1.Diana~月と百合~
東の国ではかつて、月には兎が住んでいると言われていた。丸い光の中にぼんやりと浮かぶ黒い影は時に蟹、時に美女の横顔であるされ、地上の人々に美しい幻想を見せる。神秘と信仰を仰ぐ身近な天体、月。その光に、誰もが美女の姿を思い描いてきたことだろう。日に日に遠のく魅惑の光は、今日も夜空に輝く。
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荒れた大地の上で傷を舐めあうように細々と暮らしていた人々。そんな彼らの生活に追い打ちをかけるように、火の雨は降った。何の前触れもなく、ただ人々を狙い打つかのように痛んだ星に雨は降り注ぐ。命からがら生き延びた人々は、それを"神の啓示"だと信じた。
「このままではいけない。かつての栄光を取り戻さねば」
「神を崇め奉り、貢物をしなければ」
「過去の過ちに対する怒りを鎮めるためにも、発展を抑制しなければ」
神の啓示に対する様々な見解は、いつしか大きな戦争へと発展していく。そんな戦乱の世に名を馳せた一人の女騎士。それが、この物語の主人公である。
古の王朝で軍を率いる少女がいた。彼女は白馬に跨り、華奢な身体で槍を振るって戦場を一気に掌握する……と、言われている。確かな情報がなかったのは、彼女が赴いた戦地で生き残った者が殆どいなかったからだ。生きて戻った兵士は怯えるばかりで、ろくに話もできなくなっていた。その理由も知れぬ強さに敵国は恐れ慄き、自国は彼女を勝利の女神と称えていた。そんな彼女と肩を並べて話をすることに成功した男が、一人……いる。
「あなたが有名な女騎士ですね」
「……誰だ」
月明かりで照らされた、戦の跡。この地に血を注いだ張本人である彼女。彼女は戦が終わるといつもその地をぐるりと徘徊する。懺悔? そんなものではない。ただ、死体の花道を歩く。何も思わない。何も感じない。強いて言うなら、戦いに身を置いていることを再確認しているのだ。そんな、いつもの夜のこと。
「私はただの行商人です。あなたの噂を聞いて遥々参りました」
静寂の戦地に現れた、一人の男。彼女はふと、振り返る。鼻まで覆った兜からは、一本に縛った白い髪が背中に垂れている。傷一つない重そうな鎧には似つかわしくない細い首。彼女は兜を親指で軽く上げて男を見る。男からは、陰になって彼女の顔を見ることはできない。彼女はじっと男を見たかと思うと、マントを翻して言った。
「去れ。私に近付くな」
彼女は冷たく言い放ち、男に背を向けて歩き出した。
「勝利の女神ともあろうお方が、行商人相手に殺気を立てずともよろしいでしょうに」
「お前の身分などあてにならん」
「せっかくの美しいお顔が、鬼の形相ですよ」
彼女は男の言葉には耳も貸さず、闇の中へ去って行った。男はその背中を見送り、小さく笑う。この男、行商人と名乗る敵国の密偵である。彼は大きな弊害ともなりえる彼女のことを調べるために単身でやってきたのだ。彼女の強みや弱み、何でもいいから情報を得るために。
男は彼女に戦場を徘徊する習慣があることに気付き、夜な夜な彼女に近づいた。しかし、彼女の心の壁は厚く、何度話しかけても冷たく突き放されるだけだった。
「美しい月夜ですね」
「またお前か」
あどけなさが残る少女の声は、疲弊したように低く兜の向こうから洩れる。彼女は男をすっと横切って去ってゆく。
「あの、」
行ってしまう。そう思った。しかし……彼女は、振り返った。靡く白髪。月明かりを反射する兜と鎧。そして、気高さと貫禄の間から滲み出る女の匂い。鎧から覗く白いうなじが、妙に艶めかしく見えた。
「…何だ」
彼女に見惚れていた男は我に返り、慌てて話しだす。
「いつも、鎧を着ておられるのですね」
「…戦場でひらひらと飾り立てたところで邪魔にしかならないだろ」
「レースをあしらったドレスに靴、首元を彩る宝石。あなたが纏えば、さぞ美しいでしょうに」
「お前は私をおだて囃しに来たのか」
本心だった。
「これだから、男は」
雲が月を覆い始めた。闇に陰り始めた空の下、彼女は男に向かって槍を突きつけた。
「本能のままに女を追いかけまわしては尻尾を振って。私はそんな男に屈するような馬鹿な女ではない。いい加減に去れ。何度来ようが、私がお前に心解き放つことはない」
「……」
本心、なのか。
「…あなたは本当は心を明け渡したいのですね。重い鎧を纏い、女としての喜びを捨てて……可哀想に。私なら、あなたを幸せにできる」
男は必死だった。自分でも、わからない。一体どうしてこんな言葉がつらつらと出てきたのか。彼女はそんな男の困惑など知る由もない。鼻で笑い、槍の切先を男の胸に当てた。
「身分が明らかになるまでは見逃してやろうと思っていたが。手に負えない馬鹿だったようだ。ここで死体の山に加えてやろう」
「……商人として国々を周り、沢山の物を見て、聞き、出会い……私なら、あなたの美しさに見合う美しい生き方を与えられる」
だから、どうしてこんなこと。こんなことを口走り、そして……一輪の百合を、差し出してしまったのか。男は彼女に花を差し出し、跪いた。その目は震え、頬からは冷や汗が伝っている。このままでは殺される。このままではまた突き放される。どうして自分は、彼女にこんなにも……様々な感情が頭を過り、混乱していた。しかし、それは彼女も同じだった。槍を握る手が、震えていた。
「……私はあなたを愛しています。強く、美しく、気高い……清らかなる私の白百合」
男は百合を差し出したまま、苦しげに俯いた。そうだ、これが……本心だ。顔も知らぬ月下の少女に心は捕われてしまった。自国に対する罪悪感、死を目の前にした絶望。それらを含んだ、愛の告白。
「……綺麗だ」
初めて聞く、少女の優しげな声。男が顔を上げると、彼女は槍を引っ込めて手を差し伸べていた。そして、驚いて固まっている男の手から百合を受け取る。
「久しぶりに、花を見た」
兜越しに花を慈しむ彼女。雲が晴れ、戦場の跡を月明かりが照らし出す。白い光の下。唯一見える口元は小さく笑っていた。蕾のように慎ましく、血のように赤い唇。少女の面影を感じる、無邪気な微笑み。男は跪いたまま、それを見つめる。安堵。いや、無心。この時ばかりは何も考えられなかった。彼女が笑ってくれたことが……信じられなかった。夢でも見ているような、そんな感覚だった。
男と彼女の距離は、一輪の花をきっかけに少しずつ縮んでゆく。それと共に、決戦の日も近付く。男の任期も終わりを迎えつつあったのだ。使命を果たせないかもしれないという焦り。彼女とぎこちない会話を交わす喜び。男は迷った末に、彼女に言った。
「君は本当に完璧だ。隙が無く……悪い言い方をするなら、近寄りがたい。何か……苦手な物はないのか」
「……」
彼女は男をじっと見つめる。兜のせいで、男からはその目が見えない。どんな顔で、どんなことを考えて自分を見つめているのか、わからない。
「……私に苦手なものなどない」
ふと視線を反らして言い放つ彼女。変な緊張感から解放はされたものの、このままでは終われない。男は困ったように笑い、言った。
「そんなことはないだろう。皆、一つや二つ持ち合わせているものだ」
「…そうだな」
声の調子から、"話す"と男は悟った。ごくりと生唾を飲み、彼女の言葉を待つ。すると、彼女は槍を握りしめて立ち上がった。
「それに対する私の羨望は、いつしか恐怖に変わっていた」
「…"それ"?」
男は彼女を見上げながら、首を傾げる。
「時として、克服せんとする自分がいる。本能に従おうとする自分がいる。だが、できない。この葛藤こそが私を動けなくする唯一の鎖だ」
「……」
「だから私は、断ち切ってきた」
これこそ、求めていた情報。
「…羨望であり恐怖である、"それ"、とは?」
彼女は、男を見下ろした。それを見て男の背中に戦慄が走る。殺される。そう、思った。
「…お前だ」
彼女は槍を振りかざした。男は咄嗟に避けたが、兜から滲み出るその剣幕が本物だとわかると即座にその場を立ち去った。
彼女は欠けた月に見下ろされながら、去ってゆく男の背中を見つめていた。いつもの戦場。いつもの夜。その背中が、見えなくなるまで。
決戦の日は訪れた。彼女は前線に立ち槍を振るっている。そんな彼女を、男は遠くから見つめていた。どうしても彼女に伝えたいことがあったのだ。男は意を決して、戦場へと足を踏み入れる。叫び声と血飛沫が交差する中、男は走る。敵に囲まれながら白馬に跨る少女に、駆け寄る。すると、少女の手が兜に伸びた。ゆっくりと上げられる兜。下から上へ、幼さが残る白い鼻筋が日の下へ晒される。そして、白い白髪が風に靡いた。白目の部分が黒い、赤い瞳の目。それは……人間には思えなかった。男が足を止めると、彼女と目が合った。彼女の赤い瞳が驚いたように男を捕えると、悲しそうな表情へと変わってゆく。そして、悲しそうな顔を辛そうに歪め……笑った。
目の前が真っ暗になる。感覚すらも定かでない。自分は死んだのか。男が茫然と考えていると、何処からともなく声がした。
ーーまた、会えるなんてなーー
彼女の声。いつもの強い口調とは違い、柔らかく、温かな声色。男はその声に向かって叫んだ。
「何処だ! 何処にいるんだ! 私は君に伝えなくてはならないことが……!」
ーーこの鎖だけは、断ち切れそうにないのだ。それは私が私でなくなるということだーー
「隣国が攻めてくる! 俺と一緒に逃げるんだ!」
ーー私はこの目で生まれたがために戦場で生き、戦場で死ぬことを運命づけられたーー
彼女の声が、遠くなってゆく。
「……頼む、行かないでくれ! 君を愛してる!」
ーー……私も、愛してるーー
目が覚めると、男は灰色の空を見上げていた。雨に打たれ、地面に仰向けに横たわっている男。男は勢いよく起き上がり、辺りを見た。そこには幾千もの死体が転がっている。もう、彼女は行ってしまったのか……男はふらふらと立ち上がり、雨音だけが響く血の海を見渡す。そして、走り出した。死体を踏み、よろめきながら走り……一つの死体を、抱き上げる。
「……」
頭から血を流す彼女。その目は赤く艶めくのに、呼吸も脈拍も……止まっていた。男は彼女を抱きしめ、泣いた。彼女は行ってしまった。遠いところへ……行ってしまった。どうして彼女の心に気付いてあげられなかったのか。無理矢理にでも、連れ出してあげられなかったのか。彼女の言葉はいつだって、鎧で固められたものであったというのに。男が嗚咽していると、彼女の鎧からさらりと、何かが落ちた。雨と涙に塗れた顔をそちら向けると……そこには、彼女の血で赤く染まった百合があった。押し花にされ、鎧に挟まれていた花。自分が差し出した思い出の白百合。彼女はやはり、少女だったのだ。
勝利の女神を失った王朝は、戦場に残された彼女の死体から目を繰り出して大事に保管した。勝利に導いてきた、赤い瞳の黒い眼球を祀って女神の恩恵を受けようとしたのだ。しかし、激しい戦争の末隣国に攻められ、滅亡することとなる。
王朝が滅びた後、この神の啓示を巡る戦争を制して大陸を統べたのが後の帝国である。王朝の血を引く貴族が彼女の目を"月の真珠"と呼んで家宝としていたが、家の衰退に乗じて手放してしまう。それは後に、一人の少年の目に埋まることになる。
王朝の兵士が彼女の死体を見つけた時。彼女は綺麗な顔をして目を瞑り、戦場に横たわっていた。胸の上で組んだ手には赤い百合が持たされており、それと引き換えに持ち去られたかのように彼女の片目は無くなっていた。
男の行方は、わかっていない。
①Edgar.59~62 ――"彼女"の目、登場
②Edgar.69,79 ――目の効力
③Edgar.75 ―――――神の啓示について