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中編

場面がガラリと変わります


「キリちゃん!あんたサベラヘ語話せる?」

 軍服に身を包んだ長身の女が書類机で調べ物をしていたキリエの肩を叩いた。


「日常会話くらいなら話せますが如何なされました?」

「ご禁薬を持ってた男がサベラヘ語しか喋れないの。だから通訳してくれると助かるんだ。貴女みたいなお姫様を地下牢の取調室に連れていくのは申し訳ないんだけどね」

 軍服の前を寛がせ、キリエの机に置いてあるコップにエミリーはたっぷりと水を注いだ。

 水差しの水をエミリーは『いただくねー』と断るとグイッと煽る。

 曇天の日は肌寒いくらいだがアガーナ帝国の地下はどうやら暑いらしい。

 キリエからすれば少しでも暖かく感じるのなら地下に行くのも吝かではない。

「良いですよ。今からですか?」と聞けばエミリーはニカッと歯を見せて微笑った。

「助かるよ。臨時の給与は私が申請するからね」

 そう言ってキリエを地下へと案内するために手を取った。女性ではあるがエミリーの剣ダコがある手をやはり軍人だな……と呑気に考えながらキリエは大人しく付いて行った。


 


 

 キリエの離婚が成立し、アガーナ帝国に来て早くも半年。キリエは山に囲まれた大陸の北側にある街に住んでいる。人柄もよく、食べ物も美味しく、この土地を大変気に入ってはいたが、初めて体験する冬時期の寒さには辟易していた。

 シンッと朝晩が冷え込み、雪はもったりしている。水分を多く含んだ雪が降るこの国はバナウと何もかもが違うが、そこが新鮮で面白い。

 アガーナ帝国のこの街には、温泉が湧き出ており、地熱を利用した暖房があちこちにあるのと、公衆浴場が有名だ。

 寒い夜に温泉に浸かる幸せはこの国に来て知ったキリエの楽しみではあるが、仕事をしている日中の冷えがキリエには正直辛い。寒い国育ちの人々は寒さに強く暖房一つで汗をかく男も多いのだ。

 母方の親戚が住むアガーナ帝国はキリエには何もかもが都合が良かった。


 知り合いはおらず、王妃だったと知る人間は親戚たちだけ。そして自由が多い帝国はキリエの気持ちに大きな変化をもたらした。キリエはあのままバナウ王国に居続けていたら、人目を避け屋敷に篭りがちになっていたことであろう。

 アガーナ帝国は大きな戦争後、武勲を立てた将軍や平民たちによって【選抜制議会】が採用されている。国政は生まれに関係なく能力で選ばれた学者や国民たちが皇帝たちと動かしている。バナウ王国とは違い先進的な国で、女性の職業も沢山あり、キリエは迷わずこの国では仕事を探した。


 キリエの叔母が貴族として身元保証をしてくれたことは大きく、帝国軍部の文官試験を見事突破し仕事を得た。


 王妃の時はお金を稼ぐ感覚など全く持ち合わせていなかったから、金銭感覚が掴めず最近までキリエは苦労の連続であった。

 街で買い物をするのも初めてである。

 気の良さそうな店主から勧められるとなんでも美味しそうに見え、価格も貴族の食べるものとは桁があまりに安い。

 すっかり気をよくして食材を食べきれないほど買い込んで帰った。もちろん細身のキリエが大食漢なわけもなくあっという間に食品を傷ませてしまった。不要な品物を言い値のまま購入したり、洋服ひとつまともに買えないので見かねた叔母の家令が付き添ってくれていたくらいだ。

 周囲から見ればお嬢様が『私は一人でできます!』と意気込んではいるもののあまりに常識がなく、年老いた爺やが後ろからコッソリと手伝っている風景。

 さながら子供のおつかい状態である。

 市民の間では美人で目立つキリエが街をウロウロしている様は有名であった。

 そんなキリエもここ最近はやっと食事も買い物もスムーズに済ませることができるため、一人立ちも半分成功といったところか。

 それでも叔母のカタリナが心配して、夕食を一緒に伯爵邸で取ることが多い。(離婚歴のある三十路前の女性に対して手厚過ぎる)キリエは自分が働き出してから如何に大切にされているかをヒシヒシと感じた。

 その姿を見た文官たちがキリエのあだ名を『お姫さん』とつけたのは当然のことであろう。

 事情を知らないとはいえ良いところを突いている。

 異国の容姿から事情があるとアガーナの人々も思っているのだろうが、おっとりと構えるキリエの姿に、「やんごとなき身分で、でも何かから逃げてきた婦人」と多くの憶測が飛び交ったが、半分正解ではあるから彼らの推理力は侮れない。


 

 王妃教育は全てにおいて万全を期す。

 計算や読み書きはもちろん、あらゆる書式の内容把握、それらの分類と多岐に渡る軍の事務方をキリエは難なくこなしてみせた。

 おそらく王妃時代の仕事量が多すぎたのである。

『私ってば今までずーーっと仕事ばかりしてきたのね。そんなことにも気が付かなかった』

 キリエは自分の王妃時代の状況を幾度も思い返す。

 リチャードは悪い王ではなかったが自分の遊びたいことは絶対で、自分の書類が終わらなかった時は『キリエ頼むよ』といつも私室に書類を持ってきた。

 側近たちはそれを知っていたであろう。

 リチャードはそれを彼らに咎められることはなく、側妃のケイトリンは立場を理由に一度も書類を任されることはなかった。

『ケイトリン様も今じゃするしかないでしょうけれど』

 最近はバナウ王国のことも父からの手紙でしか状況は分からない。

 キリエが王妃を退いたのだから、一年もすればケイトリンが正妃として立つことは間違いない。

 きっと子育てと王政の仕事と充実した毎日が待っていることだろう…………


 などの想像はするが、自分がそのまま残って彼らの手伝いをしようなんて微塵も思わない。

 キリエは決めている。

「頼まれたからと言って必ず引き受ける必要はないのだわ」


 愛する人のためなら頑張れたかもしれないが思い返してもキリエはリチャードを愛してはいなかった。正直に言えば尊敬すらもしていない。

 リチャードはキリエが自分のことを政略結婚であっても愛していると思っていたようだが、人間何度も酷い言葉を投げつけたり嫌がらせをする相手を愛するなんて有り得ない。    

 キリエの感情を例えるなら幼馴染(リチャード)の放って置けない男の子。そんな存在であったように思う。

 もっともキリエが望む家族愛を育む前にリチャードからその土台もバキバキに破壊されたり、ケイトリンとのイチャイチャを見せつけられていたので本当にただの仕事仲間であったように感じる。


 軍部ではお姫さんとキリエを揶揄いながらも、能力値が高く、荒っぽい人間に気圧されることなく淡々と仕事をこなすキリエは『どこのどんな生まれなのだろう』と不思議がられていた。


 脳筋と呼ばれる人間が多いこの場所で語学が達者なキリエは予想よりも役に立っているのはカタリナたちも計算外ではあった。

 すごいすごい!とキリエを周囲が褒めれば

『当然のことだと思って身につけたことでしたけど……皆様のお役に立てるものですのねぇ』

 褒められた経験の少ないキリエは戸惑いながら微笑んだ。エミリーはこの言葉を聞いて大笑いしていた。


 ++++++++



 地下牢のある階段を降りるとそこには厳つい短髪の男が待ち構えていた。


「キリエ殿、すまない。このようなむさ苦しい場所に貴女のような女性を呼ぶなんて……なんとお詫びすれば良いのやら」

 深々と頭を下げる副団長の硬そうな髪がブンッと音がしそうなほど下がる。

 キリエは笑いながら手を横に振る。


「ローエンド副団長様、どうぞお顔をあげてくださいませ。お気になさらずに。私は少しでもお役に立てれば嬉しいのですから」

「いや!しかしこのような場所は貴女には不釣り合いすぎて申し訳が立たないっ!」 大きな体から発せられる声はキリエの周囲では聴かないくらいの音量で思わず耳を押さえたくなるくらいだが、ローエンド副団長はそんなことには全く気が付いていない様子だ。

「兄様うるさい…………」

 エミリーはローエンド副団長の肩を乱暴に一発叩くとキリエを奥へと誘う。


「もう何回目よ?いい加減ごねるのやめてくれない?キリちゃんが良いって言ってくれてるんだから良いじゃん!はいはい副騎士団長様はあっちに行って!」

「だがっ!いや!ダメだ!!危険があってはならんから私が護衛を務めよう!」

 護衛を副団長が務めるなど、貴族位がすでにないも同然のキリエからすればとんでもない申し出である。

 騎士たちが何人も居るこの場所で危険なんてあるわけないと思うのだけど……と小首を傾げるキリエだがローエンド副団長はなんやかんやと言いながら必ずキリエの背後に立ち見守ってくれる。

 エミリーと副団長のことばの応酬に初めは驚かされたが、いまではやり取りはいつものことですっかり慣れてしまった。

 ジャイロ・ローエンド副騎士団長とエミリーは兄妹であるからかこのように気安く話すことも多い。


 このローエンド兄妹にキリエは最初から縁があり、すっかり世話になっている。


 キリエが己が究極の方向音痴だと自覚したのは勤務初日。軍の建物で一人になった途端にどこに進めば良いのかまったくわからなくなった。思い返せば自分の進む方向には常に侍女や護衛騎士がおり、街歩きなどまともにしたことがない。

 建物を覚えて、地図を見て歩くことなど幼少期からしたことがないのだ。

 アガーナ帝国に来たばかりの日も、叔母はキリエの浮世離れした点を『まぁ、キリエは特に他のことばかり学んで生きてきたからそういうところがストンと抜けちゃうのね』とコロコロ笑っていた。

 

 増設を重ねた軍司令会館は八棟もの建物で構成されており、中も複雑に繋がっていた。

 事務室に初めて仕事で上がった日、キリエは建物から出られなくて半べそをかいたのだが、それを助けたのがエミリーだ。

「泣きそうな顔をしてどうしたの?お嬢さん。貴女随分綺麗だねーどこの家の人?」と気さくに話しかけてくれた。


 キリエが勤めて初日であること、叔母の家名を告げて怪しくないことを必死に話すとエミリーはカラカラと笑い、案内を申し出てくれた。

「怪我してるの?」

 ぴょこぴょこと足を庇って歩くキリエは、迷子になった建物内で今まで歩いたことのない距離を歩き、すっかり靴擦れを起こしてしまっていた。

 その様子を見てエミリーは気を利かせ、ローエンド侯爵家の馬車にそのまま乗せてくれたのだ。自分は仕事があるけどこの馬車は安全だからどうぞ使ってね、と。

 心細さから無闇に歩き回り、足を痛めていたキリエは涙を浮かべて感謝した。

 そしてその馬車に先に乗っていたのが副団長ジャイロである。

 エミリーから事情を聞いたジャイロは驚いた顔をしていたが「なるほど」と頷くと手を差し伸べ

「ご自宅まで無事にお送りしよう」と快く引き受けてくれた。

 大人になっても迷子とはキリエも自分が情けなくて恥ずかしかった。


 濃い金髪の眼光鋭い男は馬車の中で窮屈に見えるほど体躯が良い。鷲に似た顔立ちは厳つく、半袖から覗く腕には傷も多く見られた。

 怖いほどの容姿であるが、弱っていたキリエにはエミリーも彼も神に遣わされた使徒のようにしか思えなかった。

 馬車に乗り込むとキリエは丁寧に頭を下げた。

「エミリーさまにはご親切にして頂いて、その上このようなご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません。何分何もかもが不慣れで……」

 瞳を潤ませ感謝の気持ちを伝えるキリエにジャイロは優しかった。

 ジャイロは口数がとにかく少なく、『あぁ』とか『う、うむ』とキリエのお喋りに首肯するばかりでエミリーのように気さくに話すわけではなかったが叔母の家までしっかり送りとどけてくれた。


 方向音痴を発揮して周囲を心配させたキリエではあるが、仕事が始まれば全てが払拭される。軍部の事務仕事に関しては元々素地の良いキリエは、全てを難なく熟すようになった。バナウ王国で王太子のために議会に提出する草案を纏めることの多かったキリエである。仕事の内容を飲み込んで仕舞えば、半年経たぬうちにすっかり即戦力。その上、どんな地位や容姿の人間に対しても分け隔てなく丁寧に接するキリエは、あっという間に人気者となった。

 見た目も勿論目立っている。

 黒髪と深い焦茶色の瞳は思慮深げで品が良い。十代特有の肌が水を弾くお年頃ではないけれど、戦争があったこの国では女性を選ぶ基準が歳ではない。アガーナ帝国の女性の自立が進んでいることもあり、キリエを食事に誘う男たちは後を絶たない。

 若い騎士であっても、美しい異国の婦人に会いたい為にわざわざ事務室へ足を運ぶ面倒な用事を買ってでるほど。しかも出自はおそらく良い家で、慎ましやかでありながら多くの国の言葉に精通しており群を抜いて聡明。アガーナ帝国軍部では「お姫様」は知的で品のある人格者として「うちの嫁に……」という言葉も何度も飛び出す。

 そんな中でキリエは身持ちが固く、素っ気ないわけではないのに打ち解けて貰えない。常にデートの誘いをきっぱり断る、難攻不落の高嶺の花と思われていた。

 キリエの人生は【青春】という名のものが何一つなかった。正式に婚約者になる前から親と王家の目は厳しく注がれ、言われるがままの学生時代。王太子の妃になるために交友関係は厳しく制限され、自由はない。親の考えを汲み取れる賢さがあったからこそ厳しさに応えて生きてきた。

 王太子は『男の嗜み』として女生徒と触れ合えたのに、キリエは『ハシタナイ』と言われるので余所余所しい友人とお茶会を親の監視のもと嗜むだけ。街に遊びに行ったり、お忍びでハメを外したこともなかった。だから誘われていること自体がよくわからず、何と答えたら良いのかもわからない。

 偶には叔母たちとの夕食を断って外に行ってみたい……と思っても、どうやれば良いのかわからず戸惑ってばかりだ。

 バナウ王家に尽くすとはそれほどに大きな影響を及ぼしていたのだ。

『皆様が誘ってくれて嬉しいけれど、なんてお答えしたら良いのかわからないわ』

 エミリーに相談すると呆気に取られたような顔をされた。

「みんなキリちゃんと仲良くなりたいんだと思うよ。貴女は可愛らしいからね」そう言われてもピンと来ない。

「きっと見た目も珍しいのね」

 そう答えると、エミリーは少しかわいそうな子を見るような顔をした。

「キリちゃんは自分の魅力に気付いてないんだよ。まぁ兄様は助かったと思ってるだろうけど……」


 キリエは砕けた友人関係の距離感が全く掴めずにいた。


 (黒髪はこの国ではそれほど男性に嫌われないのかもしれない。でも私はリチャードから見向きもされなかった女だもの。好かれるなんてあり得ないわ。バナウでは他の男性に誘われたこともないしね)

 

 前王妃も金髪の豊かな女性でキリエと見た目も正反対。社交界ではキリエは女としての価値は低いと囁かれ続けた。

 学生時代は王妃教育に時間を奪われ、友人もリチャード王太子と王室が納得のいく人材のみ。

 よそよそしい人々に囲まれ、お茶を飲んだ記憶しかない。会と名のつくもので着飾っても、いつの間にかケイトリンの華やかさと比較されるようになり、会話内容も当たり障りのない言葉を常に選んでいた。

 その結果キリエは面白みがないと揶揄されることも多かった。


 風の噂に貴族であろうとも友人になれば一緒に街に繰り出し食事をすることがあったともいうが、キリエはそのような思い出つくりもしたことがない。

 だからアガーナ帝国でも『食事に行きませんか?』と声をかけられた意味がわからず正直に答えてばかりだ。

『今夜は叔母のカタリナが夕食を用意してくれていますのですみません』

 一人暮らしの寮に住んでいるんじゃないの?と聞かれるも

『はい、そうなのですが叔父のルタオ伯爵が「キリエは私が預かっているのだから夕食は家族と一緒に」というのです』

『ええ、夕食でその日の報告をしたら私を寮まで馬車で送り届けてくださるんですの』

ーーーお茶に行きませんか?ーーー

『お茶ですか?お茶会に呼んでくださるの?』

 お姫様は天然を炸裂してこのように返してしまうため、男たちは悉く玉砕していった。


 そんな中エミリーは上手に距離を詰めていた。

「キリちゃんのカタリナ叔母さまに連絡させてもらったよ。ルタオ伯爵たちと夕食ではなくて今日は私たちと食事にしよう」

 キリエは首を傾げた。

「まあ!すごく楽しそうですがエミリー様のご実家に伺うということですの?ご招待をしていただいたのであれば手土産はこの国ではどのように準備するのか教えてくださいますか?」

 するとエミリーは軽く微笑み肩をすくめる。

「キリちゃん、今夜は兄が貴女をレストランでご馳走してくれるんだよ。この前の通訳がとても役に立ったからね」

 キリエは再び首を傾げた。

「お給金に反映されておりますからわざわざジャイロ様からお礼を頂かなくても……」

「キリちゃんもこの国に慣れてきたでしょう?だから〈友達〉同士【親睦会】みたいな感じでするんだよ。アガーナの市民が使うお店でね。いつもお世話になっている人を何人かまとめて呼ぶと兄も言っていたから構えずにおいで」

 そう言うと急にキリエは押し黙った。

「お友達同士で食事すると親睦が深まると聞いたことがありますわ。私は経験がないのですけれど」

「そう、じゃあ新しいことを試す絶好の機会だね。美味しい肉料理を出すお店なんだ」


 事務員たちはキリエに緩い視線を送って声をかける。

「キリエ様ってレストランなどにお食事に行かれたことがありませんの?」

「……視察では勿論お店に入ったことはありますけれど」

「(視察?)その……プライベートで楽しんだりは?」

「…………ございません」


 キリエはレストランというものにプライベートで行ったことは勿論ない。

 子供時代は実家は料理人がいたし、テーブルマナーを学ぶ場所でしかなかった。

 視察先で行ったことは勿論ある。だが警護付きで目的はあくまで視察であり、その合間に慌ただしく食事を摂るだけのもの。楽しむという趣向はなかった。ケイトリンとリチャードたちはしょっ中〈お忍び〉と称して市井を楽しんでいるのは聞いていた。

 リチャードも偶に気不味さを紛らわすように、お土産だと路面店で売られている串焼きなどを買ってきてくれた。

 

 焼きたてならば美味しいであろう串焼きや、蜜掛けの冷えた菓子はどれもそれほど美味しくなかった。楽しかったと頻りに燥ぐ側妃のケイトリンが羨ましくもあり、王宮の料理に劣るものを外で食べたとて何が楽しいものか……と目を背けていた。

(だけど…………みんなが経験してきたことを私も経験してみたい)

 キリエは小さな一歩を踏み出すことに決めた。

 

 アガーナ帝国での周囲の反応を見ながら、自分も『みんなと同じ経験をしてみたい』とやっと思えるようになってきた。聞き齧った情報で判断するのではなく、自分の目や耳、五感で感じて知ることが何よりも大切なのだ。

 キリエは学生時代のケイトリンのように、誘われたら『はい!行きます』と返事をしようと決意した。

 自己肯定感の低いキリエは誰かに何かを望まれることがなかったが、今は自分が『やりたい』と少しでも好奇心が有ればチャレンジするべきだと思ったのだ。

 それは『お姫様』と揶揄っていた人たちが、日常は細やかでもこんなに楽しいことがあるんだよ、と一生懸命に導いてくれた結果である。


 〈人生を豊かにしてくれるのは自分の欲と経験だ〉ということを。


 親に言われるがままに生きてきた二十六年間よりも、半年間の自分の判断で生活している毎日の何と充実したことか。


「楽しみにしています。エミリー様。ジャイロ様に甘えて良いのですね」

 そう返事をすればエミリーは破顔する。

「楽しみにしているよ。きっと楽しい集まりになるよ!」 エミリーは待ち合わせ時間を告げるとサッとそのまま事務室を出ていった。


>>>>>>>>>>>>>

 キリエはその夜のことが忘れられない。

 部署の違う事務員の女性二人がキリエと一緒に招待され、ジャイロが連れてきた騎士団の若手二名。エミリーとその婚約者の役人が個室に集まり晩餐に舌鼓を打ち、深夜までカードゲームを楽しんだ。八人で年齢もバラバラな組み合わせであったが、笑い声は絶えず食事はどれも美味しかった。

 ワインとチーズ、小さなケーキを摘みながらカードゲームをすれば、キリエはビギナーズラックなのか何度も勝利した。

「無欲な人間が勝つようになっているのは本当ですわね」

 事務員の女性が微笑むとジャイロはウムと頷き、「キリエ殿は本当に清い心の持ち主だからな」と真面目に返答する。

 恥ずかしくて『やめてください』とキリエが言えばエミリーがキリエを抱きしめた。

「性格の良い、人のいいキリちゃん。みんなあなたが好きなんだ。可愛いなあ」

 そう言えば皆が微笑み、ジャイロは一人で「エミリー!離れろっ」と謎のヤキモチを焼くのであった。

 エミリーは沢山のゲームを知っており、コップに水を並々と注いだ後コインを入れるゲームも提案した。

『水を溢れさせた人が負けなんだ』そう言うとじゃらじゃらとポケットの小銭をテーブルに置いた。


 表面が盛り上がっているのに水は不思議と簡単に溢れ出さず、キリエは真剣な表情でコインをコップに沈めていく。

 そっと手を離すときの緊張感が堪らない。大銅貨を二枚連続入れた後順番がジャイロになった。

「ジャイロ様頑張って!」キリエは毎回声をかける。

 大きな体を縮ませて緊張した面持ちでジャイロが小銀貨を入れた瞬間水が溢れた。

 ジャイロはこのゲームは連続で負けていた。

「頑張って!」「今度こそ!」とキリエが言うたびに、ビクッと体を振るわせ指までコップに漬けてしまうのが敗因である。

 エミリーが『不器用すぎる』と揶揄い、若手の騎士はジャイロのその姿に『意外だ……』とびっくりしていた。



 

 これを切っ掛けにキリエは週に一度はエミリー&ジャイロの三人で食事に出かけることが増えた。二ヶ月経つ頃にはエミリーは『兄と遊ぶ暇はない』といい出し、キリエとジャイロ二人きりになることも増えた。

 ジャイロが伯爵邸に許可を取ればそのうち二人で芝居を見に行ったり、夜会に出席したりするようにもなった。

 ジャイロは決して口数の多い男性ではないが、いつも優しくどこに行くにもキリエの希望を聞いてくれる。

 これはキリエにとって初めての経験であった。

 最初は「どこに行きたい?」「何を食べたい?」と聞かれても何も答えられなかった。

 考えたことがなかったからだ。

 キリエは自分がどれだけ他人任せで生きてきたのかと振り返る。学生時代から何を楽しみに生きてきたんだと情けなさと、悔しさが込み上げてくるくらいだ。

 今ならリチャードやケイトリンが楽しんでいたことの全ての理屈が理解できる。

 好きな人、自分の心地よい場所、思うがままに振る舞うことの素晴らしさは、【自由】という一言で片付けてしまうにはあまりにも甘美でそして尊い。


 仕事相手としてリチャードは決して悪くなかったが、人生のパートナーとしてはあまりにも距離があり過ぎたと最近は思う。

 結婚式を辛くて惨めだと悲しく思い返す時もあったが、あれも自分がキチンと意思表示しなかった結果であると今なら思えるほど、ジャイロとの時間は楽しかった。

 バナウ王家のことを憎く思いながら離婚したあの時と違い、キリエは結局は全ての原因は己であると考えるようになる。

 リチャードやケイトリンを羨ましく思うなら、すぐに思いを伝えておくべきだった。

 なんでも理解したような顔をして、全てを受け止めている風を装ったから侮られた。『愛されていない』と笑われるのが辛くて、懸命に議会に居場所を求めたりした。自分を誰も認めてくれていなかったと嘆いたりもしたが、結局誰も愛していない自分が、誰かから愛されるわけがなかったのだ。

 ジャイロと一緒に過ごすうちに気持ちはどんどん澄んで行き、昇華されていく醜い思いをキリエは躊躇いなく見送る。

 アガーナ帝国でキリエは確実に第二の人生を歩み始め、運が拓けた気がしていた。

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