第三章:神の怒りと、アズーロの飛翔
季節が巡り、ビアンカ・マリーナに再び強烈な初夏の太陽が戻ってきた頃。 海辺の秘密の舟屋には、一羽の巨大な「白い鳥」が翼を休めていた。
全長八メートル、翼幅十二メートル。極限まで乾燥させたトウヒの骨組みに、ルチアが松脂と蜜蝋でコーティングした最高級の薄絹が、一寸のたるみもなく張り詰められている。アドレアが数式で導き出した完璧な流線型(翼型)を持つ主翼と、機体の安定を司る十字の尾翼。 その優美なシルエットは、ダ・ヴィンチが描いた無骨なコウモリの翼とは似ても似つかない、純粋な「幾何学と流体力学の結晶」だった。二人はこの実証機を『シロッコ・ビアンカ(白き熱風)号』と名付けた。
だが、真理に近づく者には、常に古い時代の足音が背後から迫る。
「……異端の臭いがするぞ。ここを開けなさい!」
ある夜明け前。舟屋の外で、松明の火が赤々と揺れた。 分厚い木の扉を激しく叩く音。隙間から覗くと、ボローニャ大学から派遣された見覚えのある老教授と、教会の武装した異端審問官たちの姿があった。彼らは、アドレアが故郷で「神の定めた重力」に反逆する悪魔の機械を作っているという噂を聞きつけ、機体を破壊しにやってきたのだ。
「鳥の模倣を捨て、人間が自らの知恵だけで空を支配しようなどという傲慢! その冒涜の翼を燃やし尽くせ!」
老教授の金切り声と共に、扉が軋みを上げる。 「アドレア、どうするの!」 ルチアがカンナを握りしめ、青ざめた顔で振り返った。
「燃やさせるものか……僕たちの数式を、灰になんてさせない」 アドレアの瞳には、かつて大学で権威に怯えていた青年の面影はなかった。彼は舟屋の裏側、海へと続く搬出口のロープを力一杯に引いた。 「裏から崖へ向かう! ルチア、機体の左翼を持ってくれ!」
二人は、完成したばかりの巨大なシロッコ・ビアンカ号を担ぎ上げ、夜明けの闇に紛れて裏口から駆け出した。背後で扉が打ち破られ、怒号が響く。 「逃げたぞ! 崖の方だ、追え!」
機体は驚くほど軽かった。ルチアの肉抜き技術の賜物だ。しかし、巨大な翼が海風を孕み、二人の体力を容赦なく削っていく。目指すのは、町はずれにある「海燕の岬」。海面から垂直に切り立った、高さ五十メートルの真っ白な石灰岩の断崖だ。 そこは、アドレアの計算上、海からの風が崖にぶつかり、強烈な「上昇気流」を生み出す世界で唯一の完璧な発射台だった。
息をきらし、足から血を流しながら、二人は崖の頂上にたどり着いた。 眼下には、夜明けの光を乱反射し始めた地中海が、恐ろしいほどの青さ(アズーロ)で広がっている。ゴオォォォ、と崖下から吹き上げる海風が、シロッコ号の絹の翼をパンパンに叩いた。
「ルチア、急いで! ハーネスに体を固定するんだ!」 「アドレア……あなたはどうするの!」 「僕は機体を支える! この風の中じゃ、一人じゃ機首の角度(迎角)を保てない!」
松明の炎が、崖に続く山道を猛スピードで駆け上がってくるのが見えた。もう時間は一分とない。 ルチアは躊躇うことなく、主翼の下に設けられた革製のハーネスにうつ伏せの姿勢で潜り込んだ。両手で姿勢制御用のロープを握る。彼女の体温と鼓動が、木組みを通して機体全体に伝わっていく。
「いいかルチア! 崖を飛び出したら、機首を下げろ! 揚力は『速度』からしか生まれない。風から逃げるな、風の中に飛び込んで、翼の上の空気を切り裂くんだ!」 「分かってる! 私の縫った帆布を信じなさい!」
「そこまでだ、異端者ども!」 ついに追っ手たちが崖の上に到達した。老教授が、憎悪に満ちた目で巨大な白い翼を睨みつける。 「人間がそのように平べったい板で飛べるはずがない! お前たちはただ、崖から墜落して神の罰を受けるだけだ!」
アドレアは教授に向かって、かつてないほど清々しい笑顔を向けた。 「教授、重力は神の罰なんかじゃありません。ただの『現象』です。そして僕たちは今、その現象の数式を書き換える!」
強烈な突風が崖を吹き抜けた。 アドレアは渾身の力でシロッコ号の尾翼を押し出し、ルチアに向かって叫んだ。
「行け、ルチア! 風を読め!!」
真っ白な翼が、崖の縁を越えて虚空へと躍り出た。 五十メートル下の海面に向かって、機体は恐ろしい速度で落下を始める。 「落ちたぞ! 愚か者め!」審問官たちが嘲笑う。
だが、アドレアは崖の縁ギリギリに立ち、祈るように両手を組んで見つめていた。 ルチアの操るシロッコ号は、落下しながら猛烈な速度で前面からの海風を捉えていた。
——その瞬間、世界から音が消えた。
ルチアの耳に、風の悲鳴ではなく、滑らかな絹擦れのような音が聞こえた。 アドレアの計算通りだ。分厚く丸みを帯びた翼の前縁が、空気を上下に美しく切り裂く。 下を通る風は、真っ直ぐに。 上を通る風は、ルチアの縫い上げた美しいカーブに沿って、急激に速度を上げて背中を駆け抜ける。 速度を増した空気が気圧を下げ、見えない巨大な手が、機体を上へと強烈に吸い上げた。 同時に、翼の下にぶつかった空気が斜め下へと弾き飛ばされ、その反作用がルチアの体を力強く押し上げる。
ベルヌーイの定理。そしてニュートンの第三法則。 まだ誰も名付けていない二つの物理法則が、南イタリアの空で完全に重なり合った。
「……飛んでる」
ルチアの口から、感嘆の吐息が漏れた。 落下は止まっていた。それどころか、崖にぶつかる上昇気流を捉えたシロッコ号は、優美な曲線を描いてふわりと高度を上げたのだ。 崖の上にいる老教授と審問官たちは、松明を落とし、幽鬼でも見るかのように目を剥いて硬直している。
重力をねじ伏せた巨大な白い翼は、朝日に輝く地中海の上を、音もなく滑空していく。 ルチアの視界には、果てしなく広がるアズーロの海と、丸みを帯びた水平線しかなかった。恐怖は一切ない。あるのは、自分が巨大な風の塊と一体化しているという、全能感にも似た圧倒的な静寂だけだった。
「アドレア! 飛んでるわ! あなたの数式は、本当に空を飛んでる!!」
ルチアの歓喜の声は、風に乗り、崖の上に立つアドレアの耳に確かに届いた。 アドレアの目から、大粒の涙が溢れ落ちた。 彼が見たかったのは、権威を打ち倒すことでも、歴史に名を残すことでもない。自分の頭の中にしかなかった「風のロジック」が、この美しい世界で実際に機能するという、ただその一つの真理を見たかったのだ。
シロッコ号の飛翔は、およそ一分間続いた。 風の勢いが弱まると同時に、機体は緩やかに高度を下げ、アズーロの海面へと水しぶきを上げて滑り込んだ。 木組みが砕ける音が響いたが、ルチアは無事にハーネスから抜け出し、海面に浮かんだ翼の残骸にしがみついて、崖上のアドレアに向かって大きく手を振っていた。
歴史には、この日の出来事は一切記されていない。 異端審問官たちは自分たちが見た「奇跡」を報告することを恐れ、狂った学士と造船所の娘が海へ身投げした、とだけ処理した。アドレアの数式も、ルチアの美しい翼の図面も、すべては地中海の海の底へと沈んでいった。
しかし、彼らは満たされていた。 人類で初めて「真実の翼」で空気を切り裂き、重力の檻を抜け出したという事実は、彼らの魂の中に、永遠の誇りとして刻み込まれたのだから。




