2.Rouge & Nia~妖精の塔~
西風は女を孕ませ、男を狂わせる。そんな古い言い伝えが残る国に住む人々。彼らが信仰するのは、火の妖精を象徴する蜥蜴だった。土を這って恵みをもたらし、火を以て人々の生活に光を温もりを与える。その国の中でも、妖精が住むと言われる森の近くにある里は"妖精の里"と呼ばれていた。そんな里の近くには、一国を治める領主の城がある。城の西側に高く聳える古い塔。その天辺に住む少女こそ、この物語の主人公である。
彼女は退屈そうに西の窓辺で頬杖をつき、果てしなく広がる森を眺めていた。そよそよと風が彼女の白い肌を撫ぜる。亜麻色の髪が靡き、しっとりとした赤い唇に張り付く。子犬のように円らな黒い目が、唇を見ようと鼻先へ寄る。彼女が張り付いた髪を細い指で取り払うと、背後でノックの音がした。彼女は無言で振り返る。がちゃがちゃと、幾重にも重ねられた鍵が解かれる音がする。この時、彼女はそれが鍵の音だとは気付いていない。いや、知らなかったのだ。自分が閉じ込められているということさえ。
「ご機嫌よう」
入って来たのは、一人の男。彼女の話し相手は、身の回りの世話をするこの男だけだった。彼女は男の顔を見てすぐにまた窓辺に頬杖をついた。
「今日は赤いドレスなのね」
「そうだよ。火の妖精である君にぴったりだ」
「妖精とは不便だわ。外にも出れなくて、ただただこうして塔に籠りきりで」
男はドレスをソファーにかけ、窓辺の彼女の肩に両手を置いた。
「普通の人とは違うのだから、仕方ないさ。だから私がいるのではないか。君だけのために。そして君は、私だけのために」
男はそう言うと彼女を抱き上げ、ベッドの上に下ろした。そしてそのまま彼女の服を脱がせ始める。彼女は何も言わず、男を見つめたままそれを受け入れる。
「私だけの、火の妖精。今日も美しい」
男は彼女を妖精と呼んで愛し続ける。そこには御伽話のようなときめくものはなにも無く、男の動きに連なるどろどろとした生々しい熱と吐息が漂うだけ。恍惚に赤らんだ彼女の表情だけが、どこか儚く美しい。そんな、物悲しい一室で。
「妖精とは楽ね」
「そうだよ。君はただ美しくして、ここにいればいい」
男はそう言って、彼女の身体を綺麗に拭いてドレスを着せた。広く華やかな部屋に見合った美しい彼女を見て、男は満足そうに笑う。無言で大人しく椅子に座る彼女の髪を梳かし、その頬に口づけをした。
「また来るよ」
男は彼女の髪を愛おしそうに撫でて、部屋から出て行った。彼女はその視線を扉の方へ向ける。かちゃかちゃと、鍵がかけられる音。彼女はそれを耳にしながら、窓の外を見た。先程よりも白っぽくなった空は、もう直に赤く染まろうとしている。あの森の向こうに自分と同じ火の妖精がいて、空を燃やしている。男にそう言い聞かされ、彼女はそれを信じていた。朝を迎えようとする時間には、彼女が火の妖精として空を燃やすから向こうは夕暮れを迎える、と。閉じ込められていることも、嘘をつかれていることも知らない彼女は西日の温かさにまどろみ、眠りについてしまう。そして、長い悪夢から……覚めることとなる。
「起きなさい。塔に閉じ込められし哀れな姫君」
聞き覚えのない声に、彼女は飛び起きた。開け放った窓の外はすっかり暗くなり、森は月明かりに照らされている。彼女が声の主を探してベッドの方を見ると、そこには見知らぬ男が足を組んで座っていた。白い衣服に、紳士的な風貌。伏せた顔は白い帽子のつばに隠れて見えない。
「……誰?」
男は帽子を抑えたまま、顔を上げる。真っ赤な髪、真っ赤な瞳。薄暗い部屋でさえ、ぼんやりと浮きあがって見える程に男の姿は眩しかった。ぽかんとしている彼女に男は優しく微笑み、言った。
「私は火の妖精です」
「…火の妖精は私よ」
「そうですか。では、何故その髪もその瞳も赤くないのです」
「……知らないわ」
「ならばあなたは火の妖精ではない」
男に鼻で笑われて腹が立った。彼女は椅子から立ち上がり、男の目の前まで歩み寄る。男は彼女に見下ろされ、首を傾げた。
「私は妖精だからこの塔にいるの。ただ美しく、黙ってここにいなくてはならないのよ」
男は悲しそうに笑って、言った。
「いいですか? あなたは騙されている」
彼女の目の前で、男はぼうと燃え上がって消えた。彼女が呆気に取られていると、
「あの男はあなたを塔に閉じ込めるためにずっと嘘をついてきたのです」
いつの間にか、彼女が先程まで座っていた椅子に男は腰掛けていた。窓の外を見据える男を見つめ、彼女は思った。この男は、本物の火の妖精なのだと。だとしたら、赤い髪も瞳も持たず、火すら操れない自分は……
「……私は、ずっと騙されて」
「そうです。挙句にあんな卑しいことをして。ひどいとは思いませんか?」
男は眉を顰めて彼女を見た。
「卑しいことって、何のこと?」
「……」
男は溜息をつき、窓の外へ目をやった。
「我を忘れて快楽に酔いしれる……"あの行為"ですよ」
「私も一緒になっていい思いをしたわ」
「……あなたはあの男の顔をちゃんと見ましたか?」
彼女は思い出そうとしたが、思い出せない。見ていない。あの男の顔自体、よく覚えていない。妖精である自分しか、まともに認識したことがなかった。困惑した表情で立ち尽くす彼女を、男は哀れむような目で見つめる。その赤い瞳を見て、彼女は泣きだしそうな顔をした。
「欲望に溺れきった醜い顔。愛しているのはあなたではなく、あなたとの"あの時間"なのです」
「…そんな」
彼女はついに泣きだしてしまった。その場にへたりと座り込み、両手で顔を覆う。男は彼女の前にしゃがみ込み、優しく頭を撫でた。
「泣かないでください。妖精でなくともあなたの美しさは本物です」
「妖精でないならここから出たいわ! でも……あの男がいるから私は出られない! ずっとこのまま!」
「私が助けて差し上げましょう」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で男を見つめました。
「…本当に?」
「はい。そしてあなたを本当の妖精にしてさしあげましょう」
男……いや、火の妖精はそう言って頬笑み、彼女の手を取った。その細い指に自分の指を絡ませ、そっと顔を近付けた。彼女は涙を溢れさせながら、目を瞑る。身体を包み込む炎。激しく、熱く。何処か優しい。彼女が目を開けると、火の妖精の笑顔がそこにあった。
「今から10カ月後。あなたは私の子供を産みます。その子が生まれたらあなたは私と共にこの塔を出るのです。いいですね?」
「……わかりました。あなたを信じます」
「美しい姫君。約束の日に迎えにきます」
火の妖精はそう言うと、炎に包まれて燃え散るように消えた。彼女は一人になったベッドの上でそれを見つめ、静かに涙を流した。
彼女はただの人間であったにもかかわらず塔に閉じ込められていたことを知り、男に対して憎しみの念が込み上げていた。しかし、これまで生活してこられたのも男がいたからこそ。真実を知っても何ができるというわけでもなく、彼女はいつもと変わらぬ日々を送っていた。唯一変わったことと言えば、大きくなってゆく彼女の腹部。男は歓喜し、より一層彼女を愛した。その時、彼女は男の顔を見て火の妖精の言葉の意味を理解する。塔での生活で時折感じた恍惚も、もはや虚無感と嫌悪感に変わっていた。
そんな彼女を支えていたのは、火の妖精との約束だった。彼が迎えに来てくれた時、彼女は自由と妖精としての自分を手にするのだと信じていた。そして、月日も流れたある日の晩。
「こんばんわ」
夜も更けて月明かりが差し込む窓辺。そこに、火の妖精が腰かけていた。彼女は嬉しさのあまり頬を緩ませ、身重な体をゆっくりと起こす。
「妖精さん……まだ子供は産まれていないけれど、迎えにきてくださったの?」
「いいえ。本当のお迎えは3日後。今日は大事なお話があってきたのです」
火の妖精はあの日とは違い、真剣な表情をして彼女を見つめていた。その様子に、彼女も聞くのが不安になってくる。戸惑う彼女を見て、火の妖精は強張った表情を和らげて微笑んだ。そして、彼女のベッドに歩み寄り、腰掛ける。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。あなたを迎えに来ることも、妖精にして差し上げる約束も破ったりはいたしません。ただ、あなたの真実についてお話しにきたのです」
「私の真実?」
「そう、あなたは……」
西風が吹き込む、夏も間近い湿った夜空に彼女の小さな泣き声と火の妖精の優しい慰めの言葉が響く。その晩、彼女は火の妖精の炎に包まれ久しい恍惚のうちに眠りに落ちる。彼の優しさと温かさに彼女は目覚め、火の妖精を心から慕うようになっていた。真実を知り、愛する気持ちを知った塔の妖精はこの夜初めて一人の女になった。
火の妖精と会った3日後。彼女はずっと暮らしてきたその一室で子供を産んだ。男は嬉しそうに赤ん坊を抱きかかえ、言った。
「よくやったね。君と私の子供だ。人間の地を引くとはいえ、可愛らしい女の子じゃないか」
「ええ」
「君はゆっくり休みなさい。私は少し用事を済ませてくるから」
男は赤ん坊を抱いて部屋を出て行った。かちゃかちゃと鉄がぶつかり合う鍵の音。彼女はその音に吸い寄せられるように扉に近付く。
「……まだ、そこにいるの?」
「ああ、いるよ」
かちゃかちゃと響く、鉄の音。
「…この子は、あなたの子供ではありません」
彼女がそう言うと、音がぴたりと止んだ。そして、扉の向こうから男の低い声がした。
「…どういうことだ」
「この子は火の妖精との間にできた子供よ」
「何を言っているんだ。火の妖精は君だ」
「全て、火の妖精から聞いているわ。私はただの人間で、騙されていたのだと」
扉越しに交される会話は、冷たく壁に反射するばかり。すると、男は再び鍵を触り始めた。いつもより激しく、がちゃがちゃと。
「騙してなどいない! 私は……!」
「私を自分のものにしたかったのでしょう。でも、もう終わりにするわ。私は火の妖精を愛してしまった」
「馬鹿なことを言うな! お前は私の……!」
「そうね、私はあなたの……」
男がやっと鍵を解いて扉を開けると、そこは火の海。家具から天井まで燃え上がる中、男が目を凝らして彼女を探していると、西日が差し込む開け放たれた窓があった。男は茫然として、その手に抱く赤ん坊を見る。すると、赤ん坊の髪も瞳も、真っ赤な火の色に変わっていた。男は怒り、鍵をかけるのも忘れて部屋を出た。彼女は本当に、火の妖精に連れ去られたのだ。
男は蜥蜴が嫌いになった。火の妖精が憎くて堪らなかった。そんな男は、狂ったように蜥蜴を見つけては殺していた。塔の火事と男の噂はたちまち里に広がり、男の意とは反するように妖精への信仰は深まっていった。そして、あの言い伝えにも再び火がつく。"西風は女を孕ませ、男を狂わせる"。
新しく建て直された塔には、彼女の娘が住んでいる。男の手で育てられ、また、美しい妖精として愛でられるのだ。
①Edgar.11~21 ――ノーラクラウン編