幼馴染みとコイゴコロ
「………………え?」
自分のよく知る女の子―とは言っても、もうすぐ大学を卒業する年なのだが―が発した言葉は、獅樹にとって思いもかけないものだった。
「…やっぱりね」
彼女、結映はそんな獅樹を見て、ふっ、と笑った。
その笑顔があまりにも見慣れたものだったため、“からかわれたのか”と憤りが込み上げてきたが、ふと、何かが引っ掛かった。
――そうだ。結映の笑顔にはいつものような温もりがない。
少なくとも獅樹が知る限り、結映はいつも陰を感じさせない、底抜けに明るい笑顔を浮かべる。…というか、そんな顔しか覚えがないといってもいいくらいだ。
なのに今の彼女の表情ときたら……
「獅樹? …ねぇ、私、もう一回言わなきゃだめなの?」
「……」
何を? とはさすがに言えなかった。結映が真剣なことくらい、付き合いが長いのだから分かる。
分かるけれど。
「結映、俺をからかってるわけじゃないんだよな? だって俺、彼女いるんだぞ?」
酷い逃げ手を打った。それは分かっている。
それでも問わずにはいられなかった。
「………うん」
結映は頷いた。…傷ついたことを悟らせないように注意して。
でも、結映。
さっきから白かったお前の顔が、もっと白くなった。それだけで分かってしまうんだ。
…本気なんだと。
どうして。
抜け出せない螺旋の中を思考が駆けていく。頂上どころか、入口さえもう分からない。
どうしてなんだ。
怒りにも似た感情が何の罪もないはずの結映に向き始めたことを、獅樹は確かに感じていた。
「……ずっとね、言いたくて」
物心ついた頃には常に傍にあった抑揚が静かに鼓膜を打つ。
「気づいたのは…多分獅樹に彼女ができた頃…」
「――はぁ?」
瞬間、引き絞られていた獅樹の精神の糸が弛んだ。
それも仕方ない。
何故なら獅樹に彼女ができた頃と言えば、中学二年だ。
自分の告白に呆気にとられる獅樹を、ふふっ、と結映は笑った。
「馬鹿、でしょ? 獅樹の隣に自分以外の女の子が立つようになって初めて気づいたの」
っ! 言うな!
そんな獅樹の心を知ってか知らずか、結映は容易く口を開いてしまった。
「…獅樹が…好きだったんだって」
そう言って、結映は笑った。
けれどその笑みは獅樹が初めて―あれほど長く一緒にいたはずなのに―目にするものだった。
ただただ胸が掻きむしられるような、そんな顔。
「……」
いや。初めてじゃない。
そうだ。結映のこんな顔は見たことがある。
獅樹に新しい彼女ができた、と告げる度に。
今まではその笑みも一瞬にして消えてしまっていたから、気にならなかっただけなのだ。
それなら、どうして今になって想いを告げる必要がある?
もうその答えが推測できているのに、獅樹はどうしても答えという形にはできなかった。
「…辛かったんだけどね、でも…彼女と別れる度、自分にも可能性があるんじゃないかって、そう言い聞かせられたの」
告白する勇気もないくせにね、と小さく呟く結映。
「でもね…聞いちゃったんだぁ。獅樹、この間彼女…羽菜ちゃんを実家に連れてったんだってね。……今までは誰も連れて行ったこと、なかったのに…」
ぎり、と音がした。
訳もない居たたまれなさから俯いていた獅樹は、その音に顔を上げた。
結映が、白く染まるほどに強く拳を握っていた。少しすると、その拳から赤い鮮血が伝い始めた。
ひどく現実感のないその光景を、見るとはなしに見ていた。
獅樹の世界は瓦解してしまっていたから。
「そんな、挨拶さえしちゃうくらいなら、もう私の夢は叶うことはないんだって……、そう思ったら、今まで言えずにいたことを伝えずにはいられなくなって」
言うなり、結映はかくん、と力なく首を垂らした。
と、ようやく自分の手を怪我していることに気づいたのか目を見開き、言葉もなく鞄からハンカチを出すと、器用にも手に巻いた。
その流れるような動作を見て初めて、獅樹は電撃を受けたように思い知った。
いつも頼りない足取りで追いかけて来ていた幼馴染みの女の子はもう存在せず、自ら願えば自分の力だけで生きていけるほどに成長していたのだと
どうしてか、気がつけば結映を幼い頃のフィルター越しにしか見てこなかった。
呪文のように“子どもだ”“子どもだ”と唱え続けていた気がする。
どうしてだろう。
もしかして自分は……
確固たる答えが見えかけたその時、捨てられた人形のように座っていた結映が突然立ち上がった。顔には見慣れた明るい笑み。
「もぉ〜っ、獅樹ってばそんな顔しなくても大丈夫! 招待してくれたら二人の結婚式には絶対参加するし、何だったら友人代表スピーチだって頼まれてあげるよ!」
「結映…?」
相当おかしな顔をしていたのだろう。すかさず結映お得意のデコピンが炸裂した。
「ぃってぇぇぇっ!」
「ざまぁみんみんっ! アホ面してるからよ」
ベロベロバ〜、とご丁寧にも手振りつきだ。
こっの、と手を上げかけたが、そのアホらしさに笑いが込み上げてきた。
見れば結映の口元もひくひく震えている。
目が合った瞬間、堪えきれずに二人で大爆笑した。
目尻に溜まった涙を拭くと、結映は「さてと」と荷物をまとめ始めた。
あぁ帰るのか思うと、いつにない寂寥感が襲ってきた。だが、それはぐっと押さえ込んだ。
「じゃあ、長くお邪魔してごめんね。帰るよ」
勝手知ったる家、とばかりにすたすたと迷いなく玄関へ向かう結映。どこか落ち着かない気持ちを抱えたまま、その背中を追った。
「…それじゃ、ね、獅樹」
結映は獅樹がよく知る笑顔を浮かべた。
「あぁ、それじゃまたなぁぁ――…っ?!」
ぐいっ、と引っ張られた。何の身構えもしてなかった獅樹は、その勢いのまま結映に抱き止められる。
「――」
耳元に囁かれた小さな言葉。みるみる獅樹の目が見開かれていく。
脱力しきった獅樹の体を押しやって、結映はノブに手をかけた。
最後にそっと振り返ると、これもまた獅樹が初めて見るような歪んだ笑みを向けて、扉の向こうに姿を消した。
「……っくしょ!」
バン!と拳で床を叩きつける。他に怒りの矛先の向ける場所がなかった。
「…なんでだよ…」
壁に全体重を預けて、頭をぐしゃぐしゃと力任せに掻く。
頭の中では先ほどの結映の言葉がリフレインしている。
どうして、あんなことを言ったんだ。
言わせてしまったんだ!
“――ごめんね。好きになって、困らせて…ごめんね”
どこに謝る理由なんてある? むしろ感謝すべきことなんじゃないのか。
“好きになってくれてありがとう”と。
気づくこともしなかった自分への罰なのだろうか。
今さらだろう。
結映が一番好きだった、なんて。
ずっと隣にいて欲しい、なんて。
愚かしい。
自分が傷つくのが怖いばかりに、決して結映を“女”として見てこなかった。
もし、結映が誰かと付き合ったりしていれば気づけたかもしれない。
けれど結映は今まで誰とも付き合うことはしなかったようだ。
今なら理由も分かる。
待っていたんだ。
想いを告げる時を。
もしかしたら告げてくれるかもしれない時を。
「…くそっ…!」
握り拳を床に叩きつける。
「…?」
今の空気にはまったくそぐわない、ポップな曲が聞こえてきた。選んだのも設定したのも彼女である羽菜だ。
こんな時に、と思った。
でも、今すぐにでも伝えるべきではないのか。これ以上卑怯ではいたくない。
それに、こんな気持ちを抱えていては、とてもじゃないが彼女の隣で笑えない。
伝えよう。
そして今度は自分から、結映に会いに行こう。
懸命に真正面から向き合ってくれた結映に、応えるためにも。
◇
羽菜との話し合いは修羅場といって相応しいものとなった。
“別れたくない”と泣かれた。それに対して、ただ謝るしかできなかった。
ずっと好きだったのに気づけなかった奴がいて、その彼女の傍にいたいから、と。
上辺だけ取り繕うことはできなかった。
羽菜のことは確かに好きだったのだから。ただ結映への想いの方が遥かに勝っているというだけで。
いつもしっかりとメイクをしていた羽菜だったが、今日はそれが仇となった。零れ落ちる涙のおかげでアイメイクは滅茶苦茶だし、頬の辺りはてかてかだ。
「………本気で好きなんだよね? その子のこと」
赤く腫れ上がった瞳がまっすぐに獅樹を射貫く。
「あぁ…。実はそいつ…結映なんだ」
「…結映ちゃん…?」
ぽかん、と呆ける羽菜。
せっかくの可愛らしさが半減だ。
「うん」
そう肯定してから続ける。
「多分…、無意識に結映を“恋愛対象外”にしてたんだと思う。そうすれば、絶対安全圏の幼馴染みとして近くにいられるから、さ」
「獅樹…」
羽菜が何か言いたげに見ていた。が、獅樹はそれを無言で制した。
「こんなこと言っても今さらだけど、羽菜のこと、好きだったんだ。それは本当。ただ…」
ぐっと詰まる。
これ以上言ってしまったら、羽菜を必要以上に傷つけるのではと躊躇してしまう。
それは本意ではないのだから。
「ただ?」
獅樹の躊躇いに気づいたのだろう、羽菜がその先を促した。
いつもそうだった。
獅樹の思いに敏感に反応して、吐露させてくれていた。そんな彼女だったから、一緒にいても居心地が良いばかりだったのだ。
「…ただ、結映への思いの方が強いんだ。…羽菜なら、どこかで幸せに笑ってるっていうのを聞くだけで嬉しい。でも…結映は、俺が隣にいて、俺が幸せに笑わせてやりたいって、そう思うんだよ」
「…」
残酷な言葉だと思う。泣かれても仕方ない。
ただ、すべてを発散したら、何も言わずに離れて欲しい。
「………はぁぁぁっ」
盛大なため息。
「羽菜…?」
「……もうさ、諦めるしかないじゃん。気づいてなかった今までならまだしも、気づいちゃったら、ね」
そう言うと羽菜は甘やかすように笑った。
「その代わり!」
ぴっ、と人指し指を立てる。
「絶対に結映ちゃんをゲットするんだよ? 失敗なんて許さないんだからっ」
「……あぁ…」
泣きそうだ。
恋人として付き合ってきたのだから、彼女の態度の裏はある程度読める。
虚勢を張っていることなど、考えるまでもなく分かってしまう。
「じゃ、ここのお金は獅樹持ちだからね! じゃね!」
くるりと背を向けて外へと向かう羽菜。
もうどんな表情をしているかなんて分からない。
“ありがとう”
その後ろ姿に何度も告げた。
◇
さぁ、行こう。
柵を断ち切った今なら、真正面から結映と立ち向かえる。
絶対に逃がさない。
――待っていろよ、結映……