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婚約破棄されたので従順なふりをやめたら、王太子が急におかしくなりました 〜今さら戻れと言われてももう遅いです〜

作者: とまと
掲載日:2026/05/09


「エリシア・ヴェルディア。——お前との婚約は、ここで破棄する」


 その宣告は、華やかな音楽と笑い声に満ちていた夜会の空気を鋭く断ち切り、場にいたすべての視線を一瞬で私へと引き寄せた。


 煌びやかな灯りの下、好奇と同情、そして隠しきれない嘲りを含んだ視線が絡みつく中、私はゆっくりと顔を上げ、逃げることなく王太子殿下をまっすぐ見据える。


「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」


 静かに問いかけながら、その隣に寄り添う令嬢へと一瞬だけ視線を向けると、彼女は小さく微笑みつつも、優越を隠そうともしなかった。


「決まっているだろう。私は彼女を愛している——だから、お前との婚約は不要だ」


 迷いなく言い切られたその言葉を受け止めながら、胸の奥には波一つ立たず、ただ“やはりそうなるのか”という確信だけが静かに広がっていく。


 ——ええ、知っておりました。


「……承知いたしました」


 ゆっくりと頭を下げた瞬間、場の空気がわずかに揺らぎ、周囲に戸惑いのざわめきが広がった。


「……ずいぶんと物分かりがいいな」


 殿下の声に混じる苛立ちを感じ取りながら、私はわずかに微笑む。


「殿下のお望みであれば、私は従うだけですから」


 そう答えた瞬間、胸の奥で長く張り詰めていたものが、ようやく静かにほどけていくのを感じた。


 従順で、控えめで、殿下を立てるためだけに整えられた存在——その仮面を、今、ようやく外せる。


「それでは、これにて失礼いたします」


 優雅に一礼し、背を向ける。


「……待て」


 低く掠れた声が背後から落ちた。


 振り返ると、そこには先ほどまでの確信とは異なる、迷いと焦りを滲ませた表情があった。


「……本当に、それでいいのか?」


「はい」


 迷いなく答える。


 その瞬間、彼の何かがわずかに揺らいだ。


「ごきげんよう、殿下」


 私は振り返らず、その場を後にした。



 重厚な扉を抜けた瞬間、夜会の喧騒が遠ざかり、ひんやりとした静寂が私を包み込む。


「……これで、ようやく自由」


 小さく息を吐いた瞬間、胸の奥にあった重たい何かが、音もなく崩れ落ちた。


 ほんの一瞬だけ、力が抜ける。


 ——長かった。


 だがそれもすぐに静かに沈み、代わりに内側から満ちてくるものがある。


 抑え込んでいた力が、ゆるやかに解き放たれていく。


 空気がわずかに震え、目に見えぬ圧が周囲を満たした。


 もう、隠す必要はない。



 王城へ戻った瞬間から、すべてが狂い始めていた。


 書類は滞り、報告は噛み合わず、判断はことごとく裏目に出る。


「……なぜだ」


 王太子は机に手をついたまま、低く呟く。


 これまで当たり前のように整っていたすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように崩れていく。


「なぜ回らない……!」


 書類を叩きつける音が響く。


 その原因に、もう気づいているはずなのに。


「……エリシア」


 名を呼んだ瞬間、胸の奥が強くざわついた。


 思い返せば、彼女はいつもそこにいた。


 何も言わず、目立たず、ただ当然のようにすべてを整えていた。


「……違う」


 思考が揺らぐ。


 “代わりが利く存在”ではなかった。


「連れ戻せ……今すぐだ」


 命じた声は、もはや以前の威厳を失っていた。



 だが、その命令が叶うことはない。



「情けない声だな」


 低く響く声に、王太子は顔を上げた。


 そこに立っていたのは、この国の王——陛下だった。


「一人の女がいなくなった程度で、この有様か」


 冷えた視線が突き刺さる。


「……戻せばいいのです」


 かすれた声で言い返す。


「彼女は必要な存在だ」


「違うな」


 即座に否定される。


「お前が必要としているのではない」


 一歩近づき、静かに言い放つ。


「お前が“支えられていた”のだ」


 その一言で、すべてが崩れた。


「……っ」


 言葉が出ない。


「一度手放したものは、戻らぬ」


 淡々とした宣告。


 逃げ場は、どこにもなかった。



 その後、王太子は自ら私のもとを訪れた。


「戻れ」


 絞り出すような声。


「お前が必要だ」


 だが私は、静かに首を横に振る。


「お断りいたします」


「なぜだ!」


「私はもう、“従順なふり”をやめましたので」


 微笑む。


「殿下のお望みの私は、もうおりません」


 扉を閉じる。


 それですべては終わった。



「……やはり、あなたでしたか」


 振り返ると、公爵が立っていた。


「最初から見ておりました」


 静かに微笑む。


「あなたほどの方を手放すとは、愚かなことです」


 そして、手を差し出す。


「私の隣に来ませんか」


「……契約ではなく?」


「最初から本気です」


 迷いはなかった。


 私は、その手を取った。



 彼は、すべてを手にしていたはずだった。


 だが、その価値を理解することなく手放し、そして今になって、それが何であったのかを知る。


 けれど——


 理解した時には、もう遅い。




 彼女は、二度と振り返らない。




 それだけが、唯一の真実だった。

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