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婚約破棄されたので、予定通り冒険者になります  作者: 九葉(くずは)


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第11話 わたしの研究を返してください

学術会議の広間は、五年前にわたしが断罪された大広間と同じ建物だった。


天井の梁が高い。光の入り方も覚えている。五年前、あの窓から差していた午後の光が、わたしの背中を照らしていた。「婚約を破棄する」とエドモンが言い、周囲が息を呑んだあの日と同じ光。


ただし、今のわたしは五年前とは違う。


麻のチュニックに革のブーツ。腰に短剣。髪は革紐で束ねてある。貴族の礼装ではない。冒険者の装い。


ギルド経由の外部委託者として、国境の魔法陣修復報告のための出席。席は会場の端、傍聴席に近い位置。ガレスが「あくまで冒険者としての出席だ、堂々としてろ」と送り出してくれた。


会場に入ったとき、何人かの視線を感じた。王宮の学者たちがわたしを見ている。五年前に一緒に研究していた顔もある。目が合うと逸らされた。


椅子が硬い。五年前の学院の椅子より座り心地が悪い。予算が減ったのだろうか。


いや、そんなことはどうでもいい。


◇◇◇


学術会議の議題は三つ。国境防衛の報告、浄化魔法の研究進捗、そして古代遺跡から得られた新知見の発表。


二番目の議題で、リアーヌが壇上に立った。


白い法衣。金の縁取り。聖女の正装。後ろに控えるのは、エドモンの側近オルランド・ジェランと、学院の研究官三名。


リアーヌが口を開いた。


「浄化魔法の安定化に関する研究について、ご報告いたします」


声は澄んでいる。震えもない。五年前と同じ、計算された柔らかさ。


「わたくしの研究に基づく浄化魔法陣の改良により、辺境の結界を維持してまいりました。しかしながら近月、古代魔法陣の経年劣化により、一部で機能不全が発生しております」


経年劣化。


その言葉を聞いたとき、奥歯の裏側がじんと痺れた。


経年劣化ではない。あの魔法陣は、補助構造を定期的に調整しなければ出力が落ちる設計になっている。調整の方法を知っているのはわたしだけだ。なぜなら、あの補助構造を設計したのがわたしだから。


リアーヌが続けた。


「わたくしの論文『古代浄化魔法の構造的解析と応用』に記した理論を基に、学院の研究チームが修復案を」


胃の底に、冷たい石が落ちた。


わたしの論文。


わたしが書いた論文。三年前、コルヴェン侯爵家の書庫で古代語文献を四十冊以上読み込み、王立学院の深夜の研究室で草稿を書き上げたもの。インク壺を三本空にした。手が痙攣するまで書いた。


それを「わたくしの論文」と。


息を吐いた。静かに。椅子の肘掛けを握る手の力を、意識して緩めた。


まだだ。まだ立つな。


◇◇◇


リアーヌの発表が終わり、質疑に入った。


学院の研究官が二名、技術的な質問をした。リアーヌは微笑みながらオルランドに目配せし、オルランドが代わりに答えている。リアーヌ自身は理論の詳細を把握していない。いつもそうだった。


三番目の議題に移った。古代遺跡から得られた新知見。


タルニス・ギルドからの報告として、わたしの名前が呼ばれた。


立ち上がった。脚が少し重い。


壇上に向かう途中、エドモンの顔が見えた。正面の貴賓席。金の髪、青い目。五年前より少し痩せている。わたしを見て、唇が薄く引き結ばれた。


壇上に立った。羊皮紙を広げた。


「タルニス・ギルド所属、冒険者マレーネ・コルヴェンです。古代遺跡ヴォルスの調査報告を行います」


声が出ている。震えていない。よし。


国境の魔法陣の構造について報告した。修復の過程で判明した古代語の解読結果。防衛網の設計思想。機能不全の原因と、わたしが施した応急修復の詳細。


研究官たちの顔が変わっていくのが見えた。メモを取る手が速くなっている。


報告の最後に、わたしは一枚の羊皮紙を掲げた。


「なお、今回の修復にあたり、既存の浄化魔法陣の補助構造を再検証いたしました」


会場が静かになった。


「この補助構造は、現在リアーヌ・ベルタン嬢の論文として登録されている『古代浄化魔法の構造的解析と応用』の理論に基づいています」


リアーヌの顔から表情が消えた。


「しかし、この論文には根本的な誤りがあります。第三章の古代語引用部分。原典は『防護の円環は内から外へ展開する』ですが、論文では『外から内へ』と誤読されています」


沈黙。


「この誤読は、古代語の方向詞を現代語の語順で読んだ場合に生じます。古代アル・カナの文法体系を理解していれば、犯しようのない間違いです」


声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。


「わたしの原稿にはこの誤りはありません。なぜなら、わたしは古代語を原文のまま理解できるからです。この誤りは、古代語を読めない人間がわたしの草稿を書き写す際に、意味を取り違えて生じたものです」


会場がざわめいた。


リアーヌが立ち上がった。「それは言いがかりです。あの論文はわたくしが」


「パルマス王国の学術院に、同一内容の論文がコルヴェン家の名義で提出されています」


声は、わたしのものではなかった。


会場の扉の近く。パルマス王国の外交使節が立っていた。隣に、ケイルがいた。


使節が続けた。


「三年前、パルマス学術院が古代魔法の研究交流としてリスタニア側から受領した文献の中に、コルヴェン令嬢の署名入りの論文原本があります。内容はリアーヌ・ベルタン嬢の論文とほぼ同一。ただし、第三章の古代語引用は正確です」


エドモンが立ち上がった。「待て。それは」


「殿下」


わたしの声が出た。用意していた言葉があったはずだ。冷静に、論理的に。証拠を並べて、淡々と事実だけを述べる予定だった。


出てこなかった。


代わりに出てきたのは、五年分の重さを持った言葉だった。


「わたしの研究を返してください」


声が掠れた。


「あれは——五年分のわたしです」


用意した文章が、全部飛んだ。一ヶ月かけて原稿を書いて、論理を組み立てて、反論を想定して、全部準備した。なのに出てきたのがこれだけ。


会場が静まり返った。


リアーヌが何か言おうとした。涙が頬を伝っている。五年前と同じ泣き顔。誰かに助けを求める、あの目。


だが、会場の空気が違った。研究官たちの目が冷たい。証拠が揃っている。パルマスの原本と、古代語の誤読。泣き顔では覆せないものが、そこにあった。


エドモンの顔は白かった。唇が動いたが、声が出ていない。


わたしは壇上を降りた。


膝が震えていた。歩いている。まっすぐ歩けている。たぶん。


会場を出る扉の前で、ケイルが立っていた。何も言わない。ただ、わたしの隣に並んで歩き始めた。


廊下に出た。壁に手をついた。


呼吸が荒い。指先が冷たい。視界がぼやけている。


「ケイル」


「ああ」


「わたし、ちゃんと言えた?」


「言えた」


「用意してた言葉、全部飛んだ」


「そうか」


ケイルがわたしの背中に手を置いた。大きくて、温かい手。


「十分だった」


その一言で、目の奥が熱くなった。泣かない。泣く場所じゃない。王宮の廊下で泣いたら、五年前と同じになる。


だから泣かなかった。代わりに、深く息を吸った。窓の外の空が青い。五年前と同じ空。でも、隣に立ってくれる人がいる。


廊下の奥から足音が聞こえた。学術会議が騒然としている。研究官たちが証拠の検証を始めたのだろう。


もう、わたしがいる場所ではない。


「帰ろう」


「ああ」


ケイルと並んで、王宮を出た。正門の石畳を踏んだ。五年前、一人で歩いた道。今日は、隣に足音がある。


春の風が吹いていた。少し冷たい。でも、嫌な冷たさではなかった。


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