第5話 ありがとう。……助かった
古代の防衛魔法陣は、千年経っても律儀に仕事をしていた。
遺跡ヴォルスの深部。前回の壁画の広間を抜け、さらに奥へ続く通路を進む。天井が低くなり、松明の煤が石壁にこびりついている。誰かが遠い昔に、ここを通ったのだ。
今回の調査隊は三人。わたし、ケイル、そして地質に詳しい年配の冒険者。ブリジットは別の依頼で留守だった。
奥の広間は、前回の壁画の間よりさらに大きかった。
天井から光が差し込んでいる。自然光ではない。壁面に埋め込まれた結晶が、微かに発光している。千年前の照明装置がまだ動いている。この遺跡の技術力は、正直に言って異常だ。
中央に、巨大な魔法陣が床に刻まれていた。
前回の壁画に描かれていたものと同じ紋様。だが規模が う。直径は十歩分以上。紋様の一つ一つが繊細で、線の幅は髪の毛ほどしかない。
「これは……」
膝をついた。指先で線をなぞる。彫りが深い。一本一本、手作業で刻んだものだ。どれほどの時間がかかったのだろう。前世の大学で出土品の線刻を調べたときの記憶が蘇る。人の手は、こういうものを残せる。
床に刻まれた古代語を読み始めた。
国境防衛の魔法陣の原型。やはり仮説は正しかった。この魔法陣が、リスタニア王国の防衛網の設計図にあたる。
夢中で読み進めた。羊皮紙に写しを取る手が震える。学術的興奮だ。前世で卒論を書いていたときでも、ここまで手が震えたことはない。
「マレーネ」
ケイルの声が聞こえたが、返事をする余裕がない この碑文の三行目に、浄化魔法の増幅に関する記述がある。これをリアーヌ嬢の補助魔法陣に応用すれば、効果範囲が倍以上に。
いや、もうわたしには関係ない話だ。
「マレーネ」
二度目の呼びかけは、切迫していた。
顔 上げた瞬間、天井から粉塵が落ちてきた。
地鳴り。
壁の結晶が明滅し始める。防衛魔法陣の一部が起動したのだ。外部侵入者を検知する古代のセキュリティ。千年前のものが、今になって動き出した。
「崩れる」
ケイルの声が鋭かった。年配の冒険者が出口に向かって走る。
わたしは、床の魔法陣の写しをもう一行だけ取ろうとした。
「馬鹿、来い」
ケイルの腕がわたしの腰を掴み、引き起こした。天井から石の塊が落ちてくる。
走った。靴底が瓦礫を蹴る音。天井から石の欠片が降ってくる。髪に粉塵がかかる。目に入る。視界が霞む。
ケイルが前を走り、わたしの手を引いている。通路の壁が左右から迫ってく ように感じる。実際に迫っている。防衛機構が通路を封鎖しようとしているの 。
岩が落ちた。
ケイルが振り返り、わたしを壁際に押し込んだ。背中で岩を受ける。鈍い音がした。
「ケイル」
「走れ。止まるな」
背中を打たれたはずなのに、声が揺れていない。わたしの手を掴む力も緩まない。
通路の先に、分岐点があった。右か左か。暗い。松明は落とした。
壁に触れた。指先に刻印の感触。古代語だ。暗闇の中、指先で文字を読む。
「左です。『出口は東へ、光の道を辿れ』」
左の通路に飛び込んだ。ケイルがわたしの後ろから続く。
走って、走って。
光が見えた。
出口だった。
外の空気が肺を満たした瞬間、足から力が抜けた。
◇◇◇
遺跡の外に転がり出た。
草の上に倒れ込んだ瞬間、全身の力が抜けた。空が見える。夕暮れの空。紫がかった雲が、ゆっくり流れている。
息が荒い。肺が痛い。背中に草の冷たさと、土の匂い。
隣でケイルが仰向けに倒れていた。呼吸が荒い。革の胸当てが泥だらけだ。背中を見ると、石に打たれた跡が残っている。服の一部が破れ、その下の肌が赤くなっていた。
「怪我」
「たいしたことない」
嘘だ。動くとき、一瞬だけ顔をしかめた。
起き上がろうとして、気づいた。ケイルの腕の中にいた。
転がり出たときに、ケイルがわたしを庇う形になっていたらしい。肩に回された腕が、まだ離れていない。
耳の付け根が熱くなった。
「あ」
「……ああ」
ケイルも気づいたらしい。腕を離した。離す動作がぎこちない。
座り直した。泥だらけの二人が、草の上に並んで座っている。ケイルのチュニックに泥がついている。わたしの髪に石の粉が白く残っている。さっきまで命の危険があったのに、今はただ、妙に気まずい。
虫の声が聞こえる。夕暮れの虫。普通の、何でもない音が、やけに鮮明に耳に届く。生きている、と身体が言っている。
空気を吸った。吐いた。もう一度吸った。
「ありがとう。……助かった」
小さな声だった。こういう言葉を言い慣れていない。前世でも、この世界でも、誰かに助けてもらうことがほとんどなかった。自分でやる。自分で何とかする。それが五年間のやり方だった。
ケイルが横を向いた。
「仕事だ」
いつもの一言。でも、わたしの頭についた土を払う手は。
大きくて、乾いていて、優しかった。
心臓が妙な動き方をしている。吊り橋効果だ、と前世の知識が囁く。危険な場面を共にすると、興奮を恋愛感情と錯覚する心理現象。そう。これは錯覚。
錯覚のはずなのに、耳の付け根の熱さが引かなかった。
◇◇◇
野営地に戻ると、 配の冒険者が先に到着していた。無事だったらしい。焚き火が組まれ、干し肉が焼ける匂いがする。
ケイルの背中に薬を塗る手が、自分のものとは思えないほど震えていた。
「痛いですか」
「いや」
また嘘だ。肩甲骨のあたりが紫色に腫れている。
「……わたしが壁画に夢中にならなければ」
「壁画の破片を拾おうとしたときは、さすがに怒った」
え。バレていたのか。崩落の中で、つい手が伸びたのを。
「すみません」
「怒った。本気で」
間が空いた。焚き火がぱちりと鳴った。
「だが」
ケイルが少しだけ振り返った。 色の目。焚き火の明か 。
「お前が無事なら、それでいい」
仕事だ、とは言わなかった。その沈黙の意味を、わたしはまだ考えたくなかった。
その夜、寝袋の中で天井の代わりの星空を見つめながら、わたしは自分に言い聞かせた。
吊り橋効果だ。一時的な心理現象だ。
でも、ケイルが「仕事だ」と言わなかったことが、胸のどこかに引っかかって取れなかった。
頭についた土を払う手の感触を、指先が覚えている。大きくて、乾いていて。
錯覚でいい。今は、錯覚でいいから。
もう少しだけ、この手の感触を覚えていたかった。




