番外編⑦ 交差点 ― 湊 × 未来
その日の社内ラウンジは静かだった。
終業後の時間帯、照明が落ち、コーヒーメーカーのモーター音だけが響いている。
湊は資料を広げたまま、ソファに体を沈めていた。
海外工場の改善計画書――何度見ても、どこか胸がざわつく内容。
「まだ、悩んでるんですね」
声の主は綾瀬未来。
湊の隣に座るでもなく、真正面でもなく、微妙な距離――腕を伸ばせば触れそうで、触れない位置に腰を下ろす。
その距離感が、湊は嫌いではなかった。
「悩むのは当然ですよ。結論なんて、簡単に出ないんですから」
「ええ。でも、湊くんは普通より悩む」
「悪い癖ですか?」
「いい癖です。決断が遅いのが欠点ですが」
未来は淡々とした口調で言う。
批判でもなく、称賛でもなく、ただ事実として。
湊は苦笑した。
「未来さんは迷わないんですか?」
「迷うわ。でも迷う時間は人に見せない。」
「見せたら弱いと思われるから?」
「弱さではなく……“責任”の問題」
未来は視線を窓に向けた。
「私が迷ってる姿を見せたら、誰かが判断を委ねてしまうから。」
湊は息を呑む。
この人はずっと、孤独な場所で戦ってきたんだ。
◆沈黙と理解
「湊くんは、どうしてそこまで“壊さずに変える”ことにこだわるの?」
未来の問いは刺すように鋭い。
しかし声は柔らかかった。
「壊すのが怖いんです。
壊した瞬間、誰かが傷つく気がするから。」
「優しいのね」
「意気地がないだけです」
「違うわ。優しさは覚悟よ。」
未来は湊の横顔をまっすぐ見つめる。
「私は壊してきた。必要だと思って。
でもあなたは、壊さなくても変えられる世界を信じてる。」
短い沈黙。
未来がふっと笑った。
「だからあなたと組んでるのよ。
私にはもう、あの信じ方はできないから。」
◆踏み込まない優しさ
湊はその言葉を聞きながら、小さく言った。
「未来さんって……誰にも頼らないですよね」
「頼ると期待が生まれるから」
「期待されるのって、そんなに嫌ですか?」
「期待されるのは、裏切る可能性とセットだからよ」
未来は少し俯き、声を落とした。
「私は昔、“期待される側”として失敗した。
だから、もう誰かの感情で動きたくないの。」
湊は言葉を選びながら、そっと答えた。
「じゃあ僕は……“期待しない相棒”でいればいいですか?」
未来が目を見開く。
そして微かに笑って言った。
「それ、かなり難しい役よ?」
「難しい仕事には慣れてます」
「調子に乗らないの」
二人の間に、穏やかな空気が落ちた。
親密ではない、依存でもない。
だけど確かに「並んで歩く者同士」の距離。
◆決定的な言葉
帰り際、未来がふと足を止めた。
「湊くん」
「はい?」
未来はいつもの合理的な声ではなく、少し柔らかい声で。
「私はあなたを“支える”とは言わない。
ただ、あなたと同じ方向を見続ける。」
湊は静かに頷く。
「僕も、未来さんを“導こう”とは思ってません。
ただ、隣で戦いたい。」
それ以上、互いに踏み込まない。
それ以上、近づこうとしない。
けれどその距離は、遠くもなかった。
◆未来の独白(帰路)
ひとり夜道を歩きながら、未来は心の中で呟いた。
「この距離なら、裏切っても裏切られても、生き残れる。」
「この距離だから、共に未来を作れる。」
決意とも、恐れともつかないその感情を抱えたまま、
彼女は闇に消えていった。




