番外編第十一話 訪れた危機と、そして最終関門へ
タチアナは息を呑んだ。
どうしよう、さすがに声を出せばバレる。
それがわかっているからタチアナは声が出せない。
「なぜ黙っている」
ハサイード様が私に声を掛けたのは侍女と思い込んだためだろう。
万事休す。もはやここまでと、タチアナがあきらめかけたときだ。
「恐れながら、私が代わりに答えてもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろんかまわない」
「こちらの飴細工はタチアナ様が所望されたとのことでした」
先ほどから一緒に行動している侍女が代わりに答えてくれる。
聞き取りやすい彼女の声は、まったく震えていなかった。タチアナは内心で拍手喝采を彼女に贈る。
なんて運がいい、ここに天の使いがいた!
「そうなのか、タチアナがこれを」
ハサイード様のつぶやきを肯定するように、侍女に扮したタチアナは無言のまま深々と頭を下げる。
これで完全に飴細工へと彼の興味が向いた。
タチアナの注文に応じて料理人が作ってくれた飴細工は咲き誇る薔薇を模したもの。残念ながら茎が柔らかくなって傾いでいるけれど鮮やかな色合いはそのままだった。
先ほどまでの厳しいものとは一転して、ハサイード様の声が柔らかくなる。
「タチアナはこういうものが好きなのか。かわいらしい」
すると隣に並ぶ国王陛下の小さく笑う声がする。
「今日は祝祭だ。料理長に頼んで彼女の夕食に飴細工を添えさせるといいのではないか。きっと喜ぶだろう」
「ええ、そうします」
「噂に違わぬ溺愛だな。それだけ大事に思っているのか」
「はい、私の最愛の人です」
ハサイード様の声は周囲にいる使用人にもしっかりと聞こえる大きさだった。
誰かが息を呑む音がする。タチアナは呆れた顔を隠すためさらに深く頭を下げた。
竜を癒す力があることを公表しない限り、タチアナは無能で役立たずのままだ。無能で役立たずの最愛と、有能で慈悲深いと評判の王妃。どちらが使用人から愛されるかなんてわかりきっている。
彼がタチアナを擁護するほどにラディーカの評価が上がり、タチアナの好感度は地に落ちていく。
ここまでとは思わなかったわ。
タチアナを部屋の外に出さなければ気づかれないとでも思ったのだろうか。
「時間が押しています。次の区画に参りましょう」
侍従の声がして、ハサイードの鉄靴がタチアナの視界から消えた。
二人の距離はどんどん開いていく。タチアナは顔を伏せたまま口元を歪めた。
最後までタチアナだと気がつかなかった、その時点で答えは出たようなものだ。
自分しか愛せないあなたに捧げるほど私の愛は安くないの。
他の使用人に混じり、彼の背中を見送りながらタチアナは胸の奥でつぶやいた。
華やかな一団は廊下の角を曲がって姿を消した。見送った使用人達はふたたび動き出す。そこでようやくタチアナも動き出し、飴細工を支えたままカートの持ち手に体を預けて深々と息を吐く。
「もう、びっくりしたわ。なかなか答えないから代わりに答えちゃったわよ」
代わりに答えてくれた侍女が文句を言うのに合わせて、タチアナは頭を下げた。
「想定外のことで声が出なかったのです。助かりました、ありがとうございます」
本当、彼女には感謝しかない。
すると視線の先で侍女は苦笑いを浮かべる。
「まあしょうがないわよね、相手は王族だし。あの威圧に慣れていないなら余計に無理でしょう」
普段のタチアナならあの程度の威圧くらいどうってことはない。
だが相手が悪過ぎる。ここまで諸々準備したことが吹っ飛ぶくらいの衝撃に言葉が出てこなかったというのが本音だ。侍女はタチアナと並んで歩きながら小さく笑った。
「あなた、そんな気が弱くてよくタチアナ様の側付きなんて務められるわね」
「自分でもそう思います」
すると彼女は真面目な顔でタチアナにささやいた。
「赤い目といえばタチアナ様と同じでしょう。実はちょっと警戒していたのよ。もしかして本人じゃないか、って最初少しだけ疑ったわ」
「ええええ!」
タチアナの笑顔が固まった。
ど、どうしよう大当たりじゃないの!
明らかにうろたえたタチアナの顔を見て、侍女はふふっと笑った。
「嘘よ、冗談だから。あなた、噂の悪女とは大違いだもの。小心者で気の弱い人に悪女は無理よ」
「そうです、そうです。無理なんです!」
タチアナの目にうっすら涙が浮かぶ。
よ、よかったー。悪女の振りをしておいて!
ハサイード様の指示でタチアナの容姿は公表されていなかったけれど、毎日のように入れ替わる側付きの侍女から情報が漏れて、瞳や髪という特徴くらいは侍女達に伝わっていてもおかしくなかった。しかも赤の瞳と黒髪は珍しい色の組み合わせだし両方が揃うと真っ先に疑われてしまう。
けれど片方だけなら誤魔化せるかもしれない。髪を隠すスカーフを作った目的はこのときのためだった。
そしてさらに悪女という人物像を作り上げたのも同じ理由。
実際に会ったタチアナの印象が噂と違えば、余計に疑われにくくなる。
噂とは本当におそろしいものだ、たとえ目の前にいるのが本人でも別人だと信じてしまうのだから。
一瞬、気がゆるんでタチアナは口走った。
「毎日それは必死で、どうやったらそれらしく見えるかと」
「必死でらしく見えるように……?」
「いえ、なんでもありません」
いぶかしむ侍女にタチアナは笑って誤魔化した。
しまった、気をつけないと。
ようやく洗い場に到着して食器を置き、タチアナはやっと飴細工から解放される。ただ、手を水で洗っただけではまだベタベタするし、甘い香りが手について取れない。
タチアナは裏口を探すために、広い厨房の奥をのぞき込んだ。
「外の洗い場でもう一度手を洗ってきます。ここでは洗い物の邪魔になりそうなので」
「それなら裏庭に井戸と石鹸があるの。洗濯用の石鹸なら飴の匂いも落ちるかも」
「ありがとうございます」
タチアナは侍女と連れ立って厨房から裏口を使って庭に出る。
彼女から借りた石鹸は洗濯用ということで、洗浄力が強くてよく落ちる。無事に匂いも汚れも取れた。
たまたま一緒になっただけなのに、世話好きの人で本当に良かった!
ほっとしたタチアナが布で手を拭いていると、背後でガシャンという鉄同士がぶつかる音がする。
振り向いた先には敷地と公道を隔てる鉄柵があった。鉄柵には鉄扉がついていて、使用人が出入りする姿が見える。そして鉄扉の脇には見張りの兵士が立っていた。
「あの鉄扉は何でしょうか?」
「あれは使用人専用の通用口ね」
ああ、あれが例の。使用人専用の通用口と聞いてタチアナはほくそ笑んだ。
わがままの延長で侍女が自ら教えてくれたことが脳裏によみがえる。
「出退勤は正門ですが、買い物やお使いは身分証明書の提示がいらない通用口を使うと楽なのです。ただし、侍女服でないと門番に通してもらえないのですが」
本当に運がいい。ひっそりと笑って、タチアナは侍女と視線を合わせた。
首をかしげた彼女に微笑んで、声に赤の力を乗せる。
「いろいろ親切にしてくれてありがとうございます。もう持ち場に戻ってください――――そして、私のことは忘れて。きっとそのほうがあなたは安全でいられるでしょう」
突然何を言い出すのか、そんな表情で彼女は固まった。けれど次の瞬間、柔らかな瞳の色が甘く蕩ける。
……どうやらタチアナの勘は当たったみたいだ。
彼女は高位貴族出身の侍女だった。威圧に慣れているような趣旨の言葉を口にした時点で、そうじゃないかと思っていたのだ。
タチアナの視線を受け止めた彼女は魔力に酔わされ、心底から幸せそうな顔をする。そして熱に浮かされた顔で口を開いた。
「ええ、忘れるわ。あなたの望むように」
人の身に宿る竜の血は薄まっているから効果は限定的だ。今の彼女は魔力に酔わされているだけで、忘れなさいと言っても酒に酔ったときのように記憶が曖昧になるだけ。
けれど酔ったときの記憶は不安定で、時が経つほど曖昧になるもの。
あっという間に別の記憶で上書きされるだろう。
「最後の最後であなたの親切に救われました。それなのにこんな騙す真似をして、本当にごめんなさい。でもあなたのおかげで、この国のすべてを憎まずに済みそうです」
そう言って頭を下げると、彼女は幸せそうに微笑みながらタチアナに背を向ける。
少し触れ合っただけの人間にも親切にしてくれる優しい人だから。彼女には幸せになってほしい。
「どうか、お元気で」
タチアナは感謝と謝罪の気持ちを込めて、彼女の背中にもう一度頭を下げた。
さて、もう行かないと。
洗い場を片付けをするふりをしつつ、機会を狙っていたタチアナは買い物袋を抱えた侍女の姿を見つけて覚悟を決める。自然な足取りで通用口へと近づくと、視線を下げつつ、タチアナは門番の前を通り過ぎる。
「おつかれさまです」
「おつかれさま、っと君は……」
「ただいま戻りました!」
タチアナと入れ違うように鉄扉を通過した買い物帰りの侍女が門番に挨拶をする。
彼女の明るい表情と声に門番の視線が自然とそちらにそれた。
「おかえり、教えた店に目的の物は売っていたか?」
「ええ、売っていたのよ。ありがとう、これで式典に間に合うわ!」
「困っているときはお互いさまだからな」
二人の話が弾んでいる間に、タチアナは鉄扉から外へと一歩を踏み出した。
心臓がうるさく音を立てる。けれど決して振り返らない。
一年ぶりに踏み締める大地。
タチアナは人の波に合わせて真っ直ぐに歩く。
人が増えてきたので、できるだけ視線を合わせないように顔を伏せることは忘れない。
角を曲がり、通用口が完全に見えなくなったところで、タチアナはくっきりと口角を上げた。
「最終関門突破」
自由だ、自由だ!




