第2話 辺境の風は、思ったよりうまい
辺境の宿のベッドは、背骨に正直だった。
板の上に薄い藁のマットレスが敷かれているだけで、寝返りを打つたびにぎし、と音がする。王都の羽毛寝台とは比べものにならない。けれど不思議と、五年間のどの夜より深く眠れた。
朝、窓の隙間から差し込む光で目が覚める。宿の壁に誰かの落書きがあった。木炭で描かれた地図のようなもの。ヴォルス遺跡への略図らしい。「入口の罠に注意」と走り書きが添えてある。
前の宿泊者も冒険者だったのだろう。几帳面な人だ。矢印の先に小さな骸骨の絵が描いてある。ユーモアのある几帳面な人だ。
階下に降りると、パン粥が出た。蜂蜜が少しだけかかっている。
「うまい……」
口から出た言葉に、自分で驚いた。あたりを見回す。誰も聞いていない。前世の口調だ。気をつけないと。
「美味しゅうございます」
言い直したが、もう遅い。まあ、ここに侯爵令嬢の作法を気にする人間はいない。
◇◇◇
ギルドに顔を出すと、ガレスがカウンター越しに手を振った。
「調査隊のメンバーが揃った。昼に出発だ」
遺跡ヴォルスへの調査隊は四人編成。わたし、記録と古代語の読解担当。ブリジットという弓手の女性、二十二歳、辺境育ち。斥候の若い男。そして護衛のケイル・ダリオス。
ケイルを最初に見たとき、大きいな、と思った。
背がわたしより頭ひとつ分高い。肩幅が広く、腰に長剣を提げている。黒い髪を無造作に後ろで束ねて、目が暗い灰色。革の手袋をしていて、左手の手首あたりが擦り切れている。
「ケイルだ。護衛を担当する」
声が低い。それだけ言って、わたしの荷物に手を伸ばした。
「自分で持てます」
手を引っ込めた。無表情。「……ああ」とだけ返して、先に歩き出す。
言葉が少ないにもほどがある。
「気にしないで」
隣に並んだのはブリジットだった。革の胸当てに弓を背負い、赤い髪を短く切り揃えている。
「あいつはいつもああ。でも腕は確かだから」
「そうですか」
「それにしても、あんた侯爵家のお嬢さんなんでしょ。なんで冒険者なんか」
「なんで、と言われると困るんですが」
答えに詰まった。自分で選んだ道を歩きたかった。それが一番正確な言い方だけれど、初対面の相手にはまだ重い。
「……まあ、いろいろあって」
「ふうん。いろいろね」
ブリジットは深追いしなかった。その代わり、弓の弦を指で弾いて、ぱちん、と小気味よい音を鳴らした。
「あたしも家を出てきたクチだから。事情は聞かない。ただ、遺跡の中で足を引っ張ったら容赦しないからね」
「心得ました」
「かたい返事だなあ」
辺境の人間は、他人の事情に踏み込まない代わりに、実力には正直らしい。ありがたい。王都の社交界で延々と探り合うよりずっといい。
◇◇◇
タルニスから遺跡ヴォルスまで、徒歩で半日。
街道を外れて森に入ると、木々の密度が増して空が狭くなった。足元の土が柔らかく、苔の匂いが鼻に届く。前世で登山をしていた頃の感覚が蘇る。腐葉土を踏む音、枝を避ける体の動かし方。
途中、急な斜面を下る場面があった。ケイルが何も言わずに先に降り、振り返って手を差し出した。
また。
「大丈夫です」
木の根を掴んで自力で降りた。革のブーツの底が湿った土を噛む感触。前世の登山経験が生きている。ケイルの手が空中に残り、ゆっくりと下りた。
「……そうか」
その一言に、怒りも呆れもない。ただ事実を受け止めた、という響きだった。
不思議な人だ。普通、二度も断られたら気を悪くするものだろうに。いや、そもそも護衛の任務として手を貸そうとしただけかもしれない。深読みしすぎだ。
小川を渡るとき、水面に映った自分の顔が見えた。髪を革紐で束ねた、旅装の女。五日前まで侯爵令嬢だった人間には見えない。
それでいい。
もうドレスの裾を気にしなくていい。誰かの前で完璧に微笑まなくていい。泥が跳ねたら拭えばいいし、汗をかいたら拭えばいい。それだけのことだ。
野営地に着いたのは夕暮れ時だった。
焚き火を囲んで夕食。干し肉と硬パン。ブリジットが水筒から林檎酒を注いでくれた。甘くて、少し酸っぱい。辺境の味だ。
ケイルは少し離れた場所に座り、黙々と剣の手入れをしている。砥石が刃に触れる、しゃり、しゃり、という規則正しい音。焚き火が爆ぜるたびに、ケイルの手元が赤く照らされる。左手の手袋だけが妙に古い。片方だけ替えないのは、何か理由があるのだろうか。
干し肉を齧る。
「……うまい」
また出た。
ブリジットが吹き出した。
「お嬢さん、意外と素直だね」
「す、すみません。つい」
「謝んなくていいよ。うまいもんはうまい」
ブリジットが笑って、もう一切れ干し肉を差し出した。受け取りながら、ふと視線を上げると、焚き火の向こうでケイルがこちらを見ていた。
目が合った瞬間、ケイルが視線を剣に戻す。砥石の動きが一瞬だけ止まっていたことに、わたしは気づかないふりをした。
というか、気づいたことにしたくなかった。なんというか、妙な気まずさだ。
「明日は遺跡の入口だね。緊張する?」
ブリジットの問いに、首を横に振った。
「楽しみです」
本音だった。
遺跡の入口に何が刻まれているのか。アル・カナの古代語を、この目で読める。五年間、この日のために準備してきた。
焚き火の向こうで、ケイルが立ち上がった。森の奥、遺跡がある方角をしばらく見つめている。
あの人、何か知っている。
根拠はない。ただ、遺跡を見る目が、好奇心ではなく確認の目だった。何かを探しに来た人の目。
わたしは干し肉を噛みながら、その背中を眺めた。火の粉が風に乗って、夜空に散っていく。
明日が楽しみだ。
寝袋に潜り込むと、頭上に星が見えた。王都では建物に遮られて、これほど星が近いことを忘れていた。空気が冷たくなってきて、鼻先がひんやりする。
隣のブリジットはもう眠っている。規則正しい寝息。斥候の青年も焚き火の番を残して横になった。
ケイルだけが、まだ起きていた。焚き火に薪をくべる手つきが、淀みなく手慣れている。こういう夜を何百回も過ごしてきた人の動きだ。
「寝ないんですか」
声をかけると、ケイルがこちらを見た。焚き火に照らされた灰色の目。
「先に寝ろ。見張りは俺がやる」
素っ気ない。けれど、その声の底に何か温度のようなものがあった。いや、気のせいかもしれない。初対面の相手に温度を読み取ろうとするのは、わたしの悪い癖だ。
目を閉じた。まぶたの裏に、焚き火のオレンジ色が残っている。
明日、遺跡の入口に刻まれた古代語を、この目で読む。
それだけは、嘘ではなかった。




