1.クダラナイ世界
眠剤を多めに飲んだのに眠れず、音楽を聴いていた。
天井に逆さまに座っていた、黒羽根の天使が下りてきて、あたしの耳に冷たいキスをした。悲しい気分に満たされる。
窓の外に積もった雪が乳白色に輝きだす。くだらない一日が始まる前に終わらせたい。カッターを取り、机に置いた左手首に突き立てた。
天使が歌うように囁く。「もっと深く、……深く」
鮮血が滴る。
その頃の東京には、こんな宗教が流行っていた。
自殺したら、その魂は汚れてしまう。一度ついた汚れは拭うことができず、成仏できずに、命の輪にも二度と加えてもらえない。いつまでも苦しみながらさ迷う。だから自殺はやめましょう。
どのくらい時間が経ったのか。ドアが乱暴に叩かれ、こじ開けられた。入ってきたママとオジサンが、うるさい声で何かを叫んでいる。
「静香……!」
やめて。あたし、そんな名前じゃない。
そんなに揺さぶらないでよ。頭、痛いんだから。
黒羽根の天使は、ママやオジサンが部屋に入ってくると姿を消してしまう。あたしもそんなふうに、きれいに消えてみたかった。
だけど、この程度のリスカじゃ死ねない。いつもより深く切ったから、一週間くらいは学校休めそうだけど。
救急車にはオジサンも乗り込んできた。独り言がよく聞こえる。
弱ったな。またやられた。何が不満だ。忙しいのに。
面倒なら助けるなよ。
あたしが死んだからって、あんたにとって何だっていうの。自分の命は自分のもの。どうして勝手に死んじゃいけないんだろう。
ママはあの宗教の信者だから、今ごろ家でお祈りしているはず。居間に置かれた安作りの祭壇の前に座り、神妙な顔で手を合わせる。娘を正気に戻して。自殺なんかしないで。
週末には集会所に出かけ、退屈な講話を聞いたり、歌を歌ったりする。いくらかのお布施もするらしい。
ママがいくらお祈りしたって、あたしが学校でゲロ野郎どもに虐められる毎日は変わらない。本当の父親を忘れてオジサンをパパとは呼べないし、わざとらしいママの笑顔にも疲れた。
この世界が大嫌いなんだ。あたしから死を奪うな。
黒羽根の天使は、むしろこう言ってくれた。
「自分の意志で死にきった者は幸せになれる」
これがあたしの宗教。
だから死んでやる。
オジサンはあたしを病院に送り届けると、さっさと帰ってしまった。
数日して、あたしは別の病院の閉鎖病棟に入れられた。
そこは狭くて退屈な場所だったから、病気が落ち着く人もいるが、余計病んでしまう人もいたみたいだ。
娯楽がほとんどない。テレビカードがなければテレビが見れないし、電話も自由にかけられない。
仕方ないから、みんな一日ベッドの上でぐったりしてるか、短い廊下を何往復も歩き回る。格子のはまった窓からは雪深い山が間近に見えたから、ずいぶん遠くの病院まで来たんだと実感させられた。
時間がくると詰め所の前に並び、薬を渡された。飲むと頭がボーッとするし、しばらく登校する心配もないから気持ちはラクになった。
だけど、自殺したいって思うのは病気なの。
「そんなことないさ」
黒羽根の天使の声がした。
「病気なのは世界の方だ。こんなクダラナイ世界、終わらせなくちゃいけない」
「どうしたら世界を終わらせられるの」
「君が死ねば、すべてが終わる」
そうだ。こんな世界は終わらせるしかない。
クラスのゲロ野郎たち。ひどい暴力を受けた。服や髪をライターで燃やされ、唾をかけられ、キタナイと言われた。土下座しても許されなかった。
勇気を出して、泣きながらホームルームで訴えたのに、虐められる側に原因があるかのように言われ、なぜかあたしの糾弾大会になった。最後に何もわかっていない先公が、「でもみんな、なんだかんだ言って静香ちゃんのことが好きだから構うんだよね」と言い、全員がゲラゲラ笑った。
あたしの傷まで、「ミミズみたい」と笑い飛ばした奴ら。全員死ね。いなくなれ。