番外編③ 合理と祈りのあいだ ― 綾瀬未来 ―
深夜のオフィス。
窓に映る自分の姿を見つめながら、綾瀬未来は静かに呼吸を整えていた。
机の上には、海外工場調査の報告書。
そして隣には、湊が走り書きしたメモが無造作に置かれている。
「現場を責めるのではなく、仕組みを変える」
未来は指で、その文字をなぞった。
「……この言葉、簡単そうに聞こえて難しいのよ」
呟きはほとんど独り言だった。
◆過去 ― 外資系コンサル時代
未来がMBA帰りで入社した外資のコンサル会社では、全てが数字だった。
価値はKPIで測定され、効果はROIで証明される。
数字にできないものは「存在しない」扱いだった。
若手の頃、未来は誇りを持っていた。
「数字こそ公平だ。感情は誤魔化す。」
その信念を掲げ、ひとつの大手メーカーの再編プロジェクトに参加した。
現場は老朽化し、非効率と惰性が蔓延していた。
未来は迷わず改革案を出した。
● 人件費削減
● 外注化
● 自動化への加速
● 熟練工の退職勧奨
数字上は完璧な案だった。
取締役会も拍手喝采だった。
――しかし。
数ヵ月後、現場は崩壊した。
品質事故、離職、顧客離れ。
そしてひとりの老職人が退職の日に言った言葉が、未来を刺した。
「あんたらは正しいよ。でも俺たちを“いなかったこと”にした。」
未来は初めて、自分の正しさが人を傷つけることを知った。
その夜、ひとりベッドで泣いた。
人生で初めて、数字が正しいと信じられなくなった。
◆日本へ戻る決意
未来は外資を辞め、日本へ戻った。
理由は誰にも話していない。
ただひとつ、胸の奥で決めていた。
「数字で人を救う方法を探す」
そのために、星鋳精工へ入社した。
古く、問題だらけで、面倒な会社だった。
だがそこには――
守るべき歴史と、人の手の熱があった。
◆湊と出会った日
初めて会議で湊のプレゼンを聞いた日。
「数字で現場を再現したいんです。
職人の経験を、次の世代に残す形に。」
その言葉を聞いた瞬間、未来の胸がざわついた。
あぁ、この人は……私が昔失ったものをまだ信じてる。
羨ましさ。
期待。
そして恐れ。
だから、あの日の未来は核心に踏み込んだ。
「あなたの正義は美しい。でも、人を追い詰めることもある。」
あれは、過去の自分への言葉でもあった。
◆現在・湊との会話(エピソード補完)
海外工場調査の翌日、社内ラウンジ。
「未来さん、僕……まだ迷ってます」
「迷っていいの。迷わずに改革した私が、全部壊したんだから」
未来は湊の隣に座り、紙コップを両手で包んだ。
「湊。あなたは“壊さずに変えたい”と言った」
「はい」
「私はそれを現実だと思ったことがない。
でも――あなたがそう信じてる限り、私はその道筋を作る」
湊は驚いたように目を向けた。
「なぜ……そこまで?」
未来は微かな笑みを浮かべた。
「あなたの信じてる未来を、私も一度くらい信じてみたいと思ったからよ」
「未来を……信じる?」
「名前負けしないようにね」
冗談めかして言ったが、声は震えていた。
◆夜・未来の独白
深夜。
誰もいないオフィスで、未来はゆっくり椅子にもたれた。
「正しさは、時に孤独だ。
でも、人と並んで歩くための正しさなら……きっと救われる」
窓の外には、工場の明かりが星のように揺れている。
未来は静かに目を閉じた。
「私はあの日、数字で人を切り捨てた。
今度は数字で人を守る。
それが私の“祈り”だ。」
その胸の奥には、まだ消えかけた痛みがあった。
でも今は、それを抱えたまま前へ進める気がした。




