第7話 お断りします。今日の夕飯が楽しみなので
干し肉を齧っていたら、王都から使者が来た。
ギルドの酒場で昼食を取っていたわたしの前に、王家の紋章入りの外套を着た男が現れた。きっちりと整えられた髪、磨かれた革靴、背筋の伸びた姿勢。王宮の侍従か、それに近い役職だろう。辺境の酒場には不釣り合いな清潔さだった。
「コルヴェン侯爵家が長女、マレーネ殿とお見受けする」
「そうですが」
干し肉から目を離さずに答えた。塩加減がちょうどいい。今日の干し肉は当たりだ。
「エドモン殿下の命により、参上しました。殿下は、マレーネ殿の王都帰還を求めておられます」
「お断りします。今日の夕飯の干し肉が楽しみなので」
干し肉を持った手は動かさない。表情も変えない。令嬢時代に社交界で培った能力が一つだけある。相手の目を見ながら、完璧に無表情でいること。
酒場が一瞬、静まった。
使者の男が瞬きを三回した。ガレスの口元が引きつっている。笑いを堪えているらしい。
「これは殿下の御命令です」
「失礼ですが、わたしと殿下の婚約は既に破棄されています。殿下の命令に従う法的義務は、わたしにはもうありません。ギルド間協定第七条に基づき、登録冒険者への強制帰還命令は無効です」
使者の顔が強張った。
「しかし、国家の安全に関わる」
「それは理解しています。だからこそ、ギルド経由で外部委託の形で協力すると申し入れたはずです。ガレスさん、書面は送りましたよね」
「ああ。十日前に出した」
ガレスがカウンターに肘をついた。
「つまり、王宮はうちの提案を無視して、直接引き取りに来たってわけだ」
使者が咳払いをした。
「ギルドの提案は検討中ですが、殿下は一刻も早くマレーネ殿に戻っていただきたいと」
わたしは干し肉を噛み切り、飲み込んでから口を開いた。
「殿下にお伝えください。わたしは冒険者マレーネです。コルヴェン家の令嬢でも、殿下の婚約者でもない。協力の意思はありますが、条件は譲りません」
使者が一歩前に出た。
「王子の命令に逆らうのか」
その瞬間、酒場の空気が変わった。
わたしの背後で、椅子が鳴った。ブリジットが立ち上がっている。弓を背負ったまま、使者を見据えていた。その隣に、朝から顔を出していた冒険者が二人、黙って立った。
カウンターの向こうで、ガレスが腕を組んだ。
「うちのギルド員に手を出すなら、冒険者ギルド間協定に従ってもらう。王宮といえど、ギルドの自治権は侵せない。そうだろ?」
使者の顔から血の気が引いた。
辺境のギルドは、王宮から距離がある分だけ独立性が高い。ギルド間協定は、冒険者の権利を守る法的枠組みだ。王宮であっても、ギルドの敷地内で冒険者を強制連行することはできない。
法を知っていることの強さ。五年間、婚約者として社交界で学んだ法律知識が、こんなところで役に立つとは。前世の法学の授業で「法は弱者の盾になる」と教授が言っていたのを思い出した。あの言葉は正しかった。
使者が一歩下がった。
「……殿下にお伝えします」
「ええ、お伝えください」
使者が一礼して踵を返そうとしたとき、わたしは窓の方を見た。使者が乗ってきた馬が見える。栗毛の大きな馬。前脚の筋肉の付き方が良い。蹄鉄が新しい。手入れが行き届いている。
「それと」
「いい馬ですね。品種は何ですか」
使者がぽかんとした顔をした。
わたしは本気で聞いたのだが、場の空気にはそぐわなかったらしい。ブリジットが吹き出して、酒場がどっと笑いに包まれた。
使者は結局、馬の品種を答えずに出て行った。残念だ。立派な栗毛だったのに。前世なら写真を撮っていた。
◇◇◇
使者が去った後、深呼吸した。
ふう。
手が、微かに震えていた。肩甲骨の間がぞくりと冷えている。
平気なふりをしていたが、王宮の威圧は身体に来る。声の響き方、紋章の重み、「命令」という言葉の圧。五年間、あの空気の中で生きていたのだ。背筋を伸ばしていないと潰されるような空気。それが、使者一人の来訪で蘇ってきた。
ぎゅっと拳を握った。開いた。指先の感覚を確認する。震えは止まった。
「強いな」
ケイルの声が、背後から聞こえた。
振り返った。ケイルが酒場の入口に立っていた。いつからいたのだろう。
「え?」
「強い」
それだけ言って、ケイルは視線を外した。窓の外の、使者が去った方角を見ている。
その横顔に浮かんだ表情を、わたしはうまく読み取れなかった。尊敬とも、感嘆とも、どちらとも違う何か。
ブリジットがわたしの袖を引っ張った。
「ねえ、英雄。宿に帰るなら案内するよ。あんた一人だと逆方向に行くでしょ」
「行きません。たぶん」
「たぶんね」
ブリジットに手を引かれてギルドを出た。確かに、最初の角を曲がった時点で方角がわからなくなっていた。遺跡の中では迷わないのに、町の中では三歩で迷子になる。我ながら不思議だ。
背後でケイルの気配がした。少し離れて、わたしたちの後をついてきている。五歩後ろ。いつもの距離。
ブリジットが小声で言った。
「ケイルさ、あんたのこと見てたよ。使者と話してるとき、ずっと」
「護衛だから当然でしょう」
「そういう目じゃなかったけどね」
何のことだかわからない。わからないことにしておく。
宿の前でブリジットと別れた。「今日は早く寝な」と言われて頷いた。
宿に戻り、寝台に腰かけた。窓から見える夕焼け空が、赤と紫のグラデーションを描いている。
使者が去り際に漏らした言葉が、耳に残っていた。「聖女の浄化がもう……」。浄化の補助魔法陣。まだ使っているのか。わたしの構築した魔法陣を、わたしがいなくなった後も。調整なしで動かし続けたら、効果が落ちるのは当然だ。
だが、それはもうわたしの問題ではない。
明日からまた、遺跡の調査に戻る。自分の仕事をする。自分で選んだ道を歩く。
それだけのことだ。
それだけのことが、こんなにも手に入りにくいものだとは、前世では知らなかった。




