13.そう言うの逆恨みって言うんじゃない?
「まあ、冗談はさておき」
お兄ちゃんの手は離れて、今はコーヒーカップを握っている。
温もりが消えた指先を、私は膝の上に乗せた。
コーヒーを一口飲んで顔を上げたお兄ちゃんはもう、いつもの穏やかなおにいちゃんに戻っている。
「葉月、ちょっと昔話をしないか。思い出すのも嫌だろうが、入院する前におまえはどんな小学校生活を送っていたのか知りたいんだ」
「それは過去の根暗エピソードを披露しろってことでいいの?」
「まあ、そう言うなよ。俺はね、葉月。おまえは賢い子だと思ってる」
「それは兄馬鹿ってやつだよ」
「葉月は、同じ年ごろの子たちと比べても、いろいろと苦労している分、我慢になれていると思う。なのに、三瀬という男に対してだけ、どうしてそう子どもみたいにかみつこうとするのか。いったい、どれほどひどいことをされたのか。お兄ちゃんに話してごらん」
お兄ちゃんは、微笑む。
私は、溶け残ったアイスや、生クリームでどろどろになったパフェグラスの底を睨む。
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あれは、小学三年生の頃だったと思う。
同じクラスの友達もどき――――名前は確か、そう、まいちゃんが、私に内緒話をした。
その日の体育はドッジボールで、最初はコート内にいた私だが、あっという間にあてられて、開始後五分でコート外に退場した。
外野に立った私のもとにはいつまでたってもボールは飛んでこず、はしゃいでボールをぶつけ合うクラスメイト達は、そばにいるのに遠く感じた。
その日、まいちゃんはお腹が痛いと言って、隅っこで体育座りをしていた。
「ねえ、ぷうりん」
その頃、私は男子には白豚、もしくは眼鏡、あるいはその両方。女子にはぷうりんと呼ばれていた。そう言うキャラクターが登場するアニメが放映されていたのだそうで、「ぷうりんはかわいい豚なんだよ」なんて言われても、フォローにもならないし、ああ、それならオッケー! とも思わない。
まいちゃんは、クラスで二番目にかわいい女の子だった。これは私の評価じゃない。本人がそう言った。
まいちゃん曰く、一番目は、あつこちゃん。
書道初段、英検三級、才色兼備で性格も良く、男女ともに好かれるクラスのアイドル。それがあつこちゃんだ。
まいちゃんがあつこちゃんの悪口を言う時の顔は、歪んでいる。言い終ってすっきりした顔のまいちゃんを見ると、彼女の中の悪いものが、私の体に乗り移ってしまったような気がした。
「ねえ、聞いてよぷうりん。あつこちゃんはね、粉雪君が好きなんだって。どう思う?」
「うぅぅぅん」
正直、どうでもよかった。でも、私が何か言うのを鋭い目をして待っているまいちゃんが怖くて、
「見た目はお似合いだね」
と、口にした。
あつこちゃんは、私に意地悪を言わないで、私を「葉月ちゃん」と呼んでくれる。
やさしい彼女には、三瀬みたいな意地悪男はもったいないと思ったし、お似合いと言ったのはあくまで見た目だけの話で、私としては適当に話を合わせただけだ。
でも、どうやらまいちゃんには地雷だったらしい。
「変なの! ぷうりんっておかしいね! 粉雪君って、いつも私のこと見てるし、一日に十回くらい目が合うもん。粉雪君は私のことが好きなんだよ。そんな見当はずれのことばっか言ってるからぷうりんはクラスに馴染めないんだよ」
私は面倒くさくなって、「そうだね、ごめんね」と謝った。
それでもまいちゃんの怒りは収まらなかった。
「粉雪君が選ぶのは、あつこちゃんか私か。ぷうりんが直接粉雪君に聞いてよ」
二択なのはおかしいし、嫌だと何度も断った。
けれど、「言わないと、ぷうりんが粉雪君を好きだって、皆に言いふらしちゃうよ」 と、まいちゃんが言い出し、あまりにしつこいので断わるのが面倒くさくなってしまって、最後には引き受けたのだった。
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「ここまで、一番うざいのはまいちゃんだよね。三瀬君の悪役っぷりはいつになったら発揮されるわけ?」
お兄ちゃんは首を傾げる。
「でもでもだって、もとはと言えば三瀬が入学式に私にあだ名をつけたから、私は皆にいじめられるはめになったんだよ? それだけでもう十分、三瀬は一番の悪役でしょ?」
「そうなの?」
「そうだよ! それで私は、その日の放課後に、三瀬を呼び止めたんだよね。話がありますって言って」
『おお、白豚が粉雪に告白だぞぉ』って、クラスの男子がはやし立てたっけ。
三瀬は、私が声をかけても無視をすると思ったのに、黙って言う通りに私のために教室に残ってくれた。はっきり言って、予想外だった。
私としては、『うるせえよ、話しかけんなよ白豚眼鏡』とかなんとか、冷たくあしらわれるに違いないと思っていたから、二人きりになった教室で『用事って何だよ』と真面目な顔して三瀬に言われて、ものすごくびっくりした。
私の話を聞こうと言う気持ちが、この人の中にあったのかと。
「じゃあ、葉月はその日、初めて三瀬に自分から話しかけたということ?」
お兄ちゃんが言い、私は頷く。
「そうだよ。私から話しかけたのは、それが最初で最後だった。絡んでくるのは、いつも三瀬の方」
「絡むってどんなふうに?」
「そうだな、私の髪型がもさいとか、めがねがださいとか、もっとやせろとか、おどおどした態度がいらつくとか、鉛筆の持ち方が汚いとか、給食もっと食べろとか、歩く歩幅が小さすぎておかしいとか。ほんと、細かいこと、いろいろ」
「へえ。それで、葉月は言われたことをいちいち未だに覚えているんだね」
「私、記憶力だけはいいの。悪いことばかりいつまでも覚えてる」
「へえへえ、そうかそうか。で、その頃三瀬君は、他の女の子にはどんなふうに接していたわけ?」
「全然話しかけなかったよ。女嫌いなのかなって思ってた」
「ふぅん」
お兄ちゃんは、目を細め頬杖をつき、悪い顔を見せた。眉と目との距離が相対的に近づくと、お兄ちゃんの男前っぷりはますます上がる。
「なるほどね。それで? 続けて」
どこか投げやりにお兄ちゃんが言う。
「まあそれで、なんだっけ、忘れちゃった」
「だからね、三瀬君を呼び出して、誰が好きなのかって聞きだしたいって話でしょ」
「あ、そうそう。『友達に頼まれたから、三瀬君に好きな人がいたら教えて』って言ったんだよね。確か」
「そしたら?」
「『いる』って言ってた。『誰なの』って聞いたら、『お前に関係ない』って言われた。まあね、実際その通りだから、引き下がろうとしたんだけど、まいちゃんはそれじゃ許してくれなくて」
まいちゃんはその時、教室の外で私たちの様子を見ていたのだ。
三瀬の返答は不十分だったらしく、もっとねばれとジェスチャーされた。
「面倒くさい子だねえ。まいちゃん。殴りとばしてやりたいわ」
「まあそれで、ひとりずつクラスの女の子の名前をあげて、消去法であつこちゃんが消えたから良かったんだけど、まいちゃんも消されちゃったから、結局次の日、私の教科書はぼろぼろにされた。たぶん、まいちゃんの逆恨み」
「それで?」
「うん、それだけ」
「それが、一番心に残ってるエピソード?」
「もっとあるけど、思い浮かんだのはそれ」
「へえ。じゃあ、もしも南高校でまいちゃんに再会したら、葉月は彼女に復讐しようと思う?」
「どうだろうね。子どものしたことだし」
「同じこと、どうして三瀬君には思わないの?」
「え?」
「え? じゃないよ。葉月こそ、そう言うの逆恨みって言うんじゃない?」
いつも私に激甘のお兄ちゃんが、突き放すように言った後、私の目を見ようとしなくなった。
逆恨み?
そんなこと、考えたことが無かった。
「もう出ようか」
お兄ちゃんはそう言って、私の返事を待たずに席を立った。
外へ出るとお兄ちゃんは、黙って私の前を歩きだした。
駅に着くまでの間、お兄ちゃんはずっと無言で、どこか怒っているように見えた。
話しかけるな。背中がそう言っているようだった。
ホームから振り返っても、ロータリーにお兄ちゃんの姿はもう見えなかった。
何となく浮かない気持ちのままで電車に乗り、自宅最寄りの駅で降りてすぐに、駅前の大型書店の入口へと肩を滑り込ませた。温かいオレンジ色の光が、私を呼んでいる気がしたのだ。
自動ドアが開き、私が店内へと足を踏み入れたその時、
「ああ、葉月じゃない!」
と、明るく声をかけたのはお母さんだ。
併設されたスタバでコーヒーを飲んでいる。
その隣にはお母さんの恋人が座っていた。
その人を一目見た瞬間にあれ? と思った。
目が会って、もしや? と。
そして、名前を聞いて、確信に変わった。
「葉子さんとお付き合いしてます。三瀬陽光と言います。葉月さんの話は、いつも葉子さんから聞いているよ」
「あ、はじめ、まして」
お母さんに促されるまま、隣の席に腰を下ろす。胸がどきどきと高鳴って、声が震えているのがわかる。
「うちの息子も、南校に通っているんだ。葉月さんと同じ一年で、名前は粉雪」
その人、同じクラスです。
小学生の頃の私を思いっきりいじめた人です。
今私がそう言ったら、二人は別れてくれるかな。
でも、お母さんの幸せをぶち壊すようなことは、できない。




