16.どうしてあの時もっと
私は両目を見開いて、三瀬の横顔を見詰める。
『そういうの逆恨みって言うんじゃない?』
お兄ちゃんの言葉が頭をぐるぐる回る。
わからない。
三瀬は加害者で、私の気持ちなんてお構いなしの無法者で、意地悪で、絶対に許せない、許したくない。
なのに、どうしてそんな顔を私に見せるの?
まるで、傷ついた人みたい。そんな顔を見せられたら――――
「後悔してる、どうしてあの時もっと、素直におまえのこと」
三瀬が言う。
今謝られたら、私はきっとそれ以上、憎むことができなくなる。
どうしてか自分でもわからない。でも、三瀬への憎しみを失うことが怖くて仕方が無い。
「どうしてあの時もっとすなおに、おまえのこと好きだって、言えなかったのかって」
三瀬は、一言一言をかみしめるようにゆっくりと発声した。
明瞭に響く音は、私の感情を激しく揺さぶった。
「おまえは、俺の初恋だ」
だったらどうして、あの時私をあんなにひどくいじめたの?
「いまさらそんな虫のいい話されても、私が喜ぶとでも思う?」
私は叫んだ。
三瀬を置いて、教室を飛び出した。
その日から、私は三瀬を徹底的に避けた。
学校で、話し掛けたそうな顔をして三瀬が近づいてくると、すぐに逃げた。
親が提案する定例の食事会もぶっちぎった。
三瀬を無視したままで、二週間ほどすごした。
「ねえ、葉月は三瀬と喧嘩でもしたの?」
それは、夕食後に私の部屋で宿題を見てもらっている時のことだった。
お兄ちゃんが私の顔をじっと見つめて、呟いた。
「な、なんでそう思うの?」
「食事会に行きたがらないし、葉月は最近ちっとも彼の話をしないだろ。復讐はどうなった? もう気が済んだ?」
そうか。その手があった。
私は悪女になろうと決めた。
六月も終わろうとする、ある日の放課後。
私はひとりで正面玄関に立ち、下駄箱から靴を取り出し、いつものように裏返して振って、ほっと息をついた。
今日は、画鋲はひとつも入っていない。
靴を履いたその時、知らない男子生徒が私を呼び留めた。
男子生徒は、中庭へと私を誘い、「好きです、付き合ってください」と言った。
またか、と思う。他人の好意を退けることになれてしまった傲慢な自分を、嫌悪しないわけじゃない。
だけど、いちいち受け入れることのできない人の痛みを思いやるのは疲れるから、無心で口にする。
「ごめんなさい」
棘の少ない、便利な言葉だ。
男子生徒は帰って行って、私は「ごめんなさい」ともう一度呟く。
家に帰って期末試験の勉強をしよう。
気持ちを切り替え、一歩足を踏み出したとき、何かに躓き、バランスを崩す。
けれど絶妙のタイミングで伸びてきた手に腕を引かれ、すんでのところで持ちこたえた。
肘をついて身を起しているのは三瀬で、私はその足を跨ぐ形でその胸に顔をぶつけた。
どうしてそんなところで昼寝をしていたのか知らない。
三瀬は例のごとく「いってえな、ちゃんと前向いて歩けよ」と毒づき、私をつき離した。
「どけよ。誰が見てるかわかんねえだろ。また女子に水ぶっかけられるぞ」
私は立ち上がり、掌と膝に付着した芝と土を叩く。
「見られてもいいよ」
私は三瀬を見つめて微笑んだ。三瀬は眉を少し動かしたが、特に大きなリアクションは見せず、黙って立ち上がり、そのまま私に背を向ける。
その背に駆け寄った。
夏服の白いシャツ、腰のあたりの布地を指先で摘まんで引き寄せ、「ありがとう」と呟く。三瀬が振り向くのに合わせて、上目で瞳を見上げる。
「ありがとう。口が悪いだけで、本当は優しいよね。こうして冷たくするのだって、私がまた嫌がらせをされないように、わざとでしょ?」
「んなんじゃねえよ」
「私ね、今ならちょっと三瀬の気持ちがわかるよ。好かれるのはいいことなのに、どうしてか居心地がわるくなるよね」
嫌われて疎まれていじめられるのと、好かれて妬まれて嫌がらせされるのと、どちらも同じ位つらい。
三瀬は黙って、私の言葉を聞いている。
「お兄ちゃんが小さい頃から女の人にもてて、いろいろと苦労したんだって。だから、三瀬もそうじゃないかって言ってた。わざと怖い顔をして他人を遠ざけているんでしょ。でも本当は、もっと違う顔があるよね?」
私は三瀬の手を握る。
「その顔を、見たい。私も、三瀬が好きだよ。あの時、好きだって言ってくれて、すごくうれしかった」
繋いでいる三瀬の指先が、小さく震えた。
「なんで?」
三瀬は振り向き、私の瞳を覗く。
「私、ずっと三瀬を憎んでいた。高校に入って再会して、やっぱりムカツクって思って、復讐してやろうと思った。でもね、それは逆恨みじゃないかってお兄ちゃんに言われて、気が付いたの。私、きっと最初から三瀬のことが気になっていたんだ」
「だから、なんで?」
「そんなのわかんないよ、ただ私、綺麗なあなたに憧れた。アイドルを好きになるのと同じ気持ちで。憎んだのは、素敵だと思う人に、冷たくされるのはつらいから、私だって嫌いだから邪険にされても平気だって、自分を守った。でももうやめる、素直になる」
握り合った手に力を込める。
三瀬は手を、振りほどかない。
息を止め、目を瞑り、三瀬の背から胸に両腕を回す。
「ねえ、本当の三瀬って、どんな人?」
指先で、心臓の音がわかる。
同じくらい早く大きく、私の胸の拍動が聞える。
「唐揚げ」
声が、触れ合わせた背中から私の胸に直接響いてくる。
「次の食事の時、何食べたいか前に俺に聞いたろ。唐揚げ、食べたい」
「わかった、頑張るね」
三瀬は、私を突き放さない。
昔からずっと好きだったなんて、信じるはずないじゃない。
女嫌いのはずなのに、意外と簡単なんだね、三瀬。
帰りの電車の中で、お兄ちゃんに会った。
大学の講義を終えて、自宅へ戻る時、お兄ちゃんがこの時間の電車に乗るのを私は知っている。
進行方向から三番目の車両の、一番前のドアから入ってくるなり一瞬で私を見つけて、お兄ちゃんは笑顔で手を振る。後ろで、「あの人かっこいいね」と噂する声が聞こえる。
「葉月、熱でもある? 顔が赤いよ」
お兄ちゃんは、私の頬に手を当てて、熱が無いか確かめる。
「ちょっと、慣れないことをしたから、疲れちゃった。でも平気だよ」
私はお兄ちゃんに三瀬の話をするのをやめた。
考えてみれば高校生にもなって、私はお兄ちゃんに頼り過ぎだ。
お兄ちゃんがいなくても、私は何でも一人でできる。
本当は、少し怖かった。さっき三瀬に伝えた言葉は、もしかして私の本音かもしれないと思った。だけど違った。
だって、その証拠に私は今、がっかりしている。
満足したからじゃない。ずっと憎んできた、私の執着の対象。何年も何年も、心の中に溶けない氷みたいに残り続ける、それが私にとっても三瀬だった。
でも、それだけの価値が本当にあの人にあったんだろうか。
昔みたいに太った私が抱きついたら三瀬は、きっと拒んだだろう。
私は、あの頃の私を受け入れてくれる人を探している。




