11.迷惑ですから
緑青さんは廊下を歩いている途中で、「あ、私ちょっと用事が」とかなんとかブツブツと言いながらどこかへ行ってしまった。
友達になろうとか言っておいて、仲良くしようと言う気はなさそうに見える。
謎だ。
教室にたどり着いたところでちょうどチャイムが鳴り、担任が出席簿を持って現れた。
担任、高野一子は、いつもモノトーンの服を着ている。
右隣の席の川澄さんが、つやつやの黒髪をいたわるように触れている。私と目が合うと、「おはよう、葉月ちゃん」と、親しげに微笑んだ。
「おはよう」と答えた時、私はきっと、うまく笑えていなかっただろうな。
私は、学校生活に対して極度に身構えている。
そのため、今もすごく緊張しているのだ。
義務教育の頃、私の学校は病院の中にあった。
大学病院内の学校は、生徒みんなパジャマ姿で少人数で、アットホームどころか田舎のおばあちゃんちレベルでくつろげるリラクゼーションスペースみたいなものだった。わからないことがあればすぐに手を上げて直接先生に質問できたし、疲れたら病室に戻って昼寝もできた。
病気は不運だったけれど、環境には恵まれていたんだなと改めて思う。
授業が始まっても、私はずっと緊張していた。
教壇のど真ん前の席は、背後の空間が広いから嫌だ。どうも落ち着かない。
二時間目と三時間目の間の短い休憩時間に、廊下側の窓から
「たっちばっっなさぁん! こっちむいてっ」
と陽気な声がする。
このクラスで橘は私一人だが、気軽に声をかけてくる男子なんて知らない。
顔を上げてそちらを見れば、三人並んだ男子の真ん中のアフロみたいな天然パーマが、スマホのカメラをこちらに向けて構えている。
私は眉間に思い切り皺をよせた。その顔を狙ったようなタイミングで、シャッター音が小さく聞こえた。
「おお! いいじゃんいいじゃん、不機嫌そうな顔もサイコー」
「それ、俺に転送して、はやくはやく」
三人組は、満足げに去っていく。女子と違って男子は見た目で学年を判別できないので、何年生なのかもわからない。
「うわあ……、橘さん、大人気じゃん」
斜め後ろから女子の声。振り向いても、誰かわからない。
好意的な響きではなかった。そういうことだけは、なぜかしっかりと伝わるものだ。
その後もいろんなことがあった。
トイレの帰りに後をつけられたり、休み時間のたびに知らない男子に名前を呼ばれ、写メを撮られたり、すこし席を離れている間に誰かに抜け毛を拾われたり(呪いの儀式かなんかに使われたらと思うと怖い)、廊下で知らない男子に手紙を渡されそうになった。
今朝の一件でトラウマになって、手紙は受け取らなかった。
朝、心に決めたとおり、放課後になって私は三年三組の教室を訪ねた。
「水戸さんはいらっしゃいますか」
ちょうど教室から出てきた女子に声を掛けたらその人が、「水戸くん、美少女が呼んでるよぉ」と大きな声で言うので参った。顔が赤くなるのがわかる。
だって美少女とか、言われたこと無いもん。白豚とか眼鏡とかデブとかブスとかそんなんばっかだもん。
すぐにぴゅんっっと飛び出してきた水戸先輩は、思っていたのと違う感じの人だった。
身長、おそらく百五十センチ前後で、その上ものすごい童顔なので、どう見ても小学生にしか見えない。口を開けば声変わりもまだのようだった。
「ああああ、あの、橘さん、どどどどどどどどど、どどどどどうして」
「ちょっと、落ち着いてください。深呼吸するといいですよ」
私が大きく吸って吐くのに合わせて、水戸先輩も深く息をつく。吸うときに両腕を広げるしぐさが夏休み早朝の小学生みたいでほほえましい。
「手紙をですね、読みました。それで、私はですね、そんないい者ではないんです。ファンクラブなんて作ってもらっても、特に力を入れている活動も無いので、みなさん応援のしようもないと思うんです。だから、やめてくれませんか、ちょっと、正直、迷惑なんです」
丸い鼻の上に二つ並んだ好奇心の強そうな黒目が、びっくりしたように私を見ている。
水戸先輩は、何も言わない。顔を赤くして口をパクパクしている。
もしかして聞き取れないほど声が小さいのかと思い、腰を折り、先輩の口元に耳を近づける。
すると、先輩は急に大声で、
「ささ最高だぁぁ」
と叫んだ。
耳孔にびんびんとこだまする先輩声は、私の声よりも高い。
ドン引きしている私をよそに、
「橘さんと同じ空気を、僕は今、吸っているんだぁ」
と声高らかに叫んだのだった。
私の怒りは一瞬で沸点に達した。
喉から出かかった罵声を、瞬時に働いた優秀な理性がなんとか押しとどめてくれた。
あまりにうるさくて、踏み潰してやりたくなったが、こんなんでも一応先輩なのでやめておくことにする。
「とにかく、お願い。私、困っているんです。出来れば注目されることなく、平穏な生活を送りたいんです。今日も、何かと人目を引くような嫌なことがたくさんあって、とっても疲れているんです。迷惑ですからやめてください!」
水戸先輩は、私の話を聞いていないようだった。
私が話している間ずっと、小さな声で「サイコーだ!」と呟き続けていた。
時間の無駄なので、さよならも言わずにその場を立ち去った。
私だってそんなに暇じゃないんだ。
今日はこれから、お兄ちゃんと食事の約束をしているんだから。るんるん。




