【プロローグ】 見えない手の形
”Il Lettore del Vento d'Azzurro: Andrea e le Ali della Verità”
(イル・レットーレ・デル・ヴェント・ダッズーロ:アンドレア・エ・レ・アーリ・デッラ・ヴェリタ)
【しおの】
地中海の太陽は、容赦なく世界の輪郭を白く飛ばしていく。 南イタリアのうらぶれた港町、ビアンカ・マリーナ。その名が示す通り、延々と続く純白の砂浜は、砕けた貝殻と石灰岩が長い年月をかけて磨き上げられたものだ。眼前に広がるのは、目眩がするほど深いアズーロ——紺碧の海である。
アドレアは、靴底を焼くような砂の熱さも忘れ、ただ空を見上げていた。 ボローニャ大学の古びた図書館で埃にまみれた羊皮紙と格闘していた日々が、遠い過去のように思える。「重いものは必ず地に墜ちる。それが神の定めた絶対の理である」。老教授たちの重苦しい声が、耳の奥にまだこびりついていた。
だが、彼らの言う「絶対」は、今、アドレアの頭上でいとも簡単に覆されている。
「……羽ばたいていない」
乾いた唇から、独り言が漏れた。 空には数羽のカモメが円を描いて舞っている。彼らは時折、思い出したように翼を短く動かすだけで、そのほとんどの時間を「ただ翼を広げているだけ」で過ごしていた。羽ばたいていないにも関わらず、カモメたちの身体は目に見えない巨大な手に支えられているかのように、ふわり、ふわりと高度を上げていく。
偉大なる先人、レオナルド・ダ・ヴィンチは言った。鳥のように飛ぶためには、筋肉の力で空気を打ち据えなければならない、と。だからこそ、これまで空を目指した愚か者たちは皆、コウモリのような翼を作り、必死に腕を振り下ろし、そして無様に墜落していった。
「違う。鳥は空気を殴ってなどいない。彼らはただ……風を『招き入れて』いるんだ」
アドレアは砂浜にしゃがみ込み、拾った流木で白いキャンバスに線を引き始めた。 カモメの翼の断面図。それは平らな板ではない。前方が分厚く丸みを帯び、後方に向かって緩やかに細くなっていく、水滴を横に引き延ばしたような奇妙な曲線。
ザザーッ、と波が打ち寄せる。 アドレアの視線が、波打ち際の岩にぶつかる海水に向けられた。岩の膨らみに沿って流れる水は、岩を迂回するために速度を上げ、白く泡立って後方へと駆け抜けていく。
——水と空気は同じだ。流れるもの(流体)だ。
その瞬間、アドレアの脳内で、無色透明な風が「色」を持った。 東から吹き付ける海風が、カモメの緩やかな曲線を持つ翼にぶつかる。風は上下に切り裂かれる。翼の下側を通る風は、平らな腹に沿って真っ直ぐに進む。だが、翼の「上側」を通る風は違う。膨らんだ背中を迂回しなければならない分、走る距離が長くなる。
「上の風は、下の風に追いつくために、急がなければならない……!」
流木を持つアドレアの震える手が、砂の上に幾何学的な矢印を無数に描き込んでいく。 速度を増した空気は、その密度を薄くする。薄くなった空気は、下から上へと物を吸い上げる力(圧力差)を生み出す。 同時に、翼の絶妙な傾きが、ぶつかってきた風を斜め下へと押し流す。重い空気を下へ追いやった代償として、翼自身が上へと押し上げられる。
これだ。神の魔法でも、筋肉の力でもない。 ただの、純粋で美しい「形」の勝利なのだ。
翼の形こそが、風の走り方を強制し、空気を操る。上を走る風の焦燥が、下を走る風の静寂が、そして空気を下へと押しやる翼の傲慢さが、あの重い肉体を天へと引き上げているのだ。
アドレアは立ち上がった。 足元の砂浜には、世界で初めて描かれた「揚力の概念図」が、太陽の光を浴びて浮かび上がっていた。数秒後には、無慈悲な地中海の波がそれを全て洗い流してしまうだろう。 しかし、構わなかった。真理はすでに、アドレアの胸の中に焼き付いている。
胸の高鳴りが止まらない。古い権威に押し潰されかけていた若き学士の自我が、今、古い殻を破って急激な進化を遂げようとしていた。
「風の数式は見えた。あとは……この手で、それを現実の質量に置き換えるだけだ」
振り返ると、強い日差しの向こうに、古びた造船所の木組みのシルエットが見えた。 空を飛ぶための真実の翼。それを創り出すためには、風を孕む最上の帆布と、軽くて強靭な木材を操る者が必要だ。
アドレアは、見えない風を両手で掴むように強く拳を握りしめると、真っ白な砂浜を蹴り出し、造船所へ向かって走り出した。 人類が重力の鎖を断ち切る、その200年前の夏のことであった。




