7.乳白色
高速湾岸線の脇道を飛ばし、橋をいくつか越えると、順子を殺すために男と計画した埠頭につく。
夜の工業団地には誰もいない。
車を下りると、容赦のない寒さが吹き付けてきた。
「体、温めようよ」とあたし。
順子が不安そうに、「どうやって?」と訊く。
「二人であたしを殴るの」
「できないよ」
「どうして。みんな学校で、あたしを面白そうに殴ったじゃんかッ」
言っているうちに、感情が高ぶり爆発した。順子の髪の毛をつかんで振り回し、路上に引きずり倒す。転んだ彼女の上に馬乗りに座った。
男が突っ立っているので、「なにやってんの。早く、こいつを殺してッ」と叫んだ。
順子が潤んだ目で見上げ、「殺して……いいよ」と言う。
男が駆けてきて、サッカーボールのように彼女の顔を蹴り上げた。衝撃が胸を突く。
男はそのまま背を向け、車の後ろにしゃがみ込んでしまった。泣いているみたいだ。
両手で、顔の右側を押さえている順子。血が出ている。
気がつくと、自分も涙をこぼしていた。
「もういいよッ。みんな許す。誰も巻き込まずに、あたしだけ死ねばいいんだ」
すると順子も下から抱きついてきて、「静香が死んじゃ駄目……。私が死ぬ。私が悪かったんだよ」と泣きながら言った。
「もうやめよう!」。男も叫んだ。「俺もひどいことした。死なないでくれッ」
胸が熱くなり、苦しくなる。もう充分だ。涙が溢れた。
傷ついた順子を抱き起こし、あたしたちは泣いた。
許そう。もう全部許そう。
ミニバンで工業団地を離れると、よれたフェンスの向こうに雑草が茂る空き地が広がっていた。そのなかにいくつか、戦艦のような影が月明かりに浮かんで見えた。
順子が男に、「止めて」と言った。
「みんなで、あそこに行ってみない?」
「……顔、痛くないか」
瞼が腫れ上がった順子を気遣って男が言う。
「うん、大丈夫。静香も行こう」
あたしは頷いた。
フェンスを乗り越え、草のなかに足を踏み入れると雪の感触。
「暗いから気をつけろよ」。男が言う。
霜を踏みしめながら影に近付くと、それは鉄骨建ての工場の廃墟だった。その周りに、たくさんの不法投棄されたゴミが散乱している。
錆の浮いた冷蔵庫、パソコン、タイヤ、作業着、ブルーシート。その周りに雑草が生え、雪が積もっている。
あたしたちは静かにそれを眺めていた。
工場の外壁はスプレーで落書きされ、ところどころ剥がれ落ちている。窓のガラスは割れ、置き去りにされた機械の影が見えた。
「寒いし、そろそろ戻らないか」。男が言った。
「もう少しだけ」と順子が言う。それから、独り言のように、「綺麗だね」と呟いた。
「どこが綺麗だよ。ゴミだらけじゃないか」
「そうだけど。……でも綺麗だよ。冷たくて」
あたしは何も応えず、その殺伐とした光景に見入っていた。どこか懐かしい気さえする。あたしの心を描いた絵のようでもあり、片木律子の心のようだとも思った。
「スーシーさんもロボットですか」
どこからか、彼女の声が聞こえてくるような気がした。
「行こう」
男が先に歩き、あたしと順子が続く。
とても疲れた。帰ったら、お風呂に入ろう。
それから、沢山のことをやり直さなくちゃいけない。本当に大変なのは、これからだろう。
ミニバンまでたどり着き、あたしたちは振り返った。
霞んだ冷気の向こうに、朝日が輝く。乳白色に満たされる。
家に帰ると、ママに玄関で抱きしめられた。出勤前のオジサンには非難がましい目を向けられたが、あたしが見返すと何も言わずに出て行った。
ママはあたしの背中を押して居間に通し、ソファに座らせると、それから忙しく動いた。ココアを入れ、パンを焼き、風呂を沸かしてくれた。
「静香。ママね、ずっとあなたの為にお祈りしてたの。一晩中、ずっとよ」
相変わらずトンチンカンだと思った。
ママにはけっきょく、あたしの苦しみが理解できない。宗教なんか関係ないのに。
それでも、ママの言葉は嬉しかった。
ママはママなりに、あたしを愛してくれていた。それがあたしの困難を、少しも減らしてくれるものではなかったとしても。
「ごめん、ママ」
「……静香」
「いつも、ありがとう」
泣きだしたママを見て、優しくなりたいとあたしは思った。