第1話 承知しました。では予定通りに
婚約破棄を言い渡された瞬間、わたしの頭に浮かんだのは、明日の朝食のことだった。
辺境の宿なら、温かいパン粥くらいは出るだろうか。干し肉は自分で買った方がいい。山羊乳のチーズがあれば言うことなし。
「コルヴェン侯爵家が長女マレーネ。其方との婚約を、本日をもって破棄する」
エドモン殿下の声が、学院の大広間に響いた。
高い天井に反響して、同じ言葉が二度、三度と耳に届く。大広間の床石は白の大理石で、磨き上げられた表面に天窓の光が落ちている。殿下の靴が新品だった。革の光沢が強すぎて、断罪の場で下ろしたのだとわかる。
こういうときに新しい靴を履く人なのだ、この人は。
五年間、この瞬間を待っていた。
正確には、前世の記憶が戻ったあの夜から。十二歳のわたしは天蓋付きの寝台の中で、ゲームの筋書きを思い出しながら拳を握った。泣いたのではない。笑ったのだ。だって、終わりが見えているなら準備ができる。
それからの五年間で、わたしがしたことは三つ。
体を鍛えた。侯爵家の護衛兵に「護身術を教えてください」と頼み、毎朝の素振りを欠かさなかった。前世で剣道三段まで取った手の感覚は、この身体にも残っていた。
知識を蓄えた。コルヴェン家の書庫にある古代語の文献をすべて読み、学院の閲覧室で婚約者しか入れない資料室にも通い詰めた。古代文明アル・カナの遺跡に関して、この国でわたし以上に詳しい人間はいない。
というか、たぶんいない。たぶん。自信過剰かもしれないけれど、五年も没頭すればそれなりのものにはなる。
そして、資金を貯めた。侯爵令嬢に支給される装飾品代をすべて換金し、革袋に詰めて寝台の下に隠してある。持参金が返還されれば、数年は暮らせる。
「エドモン殿下」
リアーヌ嬢が殿下の腕にすがりついた。男爵家の令嬢にして、浄化魔法の使い手。聖女さま。頬を伝う涙が、天窓の光を受けて宝石のように光っている。
泣き方がうまい。感心するほどに。涙の量、顔の角度、声の震え。全部が計算されている。
わたしには到底できない芸当だ。
「マレーネ様が怖くて。ずっと、ずっと我慢してきましたの」
我慢してきたのはこっちだ、とは言わない。言っても仕方がない。
殿下が義憤に燃えた目でわたしを見た。周囲の貴族たちが、同情と軽蔑の入り混じった視線を向けてくる。台本通り。ゲームの通り。五年前に読んだ筋書きの通り。
だから。
「承知しました」
わたしは微笑んだ。唇の形を意識して、丁寧に。
「では、予定通りに」
広間が静まり返った。
殿下のまばたきが一回多かった。リアーヌ嬢の涙が止まった。周囲の令嬢たちが、隣の人と目を見合わせている。
予定通り、という言葉が不穏だったのだろう。当然だ。断罪される令嬢は泣くか、怒るか、取り乱すものだから。
わたしは一礼して、踵を返した。
背中に視線が刺さる。構わない。大広間の扉を押し開ける手に力が入った。重い樫の扉が、ぎい、と音を立てる。
外に出た瞬間、空気が変わった。
春の風が頬に触れ、学院の中庭の白い野薔薇の匂いがした。回廊の石柱の影が長く伸びている。午後の陽射しだ。
深く、息を吸い込んだ。
肺の奥まで空気が入る。こんなに深く吸えたのは、五年ぶりかもしれない。いや、この身体では初めてかもしれない。
よし。
◇◇◇
翌朝、わたしはコルヴェン侯爵家の家令に持参金の返還手続きを頼み、荷物をひとつにまとめて屋敷を出た。
父は書斎にいた。「行くのか」と一言。わたしが「行きます」と答えると、「身体に気をつけなさい」とだけ言って、古代語の辞書を一冊差し出した。革の装丁が擦り切れた、家宝の辞書。
喉の奥が詰まった。
「……ありがとうございます、お父様」
声が少し掠れたことに、父は気づかないふりをしてくれた。
馬車で五日。王都を離れるにつれて、街道の石畳が荒れ、緑が増え、空が広くなった。
三日目あたりから、街道の両脇に見たことのない花が咲き始めた。紫がかった小さな花弁が、風に揺れるたびに甘い匂いを散らす。前世の記憶にはない種類だ。名前を知りたいと思った。こういう、知らないことに出会える旅がしたかった。
ずっと。
荷台に揺られながら、膝の上に広げた父の辞書を撫でた。革の表紙の端がめくれ上がっていて、そこだけ色が薄い。何代も前のコルヴェン家の誰かが、同じように旅先で開いた跡だろうか。
辺境の町タルニスに着いたのは、春も終わりに差しかかる頃だった。
石造りの二階建て。一階が酒場兼受付。看板に剣と盾の紋章。冒険者ギルド。
扉を開けると、酒と革と、焚き火の残り香が混ざった匂いが鼻を突いた。カウンターの向こうで、五十がらみの大男がこちらを見た。
「冒険者の登録をしたいのですが」
男が三度まばたきした。
まあ、そうだろう。わたしの身なりは旅装とはいえ、辺境の冒険者とは明らかに違う。リネンの仕立ても革のブーツも、王都仕込みだ。
「名前は?」
「マレーネ。マレーネ・コルヴェン」
男の眉が片方だけ上がった。コルヴェンの名は、辺境でも知られているらしい。
「ギルドマスターのガレスだ。登録には身分証明が要る。それと、腕試し」
「身分証明はこちらに」
侯爵家の紹介状を差し出す。ガレスがそれを読み、もう一度わたしを見た。
「腕試しは、うちの護衛兵を相手にしてもらう。構わないか」
「もちろん」
腰に下げていた短剣を抜かず、素手で構えた。
護衛兵は若い男で、わたしを見て困った顔をした。令嬢相手に手を出しにくいのだろう。その油断が隙になる。
前世の剣道の足運び。踏み込みは半歩分短い。相手が面食らう間に、腕を掴み、体重を利用して投げた。
背中から床に落ちた護衛兵が、天井を見上げて目を丸くしている。
ガレスが口笛を吹いた。
「面白い新人が来たな」
わたしは右手の親指で左手の甲を擦りながら、息を整えた。少し力が入りすぎた。五年間のうっぷんが、拳に乗ったかもしれない。いや、確実に乗った。護衛兵さん、ごめんなさい。
周囲の冒険者たちが、酒杯を手にしたまま固まっている。令嬢が護衛兵を投げ飛ばす光景は、さすがに珍しかったらしい。
「ところで、何か依頼はありますか。できれば、遺跡関連で」
「せっかちだな」
ガレスが棚から羊皮紙を引っ張り出した。
「辺境にヴォルスっていう古代遺跡がある。入口の調査依頼が出てる。護衛がつくが、ちょっと変わった奴だ」
「受けます」
即答した。
ガレスが、また三度まばたきした。




