出会う順番を違えた私たちが、最後に交わす誓約書
出会う順番を違えた私たちが、最後に交わす誓約書
執務机の隅に置いた白湯は、とうの昔に冷めていた。
窓の外では冬支度を急ぐ荷馬車が行き交い、車輪が石畳を削る音が絶え間なく続いている。リディア・バーンズはその音を聞きながら、羊皮紙に記された水路使用料を一項ずつ確認していた。
ペンを握る右手の中指には、硬いインクだこができている。二年前、辺境伯領法務院へ勤め始めた頃にはなかったものだ。今では指先に染みついた黒いインクも、その硬い出っ張りも、彼女がこの土地で積み重ねてきた仕事の証だった。
「リディア、入ってもいいか」
扉の向こうから聞こえた声に、ペン先が止まった。
「どうぞ、ユリアン様」
樫の扉を開けて入ってきたのは、ユリアン・クロムウェル辺境伯令息だった。騎士服の裾には乾いた泥がつき、金色の髪も風に乱れている。外套の肩に積もった細かな雪が、暖炉の熱で水滴に変わっていた。
「北の村から戻られたのですか」
「ああ。君が直した水利規約を、村長たちに説明してきた。上流の村も下流の村も、同じ条件で負担を分ける案に納得してくれたよ」
ユリアンは机まで来ると、分厚い報告書を置いた。紙からは馬と革と、冷たい外気の匂いがした。
「春まで揉めると思っていた。わずか三日で二十年来の争いを終わらせるとは、君にはかなわないな」
「規約を守ると約束させたのはユリアン様です。私は抜け道を塞いだだけでございます」
「その抜け道を見つけられる者が、今まで一人もいなかったんだ」
彼は笑いながら向かいの椅子へ腰を下ろした。その視線が、机の隅のカップへ向く。
「また白湯だけか。昼食は?」
「黒パンをいただきました」
「何枚」
リディアは帳簿へ目を落とした。
「半分です」
「半分は一枚とは言わない」
ユリアンは困ったように眉を下げ、懐から紙包みを取り出した。包みが開かれると、焼いた林檎と香辛料の甘い匂いが広がった。
「市場の菓子屋で買ってきた。働きすぎる法務官には、砂糖を与えた方がよいらしい」
「どなたからお聞きになったのですか」
「僕が二年間かけて導き出した結論だ」
差し出された林檎菓子は、まだわずかに温かかった。リディアが受け取ると、ユリアンは満足そうに目を細めた。
その顔を見るたび、胸の奥へ細い針が差し込まれる。
彼がこの部屋を訪れるのは、今日が最後だった。
三日後、ユリアンは王都へ向かう。そこで国王の立ち会いのもと、南部ローデン侯爵家の令嬢アマーリアと婚姻することになっていた。
それは二人だけの結婚ではない。北境の防衛をクロムウェル家が担い、南部の穀倉地帯を治めるローデン家が冬季の穀物を供給するという、王国北部盟約の証だった。
北境では夏の長雨により、小麦の収穫量が三割減っている。すでにアマーリアは自領の穀物庫を開き、最初の荷馬車百台を北へ送り出していた。雪が深くなる前に、さらに三百台が到着する予定だ。
婚姻が破談になれば、盟約を快く思わない南部貴族が供給停止を求めるだろう。飢えるのは、法にも政争にも関わりのない領民たちだった。
リディアは林檎菓子を一口だけ食べ、丁寧に包み直した。
「おいしくありませんでしたか」
「いいえ。残りは仕事を終えてからいただきます」
「そう言って、机の中で石のようにする気だろう」
「本日は必ずいただきます。誓約書にしても構いません」
「君に書面で約束させると、破ったときが恐ろしいな」
いつもなら、ここで二人とも笑うはずだった。
しかしユリアンは笑わなかった。立ち上がると窓の鎧戸を閉め、続いて執務室の扉へ鍵をかけた。金具の噛み合う音が、やけに大きく響いた。
「ユリアン様?」
「リディア。僕と一緒に来てくれ」
彼は机を回り込み、リディアの正面に立った。翠色の瞳は、吹雪の夜に灯された松明のように揺れていた。
「西の共和国へ渡る船を手配した。明日の夜、港へ向かえば間に合う。爵位は弟に譲る。父上には、王都へ着いてから廃嫡願いを出すつもりだ」
リディアの手からペンが落ちた。黒い雫が羊皮紙の余白へ広がっていく。
「婚姻から、お逃げになるおつもりですか」
「逃げるんじゃない。自分の人生を選ぶんだ」
「では、北境の民はどうなさいます」
「父上と弟がいる。穀物も別の領地から買えばいい」
「通常の三倍の価格で、ですか。この領地の金庫には、二か月分の備蓄を購入する余裕もございません」
「それでも方法はあるはずだ。君と僕なら見つけられる」
ユリアンがリディアの手を取った。雪の中を馬で走ってきたはずの手は、熱を持っていた。
「僕は君を愛している。アマーリア嬢を妻と呼びながら、君をここに置いておくことなどできない。君も、同じ気持ちでいてくれると思っていた」
指先から伝わる熱に、息が詰まった。
この手を握り返せばよい。明日の夜、誰にも告げず馬車へ乗り、港から船に乗ればよい。見知らぬ街で小さな家を借り、二人で書類仕事をしながら暮らす未来が、手を伸ばせば届くところにあった。
前世のリディアなら、迷わずそうしただろう。
前世の彼女は、公爵令嬢だった。愛する男の婚約者を追い払い、金を使い、家臣を脅し、法を曲げた。自分ほど彼を愛している者はいないのだから、何をしても許されると信じていた。
その果てに待っていたのは、大広間での断罪だった。
父は爵位を失い、命令に従った使用人たちは牢へ送られた。領地では資金が途絶え、冬を越せなかった者までいた。それでも彼女は最後まで、自分の愛だけは本物だったと泣き叫んだ。
処刑台へ上がる朝、牢番から告げられた言葉を、今も覚えている。
――あなたの恋のために、いったい何人が代金を払わされたのでしょうね。
リディアはユリアンの手を、一度だけ強く握った。皮膚へ爪の跡が残るほど力を込めてから、指を一本ずつ外していった。
「お断りいたします」
「リディア」
「私は参りません。ユリアン様にも行かせません」
「君まで、王命だから従えと言うのか」
「いいえ。あなたがご自身で交わした約束だから、守っていただくのです」
リディアは机の引き出しから、二通の書面を取り出した。
一通目は、王立法典編纂局への転任辞令だった。国王の印章と法務長官の署名があり、ユリアンの婚姻成立日をもって発効すると記されている。
もう一通には、『北境水利法務の引継ぎ並びに機密保持に関する確認書』と題されていた。リディアが王都へ移った後、ユリアンとの連絡を公的な文書に限り、私的な面会や書簡を行わないという条項が加えられている。
「いつから、これを用意していた」
「婚姻の日取りが決まった翌日からです」
「最初から僕の前から消えるつもりだったのか」
「領主の妻ではない女が、領主と特別な関係を保ったまま法務を預かれば、裁定の公正さを疑われます。私はこの土地の法を、そのような疑念で汚したくありません」
「それだけか」
ユリアンの声が低くなった。
「君にとって僕は、一緒に仕事をしただけの相手なのか。僕を愛してはいないのか」
暖炉で薪がはぜ、赤い火の粉が崩れ落ちた。リディアは唇を結んだまま、彼の顔を見上げた。
ここで否定すれば、彼は王都へ行くだろう。自分だけが思い上がっていたのだと傷つき、いつか彼女を忘れるかもしれない。
それは正しい選択に見えた。
けれど、愛を守るために嘘をつくこともまた、相手から真実を選ぶ権利を奪う行為だった。
「愛しております」
ユリアンの目が見開かれた。
「この二年間、あなたがこの扉を開けるたび、足音を聞くだけで誰が来たのか分かりました。あなたが持ってきてくださる林檎菓子も、馬と外気の匂いも、書類を読むときに眉間へしわを寄せる癖も、すべて失いたくありません」
「なら――」
「だからこそ、あなたを卑怯者にはいたしません」
リディアは彼の言葉を遮り、確認書を机の中央へ置いた。
「アマーリア様は、まだお会いしたこともない北境の人々のため、私財で荷馬車を雇われました。ご自身が管理する穀物庫を開き、反対する親族を説得してくださいました。その方を祭壇の前で置き去りにして、私たちだけが幸せになれるとお思いですか」
「それは……」
「弟君へ爵位を譲れば、弟君は準備もないまま盟約の破綻と飢饉を背負います。辺境伯閣下は王命への違反を問われ、あなたを慕う騎士たちは、逃亡を助けたのではないかと取り調べを受けるでしょう」
ユリアンは返事をしなかった。握り締めた拳から、革手袋の軋む音がした。
「前世の私は、自分の恋を何より尊いと思い込みました。その代金を、罪のない人々に払わせたのです。もう二度と、同じことはいたしません。愛している人にも、その罪を背負わせません」
リディアは新しいペンを取り、インク壺の横へ置いた。
「出会う順番が違ったなどという感傷は、法廷では一文の価値もございません。私たちは、互いを知る前に結ばれていた盟約を覆せないのです」
「君は、残酷だな」
「存じております」
「僕に、君を愛したまま別の女性と結婚しろと言うのか」
「アマーリア様を知ろうとなさってください。あの方もまた、ご自身の役目を果たすために故郷を離れます。あなたが誠実に向き合えば、いつか信頼を育てることはできます」
「君を忘れられると思うか」
その問いに答えようとすると、喉が塞がった。リディアはカップの白湯を飲んだ。冷たい水が、乾いた舌の上に苦く残った。
「契約の履行に必要のない質問です」
「最後まで法務官らしいな」
「それ以外の生き方を、私は知りません」
長い沈黙の後、ユリアンはペンを取った。
羊皮紙の末尾へ、彼の名前が記されていく。最後の一画でペン先が止まり、黒いインクが小さな染みを作った。
リディアもその隣へ署名した。
二人の名前が同じ書面に並ぶのは、これが最後だった。
「これで、僕は王都へ行き、君も王都へ行く。それなのに僕たちは、二度と私的には会わない」
「はい」
「僕が領主となった後、法務上の相談をすることは許されるか」
「正式な依頼書をお送りください。規定の料金で承ります」
ユリアンはかすかに笑った。すぐに顔を伏せ、確認書の控えを折り畳む。
「分かった。君の望む領主になる。君が人生を懸けて守ったものを、僕が壊すわけにはいかない」
扉へ向かった彼は、鍵へ手をかけたところで立ち止まった。しかし振り返ることなく、静かに言った。
「さようなら、リディア。君を愛せたことを、僕は恥じない」
「私もでございます。どうか、よい領主におなりください」
扉が閉じた。
廊下を遠ざかる足音が聞こえなくなるまで、リディアは椅子に座っていた。やがて鍵をかけると、机へ戻ろうとして足がもつれた。
床に膝をつき、右手で口元を押さえた。インクのついた指が頬へ黒い筋を残し、その上を熱い雫が何度も流れていった。
声を外へ漏らせば、彼が戻ってくるような気がした。
だからリディアは、扉の向こうに誰もいないと分かってからも、唇を噛み締め続けた。
机の上では、包み直した林檎菓子がすっかり冷たくなっていた。
◇
翌月、ユリアン・クロムウェルとアマーリア・ローデンの婚礼が、王都の大聖堂で執り行われた。
北境には南部から四百台の荷馬車が到着し、冬を越すための穀物が各村へ分配された。ユリアンは新妻とともに自ら倉庫を回り、不正な買い占めが起きていないか確認したという。
その報告書を読んだリディアは、承認欄へ印を押した。
新しい職場となった王立法典編纂局の窓からは、王宮の尖塔が見える。机には各地から集められた水利紛争の記録が山と積まれ、同僚たちが忙しく行き来していた。
「リディア法務官、法務長官から書簡が届いております」
若い書記が、封蝋のされた書簡を差し出した。
中に入っていたのは、王国全土の水利法を統一するための起草責任者に、リディアを任命するという辞令だった。その下には推薦者として、二人の名前が並んでいた。
ユリアン・クロムウェル。
アマーリア・クロムウェル。
推薦理由には、北境で実施された規約が二十年来の争いを解決したこと、その起草者がリディアであることが、私情を挟まない端正な文章で記されていた。
最後には、アマーリアの筆跡で一文だけ追記されていた。
『北境の法と、未来の夫の誇りを守ってくださった方へ、心からの敬意を申し上げます』
リディアは右手中指のインクだこを親指でなぞった。
それから机の隅に置かれた白湯へ手を伸ばしたが、指先がカップに触れる寸前で止めた。すでに湯気は消え、水面は冷たく静まっている。
リディアは立ち上がり、給湯室へ向かった。古い白湯を捨て、新しく沸かした湯をカップへ注ぐ。
立ちのぼる湯気が頬を撫でた。
窓辺へ戻った彼女は、遠く北境へ続く空を見ながら、小さな声で告げた。
「どうか、お幸せに。私の誇らしい人」
返事はなかった。
けれど、もうそれでよかった。
リディアは新しい辞令を机の中央へ置き、王国水利法典の最初の一行を書き始めた。
今度の白湯は、冷める前に飲み切った。




