになり、口を開かなくなった。
橘葉月の声は綺麗だ。しゃんしゃんと鳴る鈴の音に似ている。
眼鏡の下の瞳は澄み、目も鼻も口も眉も、きれいに配置されている。
豚というほど醜く太っているわけでもなく、勉強もよくできた。
俺が彼女をからかわなければ、これほど蔑まれはしなかっただろう。
「今すぐ土下座で葉月に謝れよ。でないと俺、おまえを殺しちゃうかも」
兄は笑っている。
「変態は金輪際、妹に近付くな」
「は?」
「妹の指を舐めたがる男が、義理とは言え弟になるなんて恐ろしいんだよ」
橘は、そんなことまで兄に話しているのか。
絆が深いどころの話じゃない。
「あいつがハチに刺された時のこと、知ってる?」
バカ兄は首を横に振る。
三年生にもなるといじめは陰湿になり、彼女は給食にありつけなかったり、教科書を隠されたり、長い髪を引っ張られたりした。
男子がふざけて教科書を取り上げても、女子が上履きに落書きをしても、橘はこれといって面白いリアクションを見せない。涙は流さず、媚びもせず。
クラスメイト達は、泣き喚き、許しを請う彼女を見たかったのだろう。
その頃には俺は、彼女を憎むことを忘れていた。
それでも苛立ちは消えず、時折思い出したように、彼女の欠点をあげつらう程度のことはしていた記憶がある。
眼鏡をコンタクトに変えて、もう少し痩せればいじめられることも無いだろうにと思いながら、ぼんやりと彼女の横顔を見つめる癖があった。
夏、何かのイベントの準備中のことだ。
担任の指示で用具室から暗幕を教室に運んだのは、室内で映画を上映する予定に従ってのことだった。
誰かが上履きを脱ぎ、机に上がり、暗幕を吊り下げなくてはならない。
「白豚がやればいいじゃんか」
「そうだね。ぷうりん、がんばれ~」
作業員は決まった。
橘は女子の中でも背が高い方じゃなかった。ましてや、普通に考えれば背の高い男子がやってしかるべき力仕事だ。その頃、クラスで一番背が高いのは、俺だった。
その時も俺は、靴を脱いで黙って机に上るあいつの横顔を見てた。
一瞬、橘は泣きそうに顔を歪めた。
目をぎゅっと瞑って、十秒くらい、片足を机の上に、もう片方の足を椅子の上に置いたまま動かなかった。
橘は靴下を脱ぎ捨てると、そのまま何事も無かったように作業を始めた。左足を引き摺っているのを不思議に思い、橘が脱ぎ捨てた白い靴下に目をやる。そして、靴下にくるまって死んでいる、黄色と黒の危険色のスズメバチを見つけた。子どもの親指くらいのでかいやつだ。一目でやばそうだとわかった。
「なあ、スズメバチに刺されたらどうなるんだ?」
俺の問いに、近くにいた鼻水垂らした村やんが、「死ぬらしいよ。なんか、毒が回って」と言った。
今なら絶対に信じないが、その時俺は村やんを信じた。
「おい、豚!」
俺が叫び、クラスはしんと静まる。机の上から俺を見おろす橘に駆け寄り、腰に抱きつき、床に引きずり下ろした。
「やだ、やめて!」
俺の腕の中で橘は、目玉を剥きだしにして、手足をばたつかせた。本気の抵抗だった。
暴れる橘を無理やり抑えつけ、足首を掴んで顔をよせた。
赤黒く変色し、ぱんぱんに腫れあがった親指を見て、ヤベエと瞬時に悟った。
「おい、村やん。解毒ってどうやるんだ」
「解毒? そんなの知らないよ」
「なになに、どうしたの?」
「ええ? ぷうりん、足、どうかしたの?」
クラスメイトは役に立たない。
俺は、橘の足の親指に唇をよせた。
その後、担任が駆けつけて、橘を保健室へと連れて行った。
足の中に残った毒針を取るために、橘は学校を早退した。
その数日後、病気で入院すると担任が告げたっきり、彼女は俺たちの前から姿を消した。
彼女が病気になったのは、俺のせいだったのだろうか。
俺は、早く大人になりたいと常に願うような、ませたガキだった。
まとわりついてくる女子も、身勝手な大人も、ふて腐れてばかりの自分自身も嫌いだった。
彼女が姿を消してから、俺は少なからず後悔した。
例え彼女の母が憎くとも、娘には何の罪もないことくらい、俺はとっくに知っていたんだ。
あの三年間を俺はどうして彼女に詫びようか。
話し終えるや否や頬に兄の拳骨が食い込み、俺はふっとばされた。
「俺、おまえのこと嫌いだわ」
口の中に鉄の味が広がる。
「おまえにだけは絶対、葉月はやらない」
当然だ。俺が彼女の兄なら、同じことをしただろう。
俺は立ち上がり、部屋を出た。
騒げば、せっかく眠っている彼女が起きてしまうと思ったから。
あの時、スズメバチが橘の足を刺した時、このまま橘が死んでしまえば、俺はきっと地獄に堕ちると思った。
彼女の死霊に呪われるのは嫌だ。そんな自己保身からの行動だったはずだ。
だけど、あの味。
舌先で甘露の出所を探った一瞬、彼女が小さく漏らした声や、歪められた眉、柔らかすぎる二の腕の感触。
甘いのは蜂の毒ではなく彼女の肌なのだと、六年越しに俺は知る。
同時に、俺はずっと彼女を好きだったのだと思い知る。




