婚約破棄されたので従順なふりをやめたら、王太子が急におかしくなりました 〜今さら戻れと言われてももう遅いです〜
「エリシア・ヴェルディア。——お前との婚約は、ここで破棄する」
その宣告は、華やかな音楽と笑い声に満ちていた夜会の空気を鋭く断ち切り、場にいたすべての視線を一瞬で私へと引き寄せた。
煌びやかな灯りの下、好奇と同情、そして隠しきれない嘲りを含んだ視線が絡みつく中、私はゆっくりと顔を上げ、逃げることなく王太子殿下をまっすぐ見据える。
「……理由を、お伺いしてもよろしいでしょうか」
静かに問いかけながら、その隣に寄り添う令嬢へと一瞬だけ視線を向けると、彼女は小さく微笑みつつも、優越を隠そうともしなかった。
「決まっているだろう。私は彼女を愛している——だから、お前との婚約は不要だ」
迷いなく言い切られたその言葉を受け止めながら、胸の奥には波一つ立たず、ただ“やはりそうなるのか”という確信だけが静かに広がっていく。
——ええ、知っておりました。
「……承知いたしました」
ゆっくりと頭を下げた瞬間、場の空気がわずかに揺らぎ、周囲に戸惑いのざわめきが広がった。
「……ずいぶんと物分かりがいいな」
殿下の声に混じる苛立ちを感じ取りながら、私はわずかに微笑む。
「殿下のお望みであれば、私は従うだけですから」
そう答えた瞬間、胸の奥で長く張り詰めていたものが、ようやく静かにほどけていくのを感じた。
従順で、控えめで、殿下を立てるためだけに整えられた存在——その仮面を、今、ようやく外せる。
「それでは、これにて失礼いたします」
優雅に一礼し、背を向ける。
「……待て」
低く掠れた声が背後から落ちた。
振り返ると、そこには先ほどまでの確信とは異なる、迷いと焦りを滲ませた表情があった。
「……本当に、それでいいのか?」
「はい」
迷いなく答える。
その瞬間、彼の何かがわずかに揺らいだ。
「ごきげんよう、殿下」
私は振り返らず、その場を後にした。
⸻
重厚な扉を抜けた瞬間、夜会の喧騒が遠ざかり、ひんやりとした静寂が私を包み込む。
「……これで、ようやく自由」
小さく息を吐いた瞬間、胸の奥にあった重たい何かが、音もなく崩れ落ちた。
ほんの一瞬だけ、力が抜ける。
——長かった。
だがそれもすぐに静かに沈み、代わりに内側から満ちてくるものがある。
抑え込んでいた力が、ゆるやかに解き放たれていく。
空気がわずかに震え、目に見えぬ圧が周囲を満たした。
もう、隠す必要はない。
⸻
王城へ戻った瞬間から、すべてが狂い始めていた。
書類は滞り、報告は噛み合わず、判断はことごとく裏目に出る。
「……なぜだ」
王太子は机に手をついたまま、低く呟く。
これまで当たり前のように整っていたすべてが、まるで最初から存在しなかったかのように崩れていく。
「なぜ回らない……!」
書類を叩きつける音が響く。
その原因に、もう気づいているはずなのに。
「……エリシア」
名を呼んだ瞬間、胸の奥が強くざわついた。
思い返せば、彼女はいつもそこにいた。
何も言わず、目立たず、ただ当然のようにすべてを整えていた。
「……違う」
思考が揺らぐ。
“代わりが利く存在”ではなかった。
「連れ戻せ……今すぐだ」
命じた声は、もはや以前の威厳を失っていた。
⸻
だが、その命令が叶うことはない。
⸻
「情けない声だな」
低く響く声に、王太子は顔を上げた。
そこに立っていたのは、この国の王——陛下だった。
「一人の女がいなくなった程度で、この有様か」
冷えた視線が突き刺さる。
「……戻せばいいのです」
かすれた声で言い返す。
「彼女は必要な存在だ」
「違うな」
即座に否定される。
「お前が必要としているのではない」
一歩近づき、静かに言い放つ。
「お前が“支えられていた”のだ」
その一言で、すべてが崩れた。
「……っ」
言葉が出ない。
「一度手放したものは、戻らぬ」
淡々とした宣告。
逃げ場は、どこにもなかった。
⸻
その後、王太子は自ら私のもとを訪れた。
「戻れ」
絞り出すような声。
「お前が必要だ」
だが私は、静かに首を横に振る。
「お断りいたします」
「なぜだ!」
「私はもう、“従順なふり”をやめましたので」
微笑む。
「殿下のお望みの私は、もうおりません」
扉を閉じる。
それですべては終わった。
⸻
「……やはり、あなたでしたか」
振り返ると、公爵が立っていた。
「最初から見ておりました」
静かに微笑む。
「あなたほどの方を手放すとは、愚かなことです」
そして、手を差し出す。
「私の隣に来ませんか」
「……契約ではなく?」
「最初から本気です」
迷いはなかった。
私は、その手を取った。
⸻
彼は、すべてを手にしていたはずだった。
だが、その価値を理解することなく手放し、そして今になって、それが何であったのかを知る。
けれど——
理解した時には、もう遅い。
彼女は、二度と振り返らない。
それだけが、唯一の真実だった。




