3.Si-xiong~白い扉~
「何故殺す」
薄暗い部屋。冷たい言いの壁に蝋燭の光がてらてらと反射する。男は胡坐をかいてこちらに背をむけたまま、言った。
「何故って、殺したいからだ」
男の周りに散乱した黒い物体。よく見えないが、飛び散る臓物や血から"死体"なのだと察した。
「…何故殺したいんだ」
「何故って、俺が強いからだ。弱い者が強い者に殺される。当たり前だろう」
「お前に手をかけられなければ、弱くとも生きていけただろうに」
男は少しだけ振り向き、横目にこちらを見つめる。その目だけが、蝋燭の光で白く光る。力なく、てらてらと。
「……こいつらをやらないと、俺が殺される」
「誰に」
「誰かに。だから、俺より弱い奴らが必要なんだよ」
男はそう言うと黒い物体を投げ飛ばした。物体は部屋の隅で佇む鉄の扉にぶつかると、ずるりと床へ落ちる。
「そこが出口だ。しかし、ここに留まれば誰かに殺される心配はない。常に強者でいられるんだ」
「そうか」
鉄の扉に手をかけると、男は再び言った。
「行くのか」
男の低く弱弱しい声を背中に聞いて、扉を開いた。
気がつくと、そこは長テーブルが置かれた華やかな食堂。その上座では上品にナプキンをかけた男が一人、食事をしていた。
「いらっしゃい、君もどうぞ」
男の笑顔に促され、皿が並べられた男の対面に座った。遠くの上座の男に聞いた。
「何を食べている」
「人だよ」
躊躇いなく答える男は、ナイフとフォークを上手に使い、肉を刻んでは口に運ぶ。人だと聞いても、目の前に盛られた美しい皿は食欲をそそる。フォークを握る気には、なれないが。
「うまいか」
「それはもう、格別だよ」
「何故、人を食べる」
「腹が減って何かを食すのに理由がいるのかい?」
男の手は止まることなく進む。
「人でなくとも食べる物なら他にも幾らでもあるだろうに」
「あるね。でも僕は人肉が好きなんだ。君にも好きな食べ物くらいあるだろう?」
男はにっこりと微笑み、ナイフを勢いよく皿の肉に突き刺した。その瞬間、殺人現場を目撃したような戦慄が走った。男の皿の上に、腹部を刺された人間が乗っているような、そんな、生臭い空気に捕われたような気分だ。男はナイフを肉に突き刺したまま、にこやかに言った。
「人間はそれ自体を特別な存在だと自負しているようだが、実際は違う。ただの動物で、死ねば当たり前に腐る。牛や豚とどう違うんだい」
B級映画の殺人鬼がよく言う台詞を、この男は本気で言っている。男はナイフを突き立てたまま手を離し、ナプキンで口元を抑えた。肉の上で鈍く光るナイフが、何か禍々しい物に見えてならない。
「何故、虫や動物を殺しても罪にならないのに人を殺すと罪になる」
「……」
「君が僕に問うたのは、そう聞いているのと同じだよ」
「ならば、その問い掛けに答えたらどうだ」
「答えるまでもない。僕はさっき言ったばずだ。牛や豚とどう違う、とね」
男はそう言うと席から立ち上がり、壁に飾られた絵の前に立った。その近くには豪華な金の扉がある。それに近付きノブを捻ると、隣で絵を眺める男が言った。
「そこが出口だ。行くのであれば止めはしないが、ここにいれば飢えとは無縁だ」
「どうもあなたとは食の好みが合わない。ここにいてはどのみち飢える」
「本当に食べ物に困ると、好みなんて関係なくなる。生きるうえでは必ず何かを口にしなくてはならないのだから」
絵を見つめながらそう言う男の口元は怪しく吊り上がり、肉の脂で光っていた。それを見て、躊躇うことなくノブを最後まで捻った。
目を覚ますと、そこは自室のベッドの上。見慣れた天井に安堵していた。なんだか、とてつもなく不快な夢を見た気がするからだ。得も言われぬ緊張感で少し汗ばむ額を拭い、寝返りを打った。そこには、見知らぬ女がこちらを向いて横たわっていた。息を飲んでベッドから飛び上がると、背中が何かにぶつかった。
「どうしたんだ、そんなに慌てて」
振り返ると、優しく肩を支える男がいた。自室に何食わぬ顔をしているこの男は誰だ。いや、そんなことはどうでもいい。目の前の女は人形にも見えるが……死体だ。何故かはわからないが、死体であるという絶対的な確信があった。それと添い寝していたことに混乱して、上手く言葉を発せない。震える手で女を指差すと、男は「ああ、」と声を漏らす。
「彼女か。彼女は僕の妻さ」
「妻……?」
男はゆっくりと"妻"に近付き、優しく頬を撫でた。滑らかな手つきと柔らかな笑顔に深い安城を感じたが、その様子が実に切なくも思える。"妻"は、死んでいるのだから。
「何故、墓を作ってやらないんだ」
「何故って、彼女を愛しているからさ」
男の視線は彼女に注がれたままに、言葉だけが返される。
「幾人という女をこの腕に抱いてきたが……彼女が一番美しい。死んでいるからこそ、その沈黙に僕は魅入られた」
男の言葉に湧いた疑問。ふと、それを言葉にしてみた。
「お前が彼女を殺したのか」
不謹慎とも思える言葉に、男は視線をちらっと向けただけで何の動揺も示さない。そして、独り言のように話し始めた。
「……女とは海よりも深く、山よりも気高い。男を惑わす曲線美はまさに芸術だ。こんなにも美しい生き物が、ふとした拍子にまるで動かなくなる。完全に、僕だけのものになる」
「死んだ人間など、愛せない」
「それは君が乳離れできていない子供だからだ。本当の愛とは死してなお続くものだ」
「しかしお前は死んだ女が好きなのであって、生きた女が好きなわけではないのだろう」
男は"妻"を見つめ、愛おしそうにその頬を撫でるばかり。否定も、肯定もしない。物体である"妻"はただ、されるがままに。
「死こそ究極の美だ。この女も生きていた頃は我儘で、色情家で……ろくでもなかった」
「だから殺したのか」
「……何も言わない。ただそこに佇んで僕だけが触れることができる。これ以上の快楽を、僕は知らない」
男はろくに質問にも答えずに、貪るように"妻"の唇に吸いつく。冷たい身体を撫でまわし、その欲望を満たそうとする。情けなくも、その冷たい情事を目の前にして興奮している自分がいた。息を荒くして目を奪われていることに気付き、慌てて部屋の扉へと歩み寄った。
「……行くのか」
熱の籠った男の声。振り返れない。握り慣れたノブに手を伸ばした。
「このままだと変な世界に巻き込まれそうだ」
「ここにいれば女に困ることはない。困らせられることもない。本当の愛を手にできる」
「そんなものはいい。なんだか……不潔だ」
「乳離れできていないうえに初心ときたものだ」
男が鼻で笑うと、ベッドの軋む音がした。それを背中に聞きながら、扉を開いた。
扉の向こうはただの暗闇だった。少し冷たい獅子の感覚には覚えがある。ひたひたと歩き進むと、大きな鉄格子があった。その向こう、ランプの下で子供がこちらに背を向けて立っている。
「…そこで何をしている」
「何って、僕はここにいるだけだよ。ずーっと」
「何故ここにいる」
「何故って、出られないからだよ」
子供は背を向けたまま、言った。
「あなたは知っている。僕が何故ここにいるのか、僕が何故、出られないのか」
鉄格子の扉は、見覚えのある白い扉であることに気付いた。その中に閉じ込められた子供。それが誰で、何故ここにいるのか……理解できた。
「そうか、怨んでいるのか」
「違うよ」
子供はゆっくりとこちらを振り返る。その顔は、綺麗な青で塗られた髑髏であった。
「あなたは3つの扉を通ってここへやってきた。どの部屋にも留まらず、ただ、出口だけを選んで」
冷たい空気が出入りする、かつては眼球が収まっていたはずの暗い二つの穴。それがじっと、こちらを見つめる。
「この部屋に留まるか、それともあなたは、同じように出て行くか」
「……きっと、白い扉を開ける」
「……そう。やはり、あなたは先程の3人と同じだ」
「違う。考え方もまるで違う」
「しかし同じだ。あなたはただ、彼らよりはマシだと自分を慰めたかっただけだ」
ことも歯白骨と化した手を格子に絡ませる。
「あなたは青がどうしようもなく好きだから、白いこの扉を何度となく開ける。出口へ向かうことなく、その身が果てるまで」
「……」
「嗜好を尽くすことも、愛しめでることも、生きることも……夢に似ている」
「生きている時間そのものが現実だ。夢とは違う」
「あなたがかの3人と同じように、現実と夢も多少なりとも似ている。夢から醒めた時に気付く。君と3人が何故同じで、現実と夢が何故似ているのか」
子供は再び背を向けて格子から骨の指を解き、ひたひたとランプの下へ歩み寄る。
「せいぜい、夢現を楽しむといい。目が覚めるその最期の瞬間まで」
子供がそう言うと、頭から下が煙のように消え、からからと音をたてて床に転がる青い髑髏だけがそこに残った。
目を覚ますと、そこは自室だった。恐る恐る横目で隣を確認するが、何もない。どうやらやっと、長い夢から覚めたようだ。少し寝過ぎたのか頭が痛み、ぼうっとする。身体を起こしてベッドに腰掛け、大きく深呼吸した。慣れた床の感覚に、見慣れた内装。顔でも洗ってすっきりしようと、出口の扉へと歩み寄る。ノブに触れた時、ふと、部屋の隅の白い扉が目に入った。ノブを捻りかけた手を引っ込めて、クローゼットへ歩み寄る。そして、白いクローゼットの白い扉に、手を伸ばす。
何がしたいわけではない。ただ、見たかった。そうだ。この扉の向こうにこそ、嗜好や、愛……生きることそのものがある。自分が求めた物が、すぐそこにある。だから出口を選ばない。ここが留まるべき部屋で、選んだ部屋なのだ。
白い扉を開き、薄暗い中を見て……ほっと息をつく。
これが、夢と現の境なのだ。
①Edgar.32~47 ――煙の塔混沌編
・Modell
|ヘンリー・リー・ルーカス
|アルバート・フィッシュ
|カール・フォン・コーゼル
|ジェフリー・ダーマー