西日の差す喫茶店にて22-飛行機と少年-
梅雨明け宣言が出されたあと、夏がやってきて、連日の猛暑が続いていた。
雨が降って涼しかった日のことなど、すでに忘れてしまった。
気が付けばもう8月。
寝苦しくて目が覚め、すき間から光の差し込むカーテンを開くと、淡いみずいろの空に、薄いピンク色に染められた雲が漂っていた。
ひとつ背伸びをすると、今日が休日だったことを思い出して、とても得した気分になった。
灼けたアスファルトに落ちたまっくろな街路樹の葉影を踏みながら、わたしはいつもの喫茶店へと向かっていた。
買ったばかりの日傘で陽射しはいくぶんかやわらげられるものの、地面で熱せられた空気がゆらゆらと沸き立ち、わたしは顔の火照りを感じた。頭はぼんやりとして、目の前の景色は揺らぐようだった。
ミンミンゼミの声がどこからともなく降ってきた。
横断歩道で立ち止まり、日傘を傾けて空を見上げると、濃いみずいろの中を小さな黒い飛行機が音もなく飛んでいた。
喫茶店の入口にはひまわりの鉢植えがあった。
ひょろりと伸びた茎の先に、黄色い花びらで飾られたまあるい花が2輪。どちらも同じように太陽を向いていた。
扉を開けると冷気とともにコーヒーの香りが流れてきて全身をやさしく包んでくれた。
「いらっしゃいませ」
客と話をしていたマスターが振り向き、おだやかな笑顔で迎えてくれた。
店内にはいつものように静かな音楽が流れていた。ピアノの曲だった。
空いている席を探して窓際の席に行こうとマスターの横を通ると、そこに座っていた白髪の男がこちらを向いて「こんにちは」とあいさつをしてきた。
急に声をかけられたので、軽く会釈をして「こんにちは」と言葉で返したつもりだったが、ちゃんと声に出せたのか、それとも心で思っただけになってしまったのか、曖昧な返事になってしまったが、男はやさしそうな眼差しを送ってくれた。
わたしは席に座りひと息ついた。
すぐにマスターが水を持ってきてくれて、アイスコーヒーのケーキセットを注文した。
ケーキはチーズケーキを選んだ。
エアコンの風がやさしく吹いてきて、額の汗が引いていくのを感じた。
「今日は特別暑いですね。まだお昼にもなっていないというのに……酷暑日なんて言葉もできたそうですよね」
そう言ってマスターが運んできたグラスはすでに細かい水滴に覆われていた。
四角く透明な氷は、天井の明かりを映し出し、ストローを差して軽くかき混ぜると、コロンコロンとくぐもった音がした。
ひとくち口に含むと、ぼんやりしていた視界は急にくっきりとした輪郭を描いた。
耐えきれないほどの暑さから、やっと人心地がついた気がした。
「あれからもう80年以上も経ってるなんて信じられんな」
白髪の男がカウンターへ戻ろうとするマスターをつかまえて、おもむろに話し始めた。
「私は想像しかできませんが、戦時中はさぞたいへんな世の中だったんでしょうね」
わたしが店に入ってきた時の話の続きをしているのだろう。
「何もかも失ってな。わしもまだほんの子供だったが……ほら、あの子と同じくらいの頃だったんじゃないかな」
男が入口の扉を指さすと同時に、10歳に満たないほどの男の子が母親に連れられて入ってきた。
マスターは不思議そうに男の子を見ていたが、急に思い出したように「いらっしゃいませ」とその親子に声をかけ、男に「失礼します」と言ってカウンターへと戻っていった。
「あの頃は何度も爆撃機が飛んできて、そのたびに母親や姉弟と一緒に近所の防空壕に駆け込んで……まあ、懐かしい思い出でもあるかな…………」
マスターと同じように男の子を見ていたわたしの視線を意識してか、男はひとりごとでも呟くように、けれどわたしに聞こえるようにそう言った。
わたしは男が続けてなにか言うのを待ったが、それきり話すことをやめ、手元の新聞に目を落としコーヒーを飲み始めた。
ピアノの音楽だけが流れる静かな店内で、いつしかわたしは本の中の世界に没頭していた。
「……飛行機早く乗りたいね」
さきほどの男の子の声が聞こえてきた。
母親とずっと何かをしゃべっていたようだったが、少し離れた席にいたためか、彼らの言葉はノイズとしてわたしの耳を通り過ぎていたのだろう。
どうやら家族で海外旅行に行くようだった。
場所はサイパン。
外から飛行機のプロペラが回るような音が聞こえた気がした。
新聞を見ていた白髪の男は顔を上げ、天井の奥に広がる青空をぼんやりと眺めているようだった。
ふとカウンターを見ると、マスターが悲しそうな顔をして男を見ていた。
グラスの氷が溶けて、カランと音がした。
店の外は相変わらず強い日差しが降り注いでいた。
わたしが日傘を広げていると、ちょうど白髪の男も扉を開けて出てきた。
太陽の光を受けた白いシャツが眩しかった。
「もうすぐあの日か……」
男の口からそんな言葉が漏れた。
「えっ?」
わたしは思わず横を向いたが、カンカン帽をかぶっていた彼と視線が合うことはなく、それはひとりごとのようだった。
「こんな青空がうらめしい……」
続けてそんなことも口にした。
その時、視界を小さな影が横切ったような気がして見回すと、みずいろの空に、白く長い雲をたなびかせた飛行機が飛んでいた。




