第12話 あんたのことが、好きだ
帰り道は、来たときより短く感じた。
馬車の揺れが心地よかった。王都からタルニスまで五日。来たときは長かったのに、帰りの景色は目に入る余裕がある。街道沿いの白い野薔薇が咲いている。前に来たときは蕾だった。
向かいの席でケイルが腕を組んで眠っている。いや、眠っているふりだ。まぶたが微かに動いている。この人が完全に無防備になるところを、わたしはまだ見たことがない。
二日目の朝、馬車が街道の宿場で休憩を取ったとき、ケイルが言った。
「辞表を出した」
水筒に水を汲んでいた手が止まった。
「パルマス騎士団に。正式に退団する」
振り返った。ケイルは街道の向こうを見ていた。表情が読めない。いつも通りの無表情。でも、左手が手袋の手首を引っ張っている。
「なぜ」
「守りたいものが見つかった」
声が低い。ぶっきらぼう。でも、丁寧に選んだ言葉だとわかった。この人が長い文を話すのは、それだけ考えたということだ。
「国の命令じゃなく、自分の意志で」
喉の奥が詰まった。
騎士団の副団長。それは地位も、収入も、仲間も、すべてを意味する。それを捨てると、この人は言っている。
「馬鹿じゃないの」
口から出た言葉が、予想と違った。もっと気の利いたことを言うつもりだった。
ケイルの口元がほんの少し動いた。笑ったのかもしれない。
「かもしれない」
それ以上は何も言わなかった。馬車に乗り込んで、また向かい合って座って、揺られた。
窓の外の景色が流れていく。畑、丘、小さな村。辺境に近づくほど空が広くなる。
ケイルが眠っている。今度は本当に。呼吸が規則的で、肩の力が抜けている。左手の手袋が少しずれて、手首の皮膚が見えている。傷跡がある。古い、細い線。
この人の過去を、わたしはまだほとんど知らない。守れなかった仲間のこと。騎士団に入った理由。パルマスという国のこと。
知りたいと思った。
知りたいと思っている自分に気づいて、窓の外を向いた。
◇◇◇
タルニスの門が見えたとき、胸の奥が軋んだ。
痛いのではない。膨らんでいる。何かが。
門の前にブリジットが立っていた。弓を背負って、腰に手を当てて、不機嫌そうな顔で。
「遅い」
「ただいま」
「おかえり。で、勝ったの」
「勝ち負けじゃないけど。研究は取り戻した」
ブリジットが鼻を鳴らした。
「勝ちだよ、それは」
ギルドに入ると、ガレスがカウンターの向こうで待っていた。その後ろに、冒険者たちが何人か。
「おかえり」
ガレスの声が太い。その一言が、不思議と目の奥に染みた。
「ただいま戻りました」
「固いな。ここは王宮じゃない」
「……ただいま」
言い直したら、ガレスが笑った。ブリジットが背中を叩いた。冒険者の一人が「よくやった」と杯を掲げた。
帰る場所が、ここにある。
数ヶ月前まで、わたしには帰る場所がなかった。王都の屋敷は婚約者の家で、実家は侯爵家の体面の中で、前世の記憶の中の一人暮らしのアパートは、もう存在しない世界にある。
今は、ここがある。ぎしぎし鳴る木製の床と、薄い林檎酒と、ガレスの愚痴と、ブリジットの小突きと。
タルニスの子供たちが三人、ギルドの前で走ってきた。
「先生、おかえり」
「ただいま。約束通り、帰ってきましたよ」
男の子がわたしの腰にしがみついた。女の子がケイルを見上げて「ケイルさんもおかえり」と言った。ケイルが小さく「ああ」と答えた。
子供たちが「明日、教室やる?」「やるやる」と騒いでいる。
ブリジットが腕を組んで言った。
「あたしが弓の授業やってたんだからね。感謝しな」
「感謝してます」
「嘘つけ。顔がにやけてるよ」
にやけている自覚はなかった。でも、口元が緩んでいるのは否定できない。
◇◇◇
夜。
宿の部屋で荷解きを終えて、窓を開けた。タルニスの夜空が広い。星が多い。王都では見えなかった星が、ここでは手が届きそうに光っている。
落ち着かなかった。
荷物を片付けた。羊皮紙を整理した。インク壺の蓋を確認した。同じ作業を二回やって、三回目に手が止まった。
ケイルのことを考えている。
辞表を出したこと。守りたいものが見つかったと言ったこと。
あの言葉の意味を、頭では理解している。心臓が追いついていない。
宿を出た。夜風が冷たい。タルニスの通りは暗いが、月明かりで足元は見える。方向音痴だが、この道だけは覚えた。ギルドの裏手から丘に上がる小道。遺跡が見える場所。
丘の上に着いたとき、ケイルがいた。
わたしが来ることを知っていたのか。それとも偶然か。聞かなかった。
並んで立った。眼下にタルニスの灯り。遠くに遺跡の黒い影。空には星。
「ケイル」
「ああ」
「わたしから、ひとつだけ」
声が震えた。情けない。一ヶ月考えた。学術会議の準備と同じくらい、この言葉を準備した。論理的に。感情を整理して。ケイルの行動を検証して。信じるに足る根拠を積み上げて。
全部、意味がなかった。
だって、出てきた言葉がこれだ。
「あんたのことが、好きだ」
前世の口調が出た。
丁寧語が全部消えた。五年間かけて身につけた侯爵令嬢の話し方が、瞬間蒸発した。
「あ、今の、わたし……」
取り繕おうとした。遅かった。
ケイルがこちらを見ていた。月明かりの下で、灰色の目が光っている。
何秒経ったのか。長い沈黙。風が吹いて、髪が揺れた。
ケイルの手が動いた。
大きな手が、わたしの肩に触れた。引き寄せられた。胸当ての革の匂いがする。硬い。冷たい。でもその奥に体温がある。
「やっと言ってくれた」
声が、耳のすぐ近くで聞こえた。低くて、掠れていて。
「待ってた」
「……待ってたの?」
「ああ」
「いつから」
「遺跡で、壁画に夢中になってるお前を見たときから」
「それ、かなり前じゃない」
「ああ」
笑いが込み上げた。涙と同時に。どちらが先かわからない。顔がぐちゃぐちゃだ。泣きながら笑うのは、前世でもやったことがない。
ケイルの腕がわたしを囲んでいる。強すぎず、でも離さない力で。
「ケイル」
「ああ」
「もうちょっと長い文で話してくれない?」
「……善処する」
笑った。今度は声に出して笑った。ケイルの胸板が震えている。この人も笑っているのだと気づくのに、少しかかった。
丘の上に風が吹いている。辺境の夜風。星が多い。
離れたとき、ケイルの耳が赤いことに気づいた。月明かりでもわかる。この人でも赤くなるのか。
「次は、どこの遺跡に行く」
ケイルが聞いた。声がいつもより少し高い。
「南の方に、未踏の遺跡があるらしいですよ。ガレスさんが言ってました」
「そうか」
「行く?」
「お前が決めろ。俺はついていく」
その言い方が、数ヶ月前の「仕事だ」とはまるで違った。
ついていく。仕事ではなく、自分の意志で。
「じゃあ行きましょう」
タルニスの灯りが、眼下で静かに揺れていた。風が温かい。春の終わり、夏の始まり。
宿に戻る道で、ケイルが何かを差し出した。
干し林檎だった。
「いつ買ったの」
「さっき。市場で」
「こんな夜遅くに?」
「夜市をやっていた」
嘘だ。夜市は三日前に終わっている。いつ買ったのかは聞かないことにした。
齧った。甘酸っぱい。
「うまい」
前世の口調が、もう隠せない。隠す必要も、なくなった。




