第二章:重力の檻と、夜明けの流線
ビアンカ・マリーナの短い秋は、吹きすさぶ海風と共にやってくる。 アドレアとルチアが「空飛ぶ船」の盟約を交わしてから、二ヶ月が過ぎていた。
二人の生活は、昼と夜とで完全に分断されていた。 太陽が昇っている間、ルチアは造船所の娘として、油とタールと木屑にまみれて働いた。ジェノヴァから入港する大型商船の帆の修繕、嵐で折れたマストのすげ替え。職人たちを大声で怒鳴りつけながら、彼女の荒れた手は休むことなく重い麻布と硬いオーク材を相手に格闘を続けていた。 一方のアドレアは、港の片隅にある税関の薄暗い事務所で、帳簿付けの代書人として糊口を凌いでいた。ボローニャ大学を追放された「風狂い」の学士に与えられる仕事など、この田舎町にはそれくらいしかなかった。彼の父親は町の有力なオリーブ商人だったが、実学を軽んじて空ばかり見ている息子をとうに勘当していた。
二人は昼間、港ですれ違っても、ほんのわずかに視線を交わすだけだ。町の人間の前で、あの狂った計画を口にするわけにはいかない。
だが、太陽がアズーロの海に沈み、町が深い眠りにつく頃——二人の本当の一日が始まる。 町の外れ、入り江の崖のふもとに打ち捨てられた古い舟屋。そこが、二人の秘密の造船所だった。
「違う! ルチア、ここの曲率が足りない。僕が計算した数式では、翼の前縁から三分の一のところで最も厚みを持たせ、そこから後方へ向かって水滴のように滑らかに落としていかなければ、風は綺麗に剥がれてくれないんだ!」 「図面の線の上ならなんとでも言えるわよ! いい、アドレア。これは羊皮紙の上のインクじゃなくて、現実の『木』なの。弾性にも限界があるわ!」
ランプの薄暗い炎が揺れる舟屋の中で、二人の怒鳴り声が響いた。 床には、一面に奇妙な数式と幾何学模様がチョークで書き殴られ、その中央には、全長十メートルにも及ぶ巨大な鳥の骨格のような、美しい木組みの構造物が横たわっていた。
アドレアは、自分の理想とする翼の断面形状——現代でいう「翼型」——を再現することに異常なまでの執着を見せた。風が上面を走る距離を稼ぎ、気圧を下げて揚力を生み出すためには、ただの平らな板では駄目なのだ。緩やかな膨らみ(キャンバー)を持つ、完璧な流線型でなければならない。 しかし、その理論を「現実の質量」に変換するルチアの苦労は、アドレアの想像を絶していた。
ルチアは赤く腫れ上がった両手で、熱湯を張った鉄鍋から細長いトウヒ(スプルース)の木材を引き摺り出した。 「ほら、見てなさい。木はね、数式で曲がるんじゃない。熱と蒸気と、そして木の繊維の機嫌を取りながら曲げるのよ!」
彼女は革の手袋をはめ、煮えたぎる蒸気を吸って柔らかくなった木材を、アドレアの図面に合わせて作られた木枠に押し当てた。ミシミシ、と木が悲鳴を上げる。一歩間違えれば、反発力で木材が跳ね返り、顎を砕かれる危険な作業だ。 ルチアは全身の体重をかけ、万力で木を固定していく。彼女の額から落ちた汗が、熱い木肌に落ちてジュッと音を立てた。 その神がかった職人技を前にすると、アドレアはいつも押し黙るしかなかった。机上の空論だった己の数式が、ルチアの傷だらけの手によって、この世界に確かな「形」を持って産み落とされていく。その事実が、たまらなく恐ろしく、そして美しかった。
「……すまない、ルチア。君の手を、こんなにも荒れさせてしまって」 万力を締め終え、肩で息をするルチアに、アドレアが小さな布切れを差し出した。 ルチアは乱れた亜麻色の髪を無造作に掻き上げると、ふっと笑った。
「馬鹿ね。帆船の竜骨を曲げるのに比べたら、こんな小鳥の骨みたいな木組み、お遊戯みたいなものよ。それに……」 彼女は、綺麗に湾曲して固定された翼の肋骨を、愛おしそうに撫でた。 「この曲線、本当に綺麗ね。造船所の親方が引くどんな船の図面より、無駄がなくて、風の息吹を感じる。あなたの頭の中には、本当に神様の秘密の部屋があるみたい」
アドレアの頬が少しだけ熱を持った。 夜明け前の冷たい風が、舟屋の隙間から吹き込んでくる。二人はランプの火を囲むように座り込み、冷めたライ麦パンとチーズをかじった。疲労の極致にありながら、彼らの目は少年のように輝いていた。
「ルチア、聞いてくれ。揚力を生み出す翼の形は、これで間違いない。でも、最近、別の問題に気づいたんだ」 「別の問題?」 「安定性だ。昨日、仕事の合間に税関の窓からカモメを見ていて気づいた。翼だけで空に浮き上がったとしても、空中の風は一定じゃない。突然の突風で機首が上がったり、横に傾いたりしたら、この船は木の葉のように錐揉みして墜落する」
アドレアは床のチョークの図式を指差した。 「船には、波の抵抗を押さえて真っ直ぐ進むための『舵』があるだろう? 空を飛ぶ船にも、風を切り裂き、姿勢を保つための『尾』が必要なんだ」
「尾……そうか、鳥の尻尾ね」ルチアはパンを呑み込み、真剣な顔つきになった。「ただ浮くだけじゃ駄目。海と同じで、波(風)を乗りこなすための操舵機構がいるってことね」 「そうだ。主翼から長い胴体を後ろに伸ばし、そこに小さな水平の翼と、垂直の翼を取り付ける。水平の尾翼で機首の上下を抑え込み、垂直の尾翼で左右のブレ(ヨー)を防ぐんだ」
「待って、アドレア。それじゃあ重量が重くなりすぎるわ。トウヒの木とはいえ、長い胴体を後ろに伸ばせば、重心が狂う。重心が後ろに行けば、船はお尻から海に沈むわよ」 「だから、君の腕が必要なんだ。強度は落とさず、極限まで肉抜きをして軽くする。重心の位置は、翼の揚力の中心(風圧中心)のわずかに前方に持ってくる。そうすれば、機体は自然に機首を下げようとし、風を受け続けることで揚力が回復してバランスが取れる!」
ルチアの目が、知的な興奮に見開かれた。彼女は造船の力学を、直感的に空の力学へと翻訳していた。 「……ヤジロベエの原理ね。いいわ、面白くなってきたじゃない。やってやろうじゃないの。重力の神様が泣いて謝るくらい、完璧にバランスの取れた尻尾を作ってやるわ」
二人の議論は、夜が白み始めるまで続いた。 昼間は底辺の代書人と、泥まみれの造船工。しかしこの舟屋の中では、彼らは間違いなく、世界のどの科学者よりも高く、遠い空を見つめていた。
十一月の終わり。 北アフリカから吹く熱風「シロッコ」の名を冠した彼らの機体は、ついに最初の試作模型を完成させた。翼幅二メートルの、絹とトウヒで出来た美しい巨大な凧のような滑空機だった。
誰もいない早朝の白砂のビーチ。 朝靄の中で、ルチアが模型を両手で掲げ、アドレアが風の向きを測る。 緊張に張り詰めた静寂の中、アドレアが叫んだ。
「今だ! 風に向かって、少しだけ下に向けて押し出せ!」
ルチアが渾身の力で模型を押し出す。 その瞬間、二人の目の前で、奇跡が起きた。 放り出された模型は、重力に従って砂浜に落ちることはなかった。ルチアの手から離れた「シロッコ号」は、前方から吹き付ける海風をその完璧な曲面(翼型)で切り裂き、見えない空気の波を捉えた。 ふわり、と。 機体は自らの意思を持つかのようにふわりと浮き上がり、アドレアの引いた数式の通りに、砂浜の上を音もなく滑るように飛んでいく。
「飛んだ……! ルチア、飛んでるぞ!」 「嘘……本当に、空気に『乗って』いる!」
二人は砂浜を駆け出した。模型はまるで白鳥が湖面を滑るように、十五メートル、二十メートルと、驚異的な距離を滑空していく。ダ・ヴィンチの羽ばたき機が一度も成し得なかった「安定した揚力の発生」が、今、南イタリアの片田舎で証明されたのだ。
しかし——。 三十メートルを過ぎたあたりで、海から不規則な横風が吹いた。 模型の機首がふらりと右に傾いたかと思うと、急激にバランスを崩し、錐揉み状態となって真っ逆さまに砂浜へ激突した。バキッ、という乾いた音と共に、美しい絹の翼が破れ、トウヒの骨組みが砕け散る。
駆け寄った二人の前には、無惨に壊れたシロッコ号の残骸があった。 アドレアは膝から崩れ落ち、砂を握りしめた。 「駄目だ……。横風に対する復元力が足りない。もっと垂直尾翼を大きくしなければ……いや、それだけじゃない、翼そのものが風の変化に耐えられないんだ……!」
絶望に顔を歪めるアドレア。だが、隣に立つルチアの瞳は、決して死んではいなかった。彼女は壊れた翼の破片を拾い上げ、朝日を背にして立ち上がった。
「泣いてる暇はないわよ、アドレア。原因が分かったなら、数式を引き直しなさい」 「ルチア……」 「忘れないで。私たちは今、重力という絶対の神様と喧嘩をしているのよ。一度や二度の墜落で勝てるわけがないわ。でも……」
ルチアは、アドレアに向かって、煤で汚れた顔に満面の笑みを浮かべた。
「——確かに、風は私たちを『引っ張り上げた』わ。あなたの理論は正しい。あとは、私がそれを壊れないように創り直すだけよ」
眩しい朝の日差しが、壊れた模型と二人の若者を照らし出していた。 町が目覚める刻限が近づいている。彼らは急いで残骸を抱え、再びそれぞれの泥臭い日常へと戻っていく。 いつか、必ず自分たち自身が、あの空の彼方へ飛んでいく日を夢見て。




