第一章:竜骨とキャンバスの娘
ビアンカ・マリーナの造船所は、港の西側に突き出た岬の陰にあった。 海から吹き付ける強い風を避けるように組まれた巨大な石組みのドックには、常に数隻のガレー船や商船が骨組みを晒している。そこは、アドレアが先ほどまでいた静寂の砂浜とは対極の世界だった。
むせ返るようなタールと煮えた松脂の匂い。切り出されたばかりのオーク材が放つ、青臭くも力強い木の香りが夏の熱気に混じって漂っている。ノコギリが木を挽く甲高い音と、木槌が楔を打ち込む鈍い音が、絶え間なく響き渡っていた。 建造途中の船の竜骨は、まるで打ち上げられた巨大な鯨の肋骨のようだった。その巨大な骨格の足元を、アドレアは息を切らして駆け抜けた。
「ルチア! ルチアはいるか!」
普段は寄り付きもしない造船所に響き渡った学士の場違いな大声に、数人の職人が怪訝な顔を向ける。その中の一人、太い帆柱に立てかけられた巨大な帆布の山の上から、無愛想な声が降ってきた。
「耳元で怒鳴らないでよ、アドレア。鳥の見過ぎでついに頭のネジまで飛んでいったの?」
声の主は、分厚い麻布の海に半ば埋もれるようにして座っていた。 ルチア。この造船所の親方の娘であり、ビアンカ・マリーナで最も優秀な帆作り(セイルメーカー)にして木工職人だ。 彼女は、地中海の強い日差しに焼かれた小麦色の肌を汗で光らせながら、手元の太い縫い針を動かしていた。亜麻色の髪は作業の邪魔にならないよう、無造作に後頭部で革紐で束ねられている。その手には職人特有の分厚いタコがあり、細身ながらも引き締まった腕は、長年重い帆布や木材と格闘してきたしなやかな筋肉に覆われていた。
「ルチア、聞いてくれ。僕は見つけたんだ!」 「何を? また古代ギリシャの小難しい哲学書? それとも新しい星の軌道?」
ルチアは手を止めず、帆布の縁にロープを縫い付ける作業を続けた。彼女が扱うのは、地中海特有のラティーンセイル(三角帆)だ。風を鋭く切り裂き、逆風でも船を前へ進めるための複雑な曲面を持つその帆は、熟練の職人でなければ美しい弧を描くように縫い上げることはできない。
「星じゃない。風だ。風の形と、空を飛ぶための絶対的な理を見つけた!」
その言葉に、ルチアはピタリと針を止め、大きくため息をついた。 「空を飛ぶ、ね。ボローニャの大学を追い出されたって噂は本当だったのね。アドレア、いいこと? 人間は木より重いの。重いものは沈むし、落ちる。それが世の常識でしょ。ダ・ヴィンチの真似事なら、裏の崖から飛び降りて脚を折った馬鹿な男爵が三年前にいたわ」 「ダ・ヴィンチは間違っていたんだ!」
アドレアは木箱を蹴立てるようにしてルチアの足元まで登ると、興奮で血走った目を彼女に向けた。
「あの天才は、空を『水』と同じように捉えるところまでは正しかった。でも、彼は『鳥が筋肉で空気を下に叩きつけている』と錯覚した。違うんだ、ルチア。空を飛ぶのに力はいらない。必要なのは『形』だ。風を欺き、風に自らを持ち上げさせるための、完璧な曲面なんだ!」
アドレアは懐から、先ほど砂浜で拾った平たい貝殻と、足元に落ちていた曲がった鉋屑を拾い上げた。
「ルチア、君は帆船が逆風でも進める理由を知っているか?」 「当たり前じゃない。帆を斜めに張って、風を受け流すからよ」 「それだけじゃないはずだ。君が縫っているその三角帆は、ただ真っ平らな布じゃない。風を孕んだとき、前が膨らんで後ろに流れる美しいカーブを描くように、布の裁断を計算しているだろう?」
ルチアの琥珀色の目が、わずかに見開かれた。それは造船所の職人たちですら言語化できない、彼女だけが感覚で掴んでいる帆作りの極意だったからだ。
「……それがどうしたの」 「帆の表面を流れる風は、膨らんだ外側を走る時、平らな内側よりも『急いで』走らなきゃならない。急いだ風は、そこにある空気を薄く引き伸ばす。するとどうなる? 風は、ただ帆を『押している』だけじゃない。帆の膨らんだ側に向かって、帆そのものを『吸い寄せている』んだ!」
アドレアは、手に持った鉋屑の曲面を上に向け、その真上に向かってふうっ!と強く息を吹きかけた。 すると、下に落ちるはずの鉋屑が、息の流れに吸い寄せられるようにフワリと上へ持ち上がった。
「これだ。これが風の正体だ。翼の上側を丸く、下側を平らにすれば、上を走る風が勝手に翼を空へと引っ張り上げてくれる。そして翼の角度が、ぶつかった空気を斜め下に叩き落とし、その反発力でさらに機体を持ち上げる。僕たちは羽ばたく必要なんてない。ただ、巨大で硬い『翼』を固定したまま、風に向かって滑り出せばいいんだ!」
静寂が落ちた。 ノコギリの音も、木槌の音も、ルチアの耳には届いていなかった。 彼女の視線は、アドレアの手からこぼれ落ち、ゆっくりと地面に舞い落ちる鉋屑に釘付けになっていた。
ルチアの頭の中で、これまで彼女が触れてきた無数の帆布の記憶がフラッシュバックしていた。強風を孕んで悲鳴を上げるマスト。パンパンに膨らんだ帆が、船全体を前へ『押す』のではなく、見えない力で『引っ張る』ように感じたあの奇妙な感覚。 この目の前にいる青白い顔をした「風狂い」の学士は、彼女が長年、指先と肌の感覚だけで理解していた現象を、たった今、完璧な論理として解き明かしてみせたのだ。
「……固定した、翼」
ルチアは無意識に呟いていた。手の中の縫い針を置き、麻布の山からゆっくりと立ち上がる。
「風を孕んでも形を崩さない、鳥の骨格のように軽くて、なおかつ大人が乗っても折れないほど強靭な……巨大な曲面」 「そうだ! 僕には計算ができる。風の圧力に耐えうる翼の面積も、理想的な曲面の数式も頭の中にある。でも……」
アドレアは、自分の細く白い両手を見つめた。
「僕には、それを物理的な質量にする技術がない。木を曲げる火の温度も、布をピンと張るための縫い方も知らない。ルチア、君の技術が必要なんだ。君の手があれば、僕の数式は空を飛べる!」
ルチアは腕を組み、アドレアを真っ直ぐに見据えた。 彼女にとって、これはただの学者の妄想ではない。帆船の限界を超え、重力という神の法則に喧嘩を売る、途方もなく魅力的で、そして危険な「設計図」だった。
「……木材なら、乾燥室に三年寝かせた最高のトウヒ(スプルース)があるわ。軽くて弾力がある。布は、一番細い糸で密に織った絹に、松脂と蜜蝋を薄く引いて風を完全に孕むようにする」
ルチアの口角が、好戦的な弧を描いて吊り上がった。
「ただし、条件があるわアドレア。その『空飛ぶ船』の舵を握るのは、設計図を書いたガリ勉のあなたじゃない。この私よ」 「えっ……い、いや、それは危険すぎる! 僕が乗る!」 「馬鹿ね、風の動きを肌で感じられない人間が、空で船を操れるわけないでしょ。数式を教えなさい、アドレア。私がそれを、この世で一番美しい翼にしてあげる」
地中海の眩しい光が、巨大なガレー船の肋骨を抜け、向かい合う二人の若者を照らし出していた。 空気を計算する異端の頭脳と、風の形を縫い上げる極北の技術。 決して交わるはずのなかった二つの才能が、歴史の影で密かに結びついた瞬間だった。




