第一章 失墜の記憶
金属の匂いがする。
深夜の工場は、まるで眠り損ねた獣のように低く唸っていた。油に濡れた床、遠くで動くプレス機の規則的な衝撃音。昼間とは違う、誰も見ていない場所だけが持つ静けさ。
後藤湊は安全靴のつま先を軽く鳴らし、止まったままのラインを見つめていた。
その機械の横には、破棄された部品がトレイに積まれている。クラック。寸法不良。異常値。様々な理由で廃棄された“欠陥の証拠”たちだ。
そこへ背後から、低い声がした。
「湊、こんな時間まで残ってるのか」
現場を束ねる工場長、黒田賢吾。
油の染み込んだ作業服、厚い腕、寝不足でも鋭い眼光。職人という言葉がそのまま具現化したような男だった。
「すみません、ラインのログを少し……」
「ログなんか見なくてもわかるさ。原因は“材料バラつき”だ。もう十年以上、この癖と付き合ってる」
黒田の声には、自信と疲労、そしてどこか諦めが混じっていた。
「でも、今回は数値がちょっと違ってて……」
「湊。現場はな、人間が作ってるんだ。数字で割り切れるもんじゃない」
その言葉は湊の胸に硬く刺さる。
黒田が悪いわけではない。むしろ尊敬している。
ただ――数字を軽視された瞬間、湊の表情は微かに陰る。
数字は嘘をつかない。けれど、人間は嘘をつくことがある。
そんな反論を飲み込み、湊は軽く頭を下げた。
「……明日の会議、よろしくお願いします」
「おう。どうせまた“データで改革”とか言うんだろ?」
黒田は皮肉っぽく笑い、ポケットから紙巻きタバコを取り出した。
火はつけず、ただ指先で転がす。吸う代わりに、噛み締めるように。
「機械を変える前に、人間を見ろ。それが俺の持論だ」
そう言い残し、工場長は闇に消えた。
タバコの香りだけが微かに漂う。
翌朝、本社の会議室。
「――新たなプロジェクト名は、『リバース・スター計画』とする」
壇上に立つのは綾瀬未来。
経営企画室、MBA帰りの戦略家。スーツの襟は一切の隙なく整えられ、スライドを映す手には迷いがない。
「失ったシェアを奪還し、三年以内に“世界一位”へ返り咲きます」
その言葉に、会議室の空気が凍る。
過去の事故。株主からの圧力。人員削減。
誰もが“もう無理だ”と思っていた目標。
未来は淡々と続けた。
「品質データをリアルタイムで取得し、製造誤差を即座に補正する。現場では抵抗もあるでしょうが……改革は避けられません」
その視線が、湊に向く。
まるで「あなたがやるのよ」と言っているように。
湊はゆっくり立ち上がった。
「現場の力を否定するつもりはありません。ただ、数字を使って職人の経験を“再現可能な技術”にしたいんです」
黒田の眉がピクリと動く。
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、対面に座る営業本部長――千賀彰人。
「夢を語るのは結構だ。だが業界一位よりも、今期の黒字だろう」
ぴしり、と空気に亀裂が入る。
未来のまなざしが鋭く細められる。
「短期利益と長期戦略は両立できます」
「なら証明しろ。数字でな」
湊の拳が机の下で強く握られた。
数字で証明する――その言葉は、俺の戦場だ。
会議が終わり、室外に出た瞬間。
未来が横目で問いかけてきた。
「あなた、本当にやる覚悟ある?」
湊は短く息を吐き、答えた。
「あります。数字で未来を変えてみせます」
未来は小さく笑った。
「なら、私があなたの味方になる」
その笑みは、氷のように冷たく、どこか脆かった。




