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婚約破棄されたので、予定通り冒険者になります  作者: 九葉(くずは)


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第3話 この壁画、保存状態が素晴らしいですね

遺跡の入口に刻まれた文字を、わたし以外に読める人間はこの場にいなかった。


石壁に彫り込まれた古代語。アル・カナの民が残した警告文だ。風化して一部が欠けているが、文脈から補える。


「『此の先、試練を越えし者のみ通るべし。地を穿ちし棘に触れるなかれ。天を仰ぎし眼に惑わされるなかれ』」


声に出して読み上げると、背後で誰かが息を呑んだ。


「本当に読めるのか」


ケイルの声だった。いつもの短い言葉。だが語尾に、ほんの微かな驚きが混じっていた。


「読めます。コルヴェン家は代々古代語の研究を家業にしていますから」


「……そうか」


ブリジットが石壁に顔を近づけ、首を傾げた。


「あたしには模様にしか見えないけど。で、棘って何。物理的な罠?」


「おそらく。アル・カナの遺跡は入口に防衛機構を備えているのが通例です。床に圧力板、壁に射出装置。というか、この警告文の書体から推測すると中期アル・カナ時代のもので、その時期の遺跡は機械式の罠が多い。魔法式は後期に」


ブリジットの目が泳いでいた。


「あ、すみません。つい」


「いいよ。要するに、足元注意ってことでしょ」


「……端的に言えば、そうです」


遺跡の内部に足を踏み入れた。


松明の火が石壁を照らす。空気がひんやりとして、土と苔と、かすかに金属の匂いがする。天井から水滴が落ちて、ぴちゃん、と規則正しく響いていた。


三歩目で、わたしは足を止めた。


床の石のひとつが、微妙に色が違う。周囲の石より新しい。いや、新しいのではない。一度外されて嵌め直された跡がある。


前世の考古学の知識だ。フィールドワークで遺跡を調査するとき、床の不自然な継ぎ目は罠のサインだった。この世界でも同じ原理が通用するなら。


「ケイル、その石を踏まないでください」


前を歩こうとしていたケイルが、足を止めた。疑問を口にせず、まず従う。判断が速い。


わたしは壁の石組みを確認した。圧力板の先に、壁面から突き出す鉄の棒。射出装置だ。千年前のものが今も動くかはわからないが、試す気にはなれない。


松明を掲げて天井を見上げる。そこにも古代語の刻印。小さくて見落としやすい。


「『右の壁、三番目の石を押せ。道は開く』」


石を押すと、がちり、と何かが外れる音がした。床の圧力板が沈み、射出装置の鉄棒が壁に収納される。


ブリジットが口笛を吹いた。


「千年前の罠を、ものの数分で。あんた何者」


「冒険者です。今日から」


ブリジットが笑った。ケイルは笑わなかった。ただ、わたしを見る目が変わっていた。何者だ、と問う目。品定めではない。もっと純粋な、なんというか。


いや、他人の感情を推測するのはやめよう。


奥に進むにつれ、通路が広くなった。壁面の石が滑らかになり、人の手で磨かれた痕跡がある。千年前の職人が、一つ一つ丁寧に仕上げたのだ。前世の大学で触れたエジプトの石棺のレプリカを思い出した。あれと同じ手触り。人間の手仕事は、千年経っても残る。


足元に散らばった陶器の破片を避けながら進む。日常の器だろう。ここで暮らしていた人たちがいた。食事をし、笑い、眠り、そして去った。


そして、広間に出た。


息を呑んだ。


壁一面に、壁画があった。


鮮やかな青と金で描かれた、アル・カナの民の生活。農耕する人、書物を読む人、星を見上げる人。中央には巨大な魔法陣が描かれ、その周囲に古代語の長文が刻まれている。


保存状態が信じられないほど良い。千年の歳月を経て、色がまだ生きている。


「この壁画、保存状態が素晴らしいですね」


自分の声が上擦っていた。膝が震えている。興奮だ。五年間夢見ていたものが、目の前にある。


松明をブリジットに預け、壁に近づいた。指先が震える。触れたい。だが触れてはいけない。考古学者の矜持が許さない。


「この魔法陣の紋様、もしかして防衛系の……」


中央の魔法陣を読み始めて、気づいた。


この紋様は、リスタニア王国の国境防衛網に使われている魔法陣と同じ基本構造を持っている。いや、同じではない。こちらが原型だ。現在の防衛網は、この古代の技術を劣化コピーしたもの。


ということは。


「これ、もしかして……」


言いかけて、口を閉じた。まだ仮説の段階だ。確証がないことを口にするのは研究者として正しくない。


だが、心臓の鼓動が速い。いや、心臓というより、頭の奥がぐるぐる回っている。前世の大学で卒論のテーマが見つかったときと同じ感覚。


ケイルがわたしの横に立った。壁画を見上げている。


「重要なものか」


「……かもしれません。まだわかりません。でも」


言葉を選ぶ。


「もし、わたしの仮説が正しければ。この遺跡は、この国の防衛の根幹に関わるものです」


ケイルの目が細くなった。何かを考えている顔だ。


◇◇◇


壁画の前で、どれくらい時間が経ったのか。ケイルに「日が傾いている」と言われて初めて、三時間以上が経過していたことに気づいた。羊皮紙に取った写しは十二枚。まだ全体の三分の一も記録できていない。


名残惜しかった。ここにもう一日、いや一週間いたい。


遺跡から出た。夕暮れの森。入口から外に一歩出た瞬間、わたしは方角がわからなくなった。


来たときの道は、右だったか。左だったか。


木々がどちらも同じに見える。苔の生え方から方角を推測しようとしたが、この世界の苔は前世の法則に従わない。


「……こっち、でしたっけ」


左を指さした。


ブリジットが首を横に振った。「逆」


「え」


「完全に逆。あんた、遺跡の中ではあんなに冷静だったのに」


ケイルがわたしの前を歩き始めた。何も言わない。ただ、歩く速度がいつもより遅い。わたしが迷わないように。


口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。


気のせいかもしれない。夕暮れの光のせいかもしれない。


野営地に戻ると、ブリジットが焚き火の前で弓の手入れをしていた。


「遅かったじゃん。迷った?」


「迷ってません」


「顔に書いてあるよ」


焚き火の暖かさが心地よい。干し肉と硬パンの夕食。携行食の袋を開けたら、干し林檎が入っていた。朝はなかったはずだ。


誰がいつ入れたのか。


ケイルは焚き火の向こう側で、剣の手入れをしていた。目が合わない。合わせようとしない。


齧った。甘酸っぱくて、おいしかった。


寝袋に入ってから、今日の壁画のことを考えた。あの防衛魔法陣の原型。もし完全に解読できれば、この国の防衛は大きく変わる。学術的な意味だけではない。政治的な意味も持つ。


わたしが解読した情報は、わたしのものだ。誰にも渡さない。渡すとすれば、わたしの意志で、わたしの条件で。


星が瞬いている。辺境の夜空は広い。


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