後編
最終話です。
長くなりました。
ルタオ伯爵はジャイロを気に入っているようで晩餐の席に呼んだり、芝居のチケットを譲ってくれる。
「私たちにはこの芝居は若すぎるからキリエと一緒に行ってやってくれないか?」
ルタオ伯爵がジャイロに言うと彼は満面の笑みを浮かべ劇場へエスコートした。
エミリーが『森の熊がお姫様を攫ってるみたい』と呟いたがジャイロは聞こえないフリをした。
嫋やかで上品なキリエを見ているだけでジャイロの心臓はギュッと痛くなる。
初めて馬車に乗ってきたキリエを見た時からジャイロは黒髪の妖精に心奪われているのだ。
赤い唇が動いているのをぼーっと眺めていると、少し低めの心地よい美しい声が聞こえた。
「演目は〈白鷺と王子〉ですのね」
有名な童話を元に情熱的なラブロマンスの芝居が見られるとあって、話題になっていたのを思い出す。
ジャイロはシンプルな話しか実は知らない。
昔から本をあまり読まないのだ。
「キリエ殿はお芝居はお好きですか?私は実は詳しくないのですよ。このような武骨な人間なので」
そう言うとキリエは一瞬だけ困った顔をした。
キリエは芝居を十年間見ていない。
何せリチャードはケイトリンだけを芝居に連れて行く。ケイトリンが唯一の女性と余所見をしないリチャードがキリエを喜ばせるデートなどしようとも思わなかっただろう。
バナウ王国では芝居は唯一の娯楽であったから、一つしかない劇場は社交界の動向が一目でわかる場所とされてきた。島国であるバナウ王国では演目はいつも一か月は変わらない。
王家の二人が劇場を訪れるデート場所になっていたので、キリエは息抜きであっても芝居を見に行きにくくなったのだ。夫にエスコートされず芝居を見に行くなど他者からの侮蔑を増長させるだけ。リチャードはキリエを気遣うこともなかったからキリエは芝居を諦めるしかなかった。
王太子には側妃と王妃をせめて公平に扱わないといけないと言う気持ちがはなから抜け落ちていたのだ。
キリエはいつもリチャードたちが2人で芝居の話題をする度に、胸の奥に鉛を流し込まれるような気分になっていた。
(仲間外れってこういう感じなのかしら)
この二人に学生の時から受ける小さな仲間外れは、キリエの気持ちを磨耗させた。新しい演目が始まると聞くだけでその頃の暗い気持ちが蘇る。
しかし今はどうだろう。ジャイロが大型犬のような笑顔を向けるだけで心が驚くほど浮ついている。
ジャイロと行動を共にするだけなのに胸の奥があったかくて、ポカポカするようなフワフワするような優しい温もりが体の中心から溢れ出しそうになる。
芝居と聞くといつも沈んでいたのに、自然と笑みが溢れ、ジャイロに花が綻ぶような笑顔を向ける。
「本当はお芝居が好きなのです。これからは沢山見ることが出来そうですわね。このお話は私の大好きな童話ですもの」
そう言うとジャイロはとても嬉しそうな顔をした。しかし次の瞬間真面目な顔になり
「キリエ殿は白鷺と王子のような男性が好きなのですか?」
と焦ったように聞く。
〈白鷺と王子〉とは魔女から白鷺に姿を変えられた姫の呪いを、金髪の美しい王子が解呪するという物語だ。
魔女や使い魔の出すなぞなぞに美しい王子が正しい回答を出していき、やがて魔女は『参った』と言って退散する。王子は一度だけ見た美しい姫に恋焦がれ、危険な森や恐ろしい魔物の住む湖を越えて、彼女を助けるために命をかけるのだ。
「王子…………」
キリエは一瞬思い浮かべた。
リチャードの煌びやかな容姿と、細身な体を。
「いえ全く」その声は思ったよりずっと冷たい音であった。発声した自分が誰よりも驚いた。
美しい容姿の男より、どんな見た目であってもキリエに笑顔を向けてくれる男性の方が何倍も素敵だ。
ふとキリエは考えた。ジャイロに自分の過去を伝えたらどうなるのだろうかと。
離婚歴のある女はジャイロのような地位がある男性には相応しくない……そう昔なら思っていた。
表面に見える沢山のものや、狭い見識と先入観で物事を決めていたからだ。
しかし叔母のカタリナはバナウ王国を離れ、離婚歴のある男性に嫁いだが親戚の誰よりも幸せそうに見える。親戚たちはルタオ伯爵についてこう話していた。
「ウダツの上がらない伯爵だそうだ。アガーナ帝国ではドレス一枚仕立てるのも苦労するに違いない」と。
子供ながらに叔母のことを気の毒に思ったキリエであったが、母は笑いながら「そう思いたい方達はそう思っておけば良いのよ」と耳元で囁いた。
実際にルタオ伯爵家はバナウ王国のどの親戚の家よりも大きく、使用人も大勢いる。
アガーナ帝国の物価はバナウ王国の二倍近いがそれは貨幣価値が高いからだ。
離婚歴のあるルタオ伯爵は結婚式は小さく挙げたと言っていた。今思えば、式に参列した親戚は、小さな結婚式場と、自分たちでは仕立てるのに難しい高額のドレスを見て、カタリナの今後を憂いたのかもしれない。
噂とは全く当てにならないものだ。
エミリーだって婚約の相手は貴族ではなく商人だ。軍で活躍する女剣士としてエミリーは一般市民からも人気があり、子供たちなどエミリーと握手したくていつも群がっている。
しかし彼女はれっきとした貴族であり、誰もが婚約者は貴族から選ぶだろうと思っていた。サッパリした気性で凛々しい美しさのあるエミリーは社交界でも男女問わず人気だったらしい。
ある日、エミリーは軍部で行う武具の査定会に来ていた商人の彼と出会った。
背が高くスラリとしたエミリーとは真逆の、小柄で童顔でムッチリした体型の男性だ。
「ローエンド家のご令嬢、そのような固い素材に派手な飾りの軍服ではなく、シンプルで動きやすいこちらの服や防具がオススメですよ」
そう声を掛けられたらしい。
エミリーは軍に所属しつつも令嬢としてあった拘りが、その瞬間消え失せたと言う。
(なんだ……着飾る必要なんて仕事柄やっぱりないじゃない)
彼の言葉にそう気がついたそうだ。
それからエミリーは彼に猛アタックして婚約に漕ぎ着けたと言う。
あと半年で式を挙げる二人は仲睦まじく、地位や見た目など全く関係がない。格差婚も甚だしいと陰口を叩く者も見てきたが、エミリーの幸せそうな笑顔を見ていると他人がそれを推し量ることは出来ないのだとわかる。
たくさんの物事は本人次第で幸せにも不幸にもなる。キリエは王妃であったが決して幸せな結婚生活ではなかったし、離婚してむしろ嬉しいことが毎日雪崩のように自分に起こっていると思っている。
国を追われるように出て行ったと話している貴族がいるのも知っている。
けれど彼らは知らないのだ。
キリエが自分で稼いだお金で服を買う楽しみを見つけたことを。
メニューをレストランで選択できる楽しみを覚えたことを。
見た目は厳つくとも優しい男性が、自分に目を向けエスコートしてくれる時の浮かれた気持ちを。
「王子様の身分ではなく、どんな容姿であっても彼女を一途に思う気持ちが私は好きなんです。──ジャイロ様。お芝居の後、お話ししたいことがございます」
白鷺の衣装を纏った可憐な少女が舞台袖に現れたため、二人は会話を中断した。
**************
ジャイロはキリエの過去を知っていた。
ルタオ伯爵とカタリナから聞かされたからだ。
ジャイロは今年で25歳。
軍に所属している人間としては早い出世と言えるだろう。
上司の紹介で婚約者がいた時もあった。
しかし遠征続きのジャイロに相手が痺れを切らし、恋人を作ってしまった。エスコートの回数も二年の間に三回しかしていなかったと気がついたのは大分後になってからだ。
可愛らしい見た目の婚約者は夜会ではモテていたらしく、その隣には王子と見まごうばかりの美しい青年が立つことになった。
愛などは囁きあっていなかった。
だが、単純なジャイロは婚約解消にそれなりに傷つき、見合いは懲り懲りだと周囲に話した。
相手を探すに当たり、今度は恋愛でと思っていたが、自分はあまり器用な方ではないと気がついたのは二年前。婚約解消から三年が経った後である。
素敵な女性だと思って声を掛けるも後の会話が続かない。
デートをしてもガッカリした顔をされて解散することが多く、エミリーからは『女心を勉強しなおしておいで』と軽口を叩かれる始末。因みに二回目のデートは誘っても悉くお断りをされ続けていた。
女性の前で武勇伝を語るのもダメ。血生臭い話をするのも、武具の話をするのも、政治の話をするのもダメ。食事は味を追求するばかりではダメで、少量でよいので見目の良いところが良い。色々と言われたが、堅苦しさから食べた気がせず自分が苦しくなった。
デリカシーがないのは自覚していたが、男性と女性にこれほど差があるとは思っていなかった……と自分の不甲斐なさにジャイロはガッカリした。
キリエに出会ってから、ジャイロは自分のそのままのすがたで人に接することが増えた。
キリエの良さは、男同士でするような政治の話や荒事の話題にも、笑って応えてくれるところだ。
気が合うのだな~と思っていたが、結局はキリエが博識でどんな話題にもついて来られる頭の回転の速さがあるのだと、暫くして気がついた。
イズヤ帝国で今も語り継がれる天才軍師の話で盛り上がった令嬢など、今まで一人も出会ったことがない。
ジャイロはキリエの過去を聞いても全く心は揺るがず、寧ろ彼女の不幸な結婚に心を痛めた。
(側妃を迎えること前提の結婚など、キリエ殿の心がどれほど傷ついたことだろう)
責任感の強いキリエが沢山のことを我慢していたのを想像するだけで、ジャイロはリチャードを殺したくなる。
全てを無かったことにするほど幸せにしたい………そう剣に誓ったのであった。
*********
ケイトリンは王妃になったものの、毎日沢山の決断を迫られることが増えストレスで胃を痛めた。
不満を口にしたら多くの人間に叱責され、キリエに頼っていた自身を振り返ることが多くなった。
子供たちとのんびり過ごすことが出来ていたのも、茶会の招待客の心配をしていられたのも、キリエが沢山の仕事を引き受けてくれていたからだと改めて思う。
リチャードとの口喧嘩も多くなった。
王妃の役割は多方面に渡り、貴族との付き合いも好き嫌いを言っていられなくなった。
キリエがどうやって上手くこなしていたのか全くわからない。しかも、定期的に国民のことを考えた法案を貴族たちに認めさせたり、陳情される彼方此方の領地の収入を上げるための計画を、彼女は同時に遂行していた。
キリエがいなくなって間もなく、水害に遭った地域へケイトリンは慰問に行った。
寒く、汚く、不便で、荒れている人々にケイトリンは恐ろしくなり、七日間の予定を三日で切り上げた。子供たちに会えないことも寂しかったし、何よりリチャードと離れて一週間も王宮を離れることが耐えられなかったのだ。
辛い数日を過ごした自分をリチャードが慰めてくれるかと思いきや、唾を飛ばす勢いで叱責された。ケイトリンには初めての経験で涙が止まらない。
王妃とはこんなことまでしないといけないのかと宰相に訴えれば、「キリエ様なら二週間は滞在して支援物資などの目処までつけて帰られたでしょう。はやく仕事を覚えてください」と呆れられた。
王妃の方が予算の割り振りは多いが、着飾ることに使うのではなく、他者への贈答品や王族としての体面的なことにお金を使うことが多い。
ケイトリンは沢山の時間とお金を自由にすることが出来なくなった。
子供たちは乳母や家庭教師に預けることが増え、リチャードとの時間も削られているのが現状だ。
リチャードもキリエが居なくなったら仕事が三割増えたと零していた。
(見えない仕事をキリエ様はコツコツと続けられていたのだわ)
ケイトリンは自分が浅はかな考えで生きてきたことを今更ながら後悔した。
女としてどこか彼女を見下しており、浅ましくも自分の方が優位であると錯覚していた。
それを自覚したのは予算案を決める議会でのことだった。
王の寵愛を得たところで議会に立つことすらできない上に、確保したい予算の草案は法律用語が難し過ぎて、書けるようになるまでまだまだ時間を費やさねばならない。
キリエが去った後、提出書類の難しさに頭を悩ませた時期、『私にお任せください』という男たちの甘言にケイトリンはまんまと騙されてしまった。
政治に疎かったケイトリンは役職を持った官僚に王族のあれこれをペラペラと喋ってしまい、あわや大惨事!となるところで宰相が間に入った。男たちの企みは暴かれ大事には至らなかったが、ケイトリンの能力の低さを宰相にハッキリと知られてしまい、思慮の足りなさを軽蔑された。
蓋を開けてみればリチャードは『王妃』という役職を甘く見ていた。
国民へ税を納めてもらうため、『国の為』と尽くしている王家のパフォーマンスの殆どは、王妃の役割が大きい。
一般市民だけではなく、貴族はもちろん、大きな額面を動かす商人達に対しても『王妃』の信用や手腕は大切であった。
思い返せば、キリエは目的を定めると、達成へと導かせる名人であった。
学生の頃からその片鱗はあった。
対立している生徒会と騎士科の生徒達を上手に鼓舞しては学校行事を成功に導いたり、高額な寄付金を集める際には、プライドの高い貴族の親達から少し無理させるくらいの金額を巻き上げたり……どちらも周囲を不快にさせることなく結果に繋げていた。
キリエは確かな目標からブレずに真っ直ぐに突き進む強さがあったのだろう。
リチャードとケイトリンはそれに比べ周囲の声や状況に振り回されては着地地点を大幅に逸れた結果ばかりでホトホト疲れ果てていた。
喧嘩も増えた。
ケイトリンの努力は認めるが、結果が出ないことばかりだ。そして自分も……
スルスルと仕事が捗っていたのは思い返せばキリエが全ての段取りをしてくれていたお陰である。
『どうしてもっと彼女を大切に出来なかったのだろうか?』
最近思い出そうとしても彼女の困った表情しか思い出せない。
リチャードは一方的に用事がある時しかキリエへ話をしていなかったことに気がついた。
キリエが喜ぶことなど何ひとつしていなかったのに彼女を引き止めようとしていた自分は国ごと捨てられても仕方ないと思い至る。
反対の立場ならとっくの昔に匙を投げていたに違いないと思うからだ。
今は子供達と会う時間もかなり減ってしまい、ケイトリンと一緒に寝たのも随分前のことだ。
世継ぎを煩く言われることは無くなったが、違う問題で頭を悩ませることが増えた。
眼を閉じると艶のある黒髪が黒檀の机でペンを走らせている姿が思い出される。
側妃のケイトリンを芝居に連れていった日も、子供の誕生日を祝った日もキリエは黒檀の机に向かって1人で過ごしていた。
『彼女は何を楽しみに生きていたのだろうか?』
結局彼女の顔を上げさせるような楽しい話題も贈り物も何ひとつ自分はしたことがなかったのだと思い出し、リチャードは何度目かわからない盛大な溜息をついた。
翌年、バナウ王家の代表としてアガーナ帝国にケイトリンとリチャードは訪れた。
八の小国を治める帝国で行われる新王の戴冠式に、バナウ王国も招かれたからだ。小国であるバナウ王国もアガーナ帝国からの招待状に五回に一度は出席するようにしている。
遠方である帝国を訪れるとなると国を空ける期間も長い。それに渡航の費用が大きい為バナウ王国の予算はそれなりに大きく充てられる。年間の国家予算というより、王家の支出からして全てに出席することはしない。島国の経済状況は大陸に比べれば小さくか弱い。
島国バナウ王国とは規模が違う壮大な建物がいくつも並び、初めて訪れたケイトリンは唯々圧倒されたがその夜もっと驚くことが起こった。
アガーナ帝国の夜会でキリエを見たのだ。二人は無遠慮なほど大きく目を見開いた。
一段高い場所で軍服に身を包んだ肩幅の広い大きな男が、キリエと思われる女性の頬に何度も口付け、微笑みかけている。腰に回した手はキリエを離すまいとしっかり力が入っているのだろう。高い踵の靴を履いたままキリエは身を預けていた。
その周辺には高位貴族と一目でわかる人々が二人を取り囲み会話を楽しんでいる。
華やかな集団から漏れ聞こえるのはアガーナの言葉ではなくニイドイ語のようだ。
キリエは手入れの行き届いた黒髪を高価な真珠玉で飾り、華やかなドレスを身に纏っていた。
アガーナ帝国風のデコルテを飾るデザインは華奢なキリエに似合っており、繊細な作りのアクセサリーは一目で高価だとわかる。
一般の職業婦人では誂えるのが難しいそれをキリエがどうやって手に入れたのかリチャードには皆目見当が付かなかったがとにかく彼女が眩しいほど美しく見えた。
番犬のように戯れ付く男はアガーナ帝国では有名な軍人であり、逞しい体格に目を奪われるが顔立ちも決して悪くはない。
眼光の鋭さから怯んでしまうが実に良い面構えの漢で、男性の側から見れば『男が憧れる男』といった佇まいだ。
「キリエ様よね?」ケイトリンの囁きが聞こえリチャードはハッと意識を戻した。
「ああ、間違いないだろう。雰囲気がスッカリ変わってしまったから一瞬わからなかったが」リチャードはその後に続く言葉を思わず呑み込んだ。
『綺麗になったな』と言おうとしたが現在王妃であり、妻であるケイトリンにそれを伝えるのは良くないことであるとすんでのところで気がついた。
キリエが蝶のように羽化したなど、自分が彼女を着飾らせていなかった非を認めてしまうことに繋がってしまう。
ケイトリンはキリエから目を離さず呟いた。
「きっとお幸せなのね」
表情ひとつとってもそれは明らかであった。
柔らかく、満面の笑みを湛える姿は間違いなく夜会を楽しんでいる一人の婦人の姿であった。
王妃時代には気を張って作り笑いしか見たことがなかったのに今や帝国の夜会で彼女は大勢に囲まれ穏やかに笑っている。
バナウ王国の貴族達は夜会で『王妃は地味だから』と陰口を叩いていたが、見てしまった渡航関係者はもうとてもそんなことは二度と口にできないであろう。
多くのバナウ王国からの人間は呆気にとられたようにポカンと口を開けたままだ。
今のキリエはパッと人目を惹くカサブランカのように華があり、尚且つ美しさに拍車が掛かっている。
「幸せなのだな……」
リチャードは言葉にはしたものの何となく素直に喜べなかった。
手放したものの価値に気が付いてほんの少し傷ついたからだ。
自分の至らなさから彼女を傷つけ国から追い出したことを今日ほど後悔した瞬間はなかった。
しかし王妃は違った。
「私、キリエ様は離婚して良かったと今日改めて思ったわ」
ケイトリンが目を細める。
キリエが居たからケイトリンは努力するように生まれ変わった。子供達に恥じない親でありたいと考えるようになったからだ。
そしてそんな彼女を疎んだり傷付けたことで今日まで葛藤していた。
(キリエ様は王妃のままの方が矢張りお幸せだったかもしれない)王宮の外を知らない籠の鳥が生きていけないのではと考えたからだ。
とんだ思い違いであると自分を笑いたくなる。
女は強いとはよくぞ言ったものだ。
傷ついても美しい鳥はちゃんと羽ばたくこともできるし、大きな羽を広げてより広い世界で認められているではないか。
派閥の貴族達がキリエのことを『遂に忌々しいお飾りの王妃を追い出してやりましたな』と嘲笑っていたがバカを言っているのは己だと気がつけばいい。
リチャードの複雑そうな表情を見てケイトリンは笑ってしまった。
良い夫であるが、彼は単純で真っ直ぐすぎて、身近すぎた彼女のことを、正面から真面に見たことがなかった。手から離れたことで今更ながらキリエの価値に気がついたのであろう。
(手遅れですけれどね)
ケイトリンが学生の時から必死でキリエを陥れようとしていた理由を皆が深く考えていない。ただの恋のライバルにあれほど牙を剥いたのは、いつリチャードがキリエの本当の姿に心奪われるのかヒヤヒヤしていたからに他ならない。
地位もあり、美しく、聡明でいて控えめ。そんな完璧な女性、太刀打ちできない。
唯一の弱点が『本人の意思が殆どない』という一点だったに過ぎない。
女に我儘を言わせない、公爵家の家庭環境にいたこともキリエの性格を形成したのだ。奔放なケイトリンを可愛いと思ってくれ、リチャードが愛してくれたことはケイトリンにとっての人生の幸運である。そしてそれを手放すほど愚かではなかっただけだ。
しかしキリエも変わった。離婚を機に自分の考えをしっかり伝えるようになったのだろう。
自信に満ち溢れた笑顔にはどんな人でも魅了される。
学生の時からキリエに唯一足りなかった『意思』。
きっとキリエはこの国でどんどん知名度を上げていくに違いない。
いつの日かリチャードは言われるかもしれない。
『放流した魚が鯨だったと知った感想は?』と。
その時リチャードが胸を張ってケイトリンを褒め称えてくれるように努力をさらに積もうと改めて決心するのであった。
*********
ジャイロ・ローエンドは自分の執着心に驚きを隠せない。戦場ではいつも冷静でなくてはならないと己を律していたが、ことキリエのことになると父たち曰く『暴走』しているそうだし、その自覚もある。
キリエが小国とはいえバナウ王国の元王妃であったことが公になると、社交界で一気に注目を浴びるようになった。完璧な淑女教育と控えめな性格がアガーナ帝国の女性と違っており、男たちは興味が尽きない。
ジャイロは自分の地位を最大限に利用し、牽制に成功。妹の知恵を借りながら彼女を遂に手中に収めた。
婚約の成立である。
関係が両家に認められた後は元々生娘でないのを良いことに最近はローエンドの自宅にも連れ帰るようになった。要するに事実婚を早めたのだ。キリエは多少困ったような顔をしていたが、ジャイロが『この国では当たり前だし、キリエも一日も早くアガーナの流儀を覚えてほしい』と頼めば『そうなのかしら?』と首を傾げながら丸め込まれてくれた。
ローエンド家の父と母は大歓迎であるし、エミリーは『やたらと段取りのよい熊め』と苦笑いをしている。
キリエは確かにジャイロより年は上だが十分に子供がなせる年齢でむしろ彼女から生まれる子供が楽しみで仕方ない。『子は早い方が良い』という父たちの言葉を前向きに捉えてジャイロはさっさと寝室を一緒にしてしまった。
ルタオ伯爵たちは呆れていたがカタリナが『そうね、バナウの公爵家が騒がないうちに急いで既成事実を作っちゃいましょう。この国なら構わないわ』と許可を出した。
二人は仲睦まじく、恋愛を楽しんでいる。
お互い経験が殆どなかった男女の付き合いを三十代を前に初めて体験し浮かれている。
それはお互いの家族が呆れるほどに。
人生の青春はどこで訪れるかわからないものだとジャイロは思う。騎士団に入団してすぐに戦場へと駆り出されジャイロにも思い返せば青春という淡い記憶が薄い。
早くから大人の事情を押し付けられてきたキリエは、十代をやり直していると考えているのだそう。
お金があるにも関わらず学生のように手紙のやり取りでさえ喜ぶ。
『恋文にも憧れていたの』微笑む姿がいじらしく、鈍感だった男の胸奥がムズムズとする。
恋をすると相手のことがこんなにも輝いて見えることを知った。今の気持ちを恋と名付けたが本当は『愛』と言いたい。
きっとそれは年齢を重ねていく上でいつかそう変化していけば良いと思う。
ジャイロたちにはまだ時間が沢山ある。絆を切ってしまったリチャード王を悪い手本として、自分は間違えないぞと気を引き締めている。
新たに王妃となった女性は相当な気の強さだとエミリーは言っていた。『じゃなきゃ、キリエが追い出されることなんてないよ』
確かに一理ある。
男から見れば明るく儚い見た目で可愛らしい女でも、同性から見れば違う局面が分かるのかもしれない。
キリエが素の笑顔を見せてくれる瞬間がジャイロの幸せだ。
深い悲しみを知っているからこその懐の深い彼女をジャイロは一生をかけて幸せにするのだ。
夜会では男たちに盗られてなるものかと腰をしっかり抱き、幾度も頬にキスする。
自分の婚約者であった女性がその様子を見て烈火の如く怒り散らしたと聞いたのはシガールームでだ。
元婚約者の話を聞いても心がすさむことなく、声を上げて笑った自分が好きだ。自分の足りなかった部分を今なら素直に認められる。あれだけ傷付いて、彼女の不誠実さを責めて暫くは落ち込んでいたのに。
婚約破棄もすでに過去のことであると自分の中で整理がついていると理解した瞬間だ。
きっと過去があるからこそ、ジャイロはキリエに選んでもらえたのだと思っている。
貴族という枠は有るけれども、ジャイロはキリエがこの国に来てくれたことを日々神に感謝している。