12.ひとり残らず駆逐したい
駅までダッシュで、五時台最後の電車に間に合った。
お兄ちゃんとは、午後六時に待ち合わせる約束をしている。
南高校と自宅の間に、お兄ちゃんの大学の最寄駅がある。
途中下車して、噴水広場に六時十分過ぎに到着した。
てっきり先に来て待っていてくれると思ったのに、お兄ちゃんはいない。
息をつき、もう一度周囲を見渡してみる。
夕暮れ、水飛沫に淡くかすむ広場にも、ロータリーの向こう側にも姿は無い。
時間に厳しく、待ち合わせに遅れたことは今まで一度もない。そんなお兄ちゃんが遅れるのだから、きっと何か理由があるに違いない。
『もう到着したよ。待ってるね』と短いメールを送り、しばらくきょろきょろしていたけれど、十五分ほど過ぎた頃、返信を告げない携帯電話を鞄にしまい、長丁場を覚悟した。
読みかけの文庫本を取り出し、活字に目を落としたちょうどその時、
「葉月! 葉月、待たせてごめんな」
と、お兄ちゃんの声が聞こえた。
すぐそばに、両手を胸の前で合わせて、端正な顔をすまなそうに歪めたお兄ちゃんがいた。
膝に両手をついて、はあはあと浅く早い息を繰り返している。
きっと走って来てくれたんだろう。
「葉月、一日ぶりだな。顔色もいい、元気だね、ありがとう」
「うん、お兄ちゃん。元気だよ。生きてるよ」
お兄ちゃんの大きな両手が、私の両方の手を優しく包み込む。
「本当は抱きしめたいけど、葉月は制服姿だから。男と抱き合っているところを見られたら、困るだろ。行こうか」
お兄ちゃんは私の右手指に左手指をからめ、スーツ姿のサラリーマンや、制服姿の高校生が家路を急ぐ舗道を、ゆっくり歩き出す。後から来た人たちが、私たちを追い越していく。
「葉月、何食べたい? この辺は学生街だから、安くてうまい定食屋や喫茶店がたくさんあるよ」
「お兄ちゃんのお薦めのところに行きたい。行きつけのお店ってある?」
「こってりタルタルソース唐揚げの定食屋と、絶品つるりん水餃子の中華料理屋と、あまあまどでかパフェの喫茶店。どれがいい?」
「パフェ! でっかいあまあまパフェ食べたい!!」
声が大きくなってしまった。今のはかなり子どもっぽかった気がする。頬が熱い。お兄ちゃんはそんな私を見て、
「葉月は絶対そう言うと思ったよ。その喫茶店、ミートソースのスパゲティもうまいんだ」
と、目を細くして嬉しそうに笑った。
ログハウス風の外観の一階が焼肉屋で、二階が目的の喫茶店。
店内は、天上が高く開放感があって居心地が良くてすごく気に入った。
頭の上では大きな白いファンが、ハンバーグステーキのいい匂いや、学生さんたちの楽しげな談笑を、みんなまとめてくるくるとかき混ぜている。
お兄ちゃんおすすめのメニュー、ミートソーススパゲティは、香ばしい牛ひき肉と、ほどよい酸味のトマトソースがたっぷりかかっている。麺の茹で加減も絶妙で、とってもおいしい。
粉チーズをたっぷりかけて、大きな口を開けて一気に完食。お兄ちゃんは、にこにこしている。
「でっっっっかい! お兄ちゃん、でっかいよ!」
食後に現れたフルーツパフェは、想像した姿の二倍の大きさで、衝撃のビジュアルに私は大興奮だった。
特注に違いない巨大なパフェグラスの底から、てっぺんに刺さったバナナまでは、私の肘から指先の長さよりもある。フルーツは苺、バナナ、メロン、パイナップル、キウイ、葡萄、オレンジ、ブルーベリー、そして季節外れのスイカまで乗っている。
下層にコーンフレークをびっしりと詰めて嵩増するようなファミレスは、この素晴らしいパフェを1200円で提供できる奇跡の企業努力を見習ってほしい。グラスの最下層までぎっしりと、フルーツやクリームが詰まってるのだ! ブラボー!! だけど残念。大きすぎて完食は無理だった。
「それでまあ、本題に入るわけですが、よろしいでしょうか」
お兄ちゃんは妙に畏まって言う。
食後の珈琲がちょうど運ばれてきたところ。
「俺はね、怒っているんだよ葉月」
そうとはとても思えない、穏やかな口調だが、お兄ちゃんの目は怖い。
「私が、無防備だったからだよね。ごめんなさい、お兄ちゃん」
「まあ、それもあるが、それだけじゃない。俺は、自分に怒っているんだよ! 俺がついていながらなぜ、大事な妹をそんな危険にさらすようなアドバイスをしてしまったんだろうと、自分の愚行を悔いているんだ!」
「大げさだなあ。お兄ちゃんがそんなふうに自分を責めても、過去は変わらないんだよ。前を向いて生きていこうよ」
その言葉はお兄ちゃんにじゃなく、今現在の自分に対して言い聞かせたようなものだ。
そうだよ。
これまでもこれからも、いちいち細かいことを気にしていたら、毎日元気に学校に通うなんて無理なのだ。何があっても私はもう、学校生活からリタイヤしたくない。あの頃とは違って、逃げる理由が無いんだもん。
お兄ちゃんは、「でもな、おまえの指がな、舐められたってどんなやり方で何秒くらい?」 とかなんとかもごもご言っているが、無視して話を進める。
「あのね、お兄ちゃん。私のファンクラブが出来たんだよ」
お兄ちゃんは口を「あ」の形に、両目を「@」の形に開いて動きを止めた。
「あれなぁ、面倒くさいんだよほんと。俺も作られたことあるよ。高校の時に、『バナナクラブ』って、だっさい名前のファンクラブ。嫌だったなぁ。ほんとに嫌だった……」
「バナナクラブ?」
「ああ、橘長月だから、バナナ。小学生の頃に、同じクラスの安田が気が付いたんだよ。俺でさえ生まれてから六年間気が付かなかった、俺の名前に隠されたバナナにさ。もう大嫌い、そのあだ名」
お兄ちゃんは頭を抱えた。
悪いけど、笑ってしまった。私も今まで気が付かなかった。お兄ちゃんの名前に隠されていた、甘酸っぱい秘密の果実。
「なあ葉月。ファンクラブってのは、本当に面倒なんだ。勝手に決まり事を作って、それを守らないものには制裁があったりして、関係ない俺にまでそれを押し付けてくるんだ。なんでか知らないけどいつも内輪もめばっかりして、そのとばっちりが俺にまで飛んできて、何度も職員室に呼ばれて教師に説教された。いっそ芸能人がたくさんいるような学校に転校したら? とか、もっと不細工に成形したら? とか、俺の苦労も知らない教師に半笑いで馬鹿にされたりとか、とにかくろくな思い出が無い!」
お兄ちゃんは思いだし怒りをしている。
「葉月、おまえには俺と同じような、あんな苦労をさせたくない! おまえにストレスを与える存在はひとり残らず駆逐したい! この世界を壊しておまえと二人だけの異世界に逃げてしまいたいよ」
お兄ちゃんのスイッチが入ってしまった。
私はお兄ちゃんが差し出した手を握りながら、それもいいかもしれないなぁと思った。
なんだかおかしくなって、ふふふと笑ったら、
「笑うな、俺は本気だ」
唇を尖らせてそう言ったお兄ちゃんの瞳はかすかに潤んで見えた。




