第4話 ああ、そういうことですか
報告書を書くのは嫌いではない。事実を並べればいいだけだから。
ギルドの二階にある小さな執務室で、羊皮紙にインクを走らせる。辺境のインクは王都のものより少し粘度が高くて、ペン先に引っかかる感触がある。書き慣れれば、これはこれで悪くない。
遺跡ヴォルスの調査報告。入口の罠の構造、古代語の警告文の翻訳、壁画の記録、そして防衛魔法陣の紋様。
紋様のスケッチを描きながら、改めて確認する。やはり、国境防衛網の基本構造と一致している。原型と劣化コピーの関係。もし完全な解読ができれば、現在の防衛網を強化する手がかりになる。
あるいは、壊す手がかりにも。
そこまで考えて、ペンを止めた。余計なことだ。わたしは冒険者として報告書を書いているのであって、国防の専門家として分析しているのではない。
紋様の細部を思い出しながら線を引く。手が勝手に動く。前世の研究室でフィールドノートを書いていたときと同じだ。コーヒーの染みがついた机の上で、出土品のスケッチを描く。あの感覚。
違うのは、インクの匂いだ。前世のボールペンとは違う、鉄と酢酸の混じった匂い。この匂いに、もう慣れた。
報告書を仕上げてガレスに提出すると、ガレスは二度読み返した。
「正確だな。学院の研究者顔負けだ」
「元がそういう環境でしたから」
「ふん。もったいないことをしたな、王都は」
ガレスの言い方が妙にぶっきらぼうで、思わず笑った。もったいない。王都の人間はそう思っていないだろう。でも、辺境のギルドマスターがそう言ってくれることが、妙に嬉しかった。
◇◇◇
その日の夕方、ギルドの酒場でブリジットと食事をしていたときだった。
隣の卓で飲んでいた商人が、王都の噂話をしていた。声が大きいので、聞くともなく耳に入ってくる。
「学院の古代魔法研究が止まってるらしいぜ。主任の研究者がいなくなったとかで」
「研究者が? 逃げたのか」
「さあな。何でも、コルヴェン家の令嬢が婚約破棄されて出て行ったら、研究が丸ごと止まったんだと。あの令嬢が一人でやってたのかって、学院が大騒ぎだってよ」
パン粥を掬う手が止まった。
ああ、そういうことですか。
予想はしていた。わたしの研究ノートがなければ、古代語の解読は進まない。ノートは持ち出していないが、わたしの頭の中にしかない解読の手順や仮説は、文書化されていなかった。するつもりだった。でもエドモン殿下が「不要だ」と言ったので、引き継ぎ資料は読まれないまま机に残っている。
ブリジットがわたしの顔を覗き込んだ。
「元カレのこと?」
「元婚約者です。カレではありません」
「同じようなもんでしょ」
「全然違います」
声が少し硬くなったことに気づいて、パン粥を口に運んだ。蜂蜜の甘さが舌に広がる。
「……気にしてないわけではないですけど。もう、わたしの責任ではないので」
「ふうん」
ブリジットはそれ以上聞かなかった。代わりに林檎酒を注いでくれた。
辺境の林檎酒は甘くて、少しだけ苦い。夕暮れの味がする。なんというか、そう、自由の味だ。いや、それは詩的すぎるか。
◇◇◇
宿に戻る道で、通りの子供たちが走り回っているのを見た。追いかけっこ。辺境の子供は元気だ。
一人の男の子が転んで、膝を擦りむいた。泣きそうな顔で唇を噛んでいる。通りかかったわたしを見上げて、不思議そうな顔をした。見知らぬ大人、しかもギルドの冒険者だ。
「大丈夫? 見せて」
膝をついて傷を見た。浅い擦り傷だ。薬草袋から軟膏を出して塗る。学院の薬学講座で覚えた基本処方。
「しみる?」
「しみない」
強がっている。目が潤んでいる。
「すぐ治るよ」
男の子が走って行った。振り返って、「ありがとう」と叫んだ。
小さなことだ。でも、こういう小さなことが、冒険者として生きている実感になる。
翌日、新しい依頼が出た。
遺跡ヴォルスの深部調査。前回の壁画の先、さらに奥の区画を探索する。報酬は前回の倍。ギルドの依頼主は辺境伯の代理人で、遺跡の学術的価値を評価したいとのことだった。
「護衛はまたケイルがつく。他のメンバーは新しく組む」
ガレスの言葉に頷いた。ケイルか。あの無口な大男。
受付の窓口を離れようとしたとき、ケイルがちょうど入ってきた。扉の枠に肩が引っかかりそうな体格。朝の光を背負って、影が長い。
「新しい依頼が出ている。深部調査だ」
「聞いた」
「受けるのか」
「ああ」
会話が短い。驚くほど短い。でもそこに不快感はなかった。むしろ楽だ。王都の社交界では、意味のない前置きが延々と続いたから。
「なぜ冒険者になったのか」
ケイルが、唐突に言った。
わたしは少し驚いた。この人が個人的な質問をするのは初めてだ。
「自分で選んだ道を歩きたかったから」
答えてから、これは本音だな、と思った。初対面のブリジットには「いろいろあって」としか言えなかったのに。不思議だ。
ケイルが黙って頷いた。
それだけだった。問い詰めもしないし、同情もしない。ただ、聞いて、頷いた。
沈黙が流れた。不思議と気まずくない。
窓の外で、辺境の風が春の終わりの匂いを運んでいた。白い野薔薇の香り。もうすぐ夏が来る。
ガレスが棚の奥から別の羊皮紙を引っ張り出した。
「ああ、それとな。王都から妙な報告が来てる」
「妙な報告?」
「聖女様の浄化魔法の効果が落ちてるらしい。辺境の魔獣被害が増えてるのと関係あるかもしれん」
浄化の補助魔法陣。
わたしが学院にいた頃、リアーヌ嬢の浄化魔法の効果範囲を広げるために構築した補助魔法陣。あれの維持をまだやっていたのか。わたしがいなくなれば、調整する人間がいなくなることくらい、わかりそうなものだけど。
いや。わかっていないから、婚約を破棄したのだ。あの人たちは。
鎖骨の下がきゅっと縮むような感覚があった。
「わたしには関係のない話ですね」
声に出すと、少しだけ楽になった。
ギルドを出ると、夕暮れの風が吹いていた。白い野薔薇の香りが、どこからか漂ってくる。王都にはない匂いだ。
明日、また遺跡に潜る。今度はもっと奥まで行ける。壁画の続きを読む。防衛魔法陣の全容を解明する。
わたしの足で。わたしの目で。わたしの言葉で。
宿の窓から星を見た。前世の記憶の中のプラネタリウムとは違う星座が、頭上に広がっていた。この世界の星座の名前を、まだ半分も覚えていない。覚える時間はいくらでもある。




