9.生きること
家に帰ると玄関に二足の知らない靴があったので、ママの宗教仲間が来ているのがわかった。会いたくなかったが、居間の前の廊下を抜けるときに中から話し掛けられた。
「こんにちは、静香さん。お邪魔しています」
普段なら無視するところだが、今日はなぜか声に引かれて居間に入った。
ママと同年代の女が二人、テーブル席とソファに腰掛けている。
あたしが立っていると、アイスコーヒーのグラスを盆に乗せたママがキッチンから戻ってきて、座るように促した。
「ごめんなさいね」。先にソファに座っていた女が席をつめてくれた。
四人で他愛のないお喋りをし、そろそろ部屋に戻ろうとソファを立つと、隣の女が、「今度、静香さんも話を聞きにいらっしゃいよ」と言った。
テーブル席の女も明るい声で、「そうよ。今度の日曜日に道場にいらっしゃい」と言った。
「でもあたし、神様なんて嫌いだから」と言い返す。
「神様はあなたを愛していますよ」と女。
「だったら、どうしてみんな、こんなに悲しいんですか」
「悲しい?」。テーブル席の女は、あたしの言う意味がわからなかったようだ。首を傾げる。
横に座る女がそっと手を重ねてきて、「神様もそうよ。人間を愛しておられると同時に、悲しんでいらっしゃいます」
ママが、「あのね、今は、世界の終わりのときなの。もうすぐ、すべてが浄化されるわ」
「人が死んだらどうなりますか」。あたしは隣に座る女に訊ねた。
「魂は輪廻します。でも選ばれた者たちは霊的ステージを上げ、成仏します」
テーブル席の女が補足する。「成仏するってことは、神様にお仕えできることなの」
仏教と、キリスト教的終末観の奇妙なミクスチャー。
「自殺した人はどうなりますか」
「自殺はいけないことだわ」。隣の女が言った。「罰を受けて、無念の思いを抱えたままさ迷うことになるの」
「輪廻したり成仏したら、死ぬ前のことは覚えていますか」
「みんな忘れてしまいますよ」
「思い出すこともないですか」
「話を聞きにいらっしゃい。そうすればわかるわ」。テーブル席の女が言った。
部屋に戻り、ベッドに寝転がっていると、黒羽根の天使が下りてきて座った。
「久しぶりに会えたね」
「君が私の言葉を、あまり望まなくなったから」
「でもあたし、宗教の人たちと話していたら、あなたの言葉の方がずっと好きだって気付いたよ」
「自分の意志で死にきった者こそ幸せになれる、という話しか」
「そう。あたしも自殺者は幸せになれるって信じてる」
「でも君は、生きてみようと思った」
「そうだけど、あたしはたまたまラッキーだった。順子もいたし、あなたもいてくれた。でも、クダラナイ世界が容易に終わらない人たちもいる。あたしだってめちゃくちゃ苦しんだから、あなたも生きよう、なんて簡単には言えない」
「でも君は、生きてほしいと願うんだな」
「そうだよ。これはあたしのワガママかもしれないけど。みんな死なないでって思う」
「片木律子とも、また会えると思うのか」
「うん。あたし、彼女の友達になりたいんだけど」
「人間らしい考えだ」。天使は笑った。
それが黒羽根の天使とのお別れだった。
また寂しい夜が繰り返されるかもしれない。でも、今度は耐えてみよう。いろんな場所で、みんなが寂しく、苦しんでいるように。
たまに順子とメールのやりとりをする。面白いこと。悲しいこと。つまらないこと。
とにかくあたしは、生きようとしている。