第六話 私は聖女ではありません
川面の水が跳ねてハッと我に返った。
落ち込んでいるように見えたから慰めてくれたのかな。だったらこれ以上の何かを期待するのは間違っている。揺れる気持ちを誤魔化してアンジェリーナは小さく笑った。
「生命力が強いということは、図太いということですね」
「いや、そういう意味で言ったわけではないが」
「ふふ、冗談ですよ。でも元気が出ました、ありがとうございます!」
「それはよかった」
ふわりと笑って、ジルベルト隊長は樽を二つとも抱えた。
「あ、すみません。一個持ちます!」
「いやいい、そこまで重くないから。それに早くしないとアンジュの作った特製スープが食い尽くされてしまう」
冗談めかして笑いながら、一切危なげのない足取りでジルベルト隊長は来た道を戻っていく。彼の後ろをアンジェリーナは早足でついていった。
なんだか花よりももっと大切な物をもらった気がするわ。
アンジェリーナは小さく笑って、フィラニウムの花を鞄にしまった。
「隊長、アンジュ。おつかれさまでした」
フェレス副隊長はジルベルト隊長から水の入った桶を受け取ると、早速怪我人の元へと運んだ。
毒に触れた傷はまず水で洗い流すのが定石だ。そのあと治癒か回復の魔法をかける。だが魔獣や魔物との戦闘行為で深く傷ついた場合は注意が必要だ。傷口が赤紫色に変色しているときは、もう一段階、傷口を浄化するため聖水を振りかける。
「かけますね、少々しみますが我慢してください
「っ!」
フェレス副隊長が聖水を振りかけて浄化するとジュっという音がして兵士は顔をしかめた。聖水を使うと傷口にしみて軽く痛みを感じるが、傷が深いときは特にこの浄化が重要だ。
「治癒」
続けて副隊長が魔法をかけると赤紫に変色していた傷口がわずかに光ってきれいにふさがった。兵士が安堵したように、ほっと息を吐く。
「これで大丈夫でしょう。しばらくしても、まだ痛むようなら教えてください」
「ありがとうございます!」
見事な腕前だわ。無駄なく影響範囲にだけ照射できるよう魔法を制御している。実のところ、ヘレナのようにキラキラとした光がわんさか出るのは未熟な証拠。制御が甘いとあんなふうに魔力が光となって漏れ出る。それを知らないから人々は天使の光だとかありがたがっていたけれど……あの行動が聖女らしさを演出するためだとすればたしかに彼女は賢いのかもしれない。
ただ彼女の魔力量はそんなに多くないし、もし制御が上達していないのなら一度に大量の怪我人は捌けないだろう。担当の神官は制御の仕方を教えてあげているのかしら?
まあもう私には関係のない話だけどね。アンジェリーナは深く息を吐いて、鍋からスープをすくった。様子を見ながら、手当てを終えた兵士達にも配っていく。ワームの体毛は吸引すると体内に毒として残りやすい。解毒は体内に残る毒を打ち消す効果があるからきっと体調も良くなるはずだ。
「はい、元気が出るようにたくさん食べてくださいね!」
「ありがとう、アンジュ」
感謝されるのは素直にうれしい。この場所でアンジェリーナを無能の役立たずと罵倒する人は誰もいなかった。あ、この人には解毒の効果を追加しておこう。器越しに効果を付与してから食器を渡そうとしたアンジェリーナの指先が兵士の手に触れた。
「あっ、すみません」
魔法の制御に気を取られたわ。まだまだ未熟だと思いつつ、照れた顔で誤魔化したら、なぜか兵士は頬を赤らめた。魔物との戦いで傷ついた兵士の目にアンジュはキラキラと輝いてみえる。清楚で可憐……しかも、なんだか神々しい。
「まるで聖女だ」
「ひいい!」
しまった、どこでバレた⁉︎
目に見えてうろたえたアンジュの手を兵士はあわててつかんだ。
「驚かせてごめん。つい堪えきれなくて。俺はマルコ、ぜひ国に戻ったらそのときは」
「おや、けがはすっかり良くなったようですね」
「誰だ邪魔……って副隊長!」
「ええそう、あなたの上司です。自分ではそれなりに存在感があるつもりでしたが、まだまだですね」
フェレス副隊長はそっとアンジェリーナの手を外すとマルコに向けて優しい微笑みを浮かべた。だが目の奥は笑っていない。あ、これ危険なやつ。
「マルコ、国に戻ったらあなたを特訓にご招待しましょう。私の存在を刻み込まなくてはなりません」
「……」
「安心してください、間違いなく実力がレベルアップすることをお約束します」
絶望した顔のマルコからアンジェリーナはそっと視線をそらした。ごめんなさい、私には応援することしかできない。そらした視線の先には何とも言えない微妙な表情を浮かべたジルベルト隊長がいた。アンジェリーナはフェレス副隊長に聞こえない音量でそそっと囁く。
「……特訓って、訓練のことですよね?」
先ほどからどうにも私の認識している訓練とは違う気がしてならない。
「特別メニューというやつだ。我が隊の名物だよ」
「なんかこう、副隊長の言葉遣いや口調は普通なのにそこはかとなく命がけの香りがするのですが?」
「まあそうだな、死んだ奴はいない。だが経験者によると死んだほうがマシらしい」
アンジェリーナの脳裏に鬼畜という文字が浮かんだ。顔色を悪くしたアンジェリーナにフェレス副隊長はにっこりと笑った。アンジェリーナの第六感が警鐘を鳴らしている。うん、彼には逆らわないほうがよさそうだ。
「もうすぐリゾルド=ロバルディア王国ですよ。ここまでよくがんばりましたね」
「はい、連れてきてくださってありがとうございます!」
見上げれば、たしかに空の色が違う。淀んだような青は、いつのまにか抜けるような澄んだ水色に変わっていた。
――――拝啓、天国のおばあさま。
アンジュは今、おばあさまが見たものと同じ空を見上げています。
なぜか国を出てからのほうが聖女と呼ばれます、不思議ですよねー。
ですがこれからは目立たず慎ましく暮らします。一生懸命に働けばきっと楽勝です。
これからはもう魔女と呼ばれることもない。
セントレア王国を捨ててよかったと、アンジェリーナは心からそう思った。
「……ああしていると普通の娘なんだよな」
険しい山並みに澄んだ青い空が広がるという絶景が見てみたい。そう夢見るように語ったアンジェリーナの背中をジルベルトはじっと見つめている。さりげなく隣にフェレスが並んだ。
「何かわかりましたか?」
「いいや、まったく読めない」
「魔法を読む能力に長けたあなたに読めない者がいるのでしょうか。もしかすると全く魔法の使えない一般人かもしれませんよ?」
「だが秘めた魔法の気配を感じる。あれが勘違いでないのなら絶対に何かが使えるはずだ」
強力な魔法師と魔法剣士が多く生まれるこの国で魔法を読む力は重要だ。特にジルベルトは、相手がどんな魔法を使うかを認知する能力では国内随一と評価されている。
まったく魔力のない人間か、もしくは魔力の一筋もこぼすことなく完璧に質と量を制御しているか。もしくは全く想定していない第三の理由があるか。とにかくアンジェリーナは何かを隠している。
「その隠しているものが何か、国に着くまでの間にできるだけ洗い出したかったのだが」
「あえて手元に置くことで深く探ろうと思ったのですが難しいものですね」
普通なら隊に民を同行させることはしない。だが彼女を監視するため、ジルベルトが特別に許可したのだ。
「一ヶ月間、同じテントで狭い思いをさせられてきたのですが……私の努力も無駄になってしまいましたね」
「さすがに彼女と同じテントで寝るというわけにはいかないだろう。それに……」
「それに?」
「おそらくだが、生まれつき与えられた素質が桁違いなのかもしれない。たとえば神に選ばれた人間のような」
セントレア王国は神に選ばれた女性を聖女と呼ぶという。聖女の力は千差万別、個性にあふれていると聞くが。あれでも彼女は聖女ではないらしい。
「聖女でないのなら、何者なのでしょうか?」
「さあ。ただセントレア王国の出国証明書も持っているし、旅の途中も我々をよく助けてくれた。悪事を働くような人間ではないことは確実だ」
「ええ、はじめてのことばかりで不慣れなこともあったでしょうに後方で我々をよく支援してくれました」
特に食事面……特製スープと、傷の手当ての正確さには助けられた。料理と怪我人の扱いには慣れているようだ。結果が我々にとって悪いものでないだけに魔法が読めないという理由だけで切り捨てることもできない。
「目を離さないようにするしかないな」
「魔法の種類が判明するまで、目の届く範囲においておくのがいいかもしれませんね」
「頼んでいいか?」
「了解しました」
出会ったときからずっと手放してはならないような気がしていた。実態はわからなくても彼女の魔法は我が国にとって悪いものではない。むしろ我々を助けてくれるものだと、国を守る立場にあるジルベルトはそう読んだ。
だからこそ、彼女の力が何か知りたい。
艶やかな黒い髪をしたフィラニウムのような少女。たくましく図太いようで、でも折れそうになるときもある。気がつけば、ずっと彼女を目で追っていた。ちょっとどころか、ずいぶんと深みにはまっている。その意識があるだけに余計気になって仕方がない。そして振り回されているのに嫌だと思わない時点で相当だ。
ジルベルトはほんの少しだけ顔を赤らめた。自分の感情が制御できないなんて、はじめてだ。これは一過性のものか、それとも。
「もう少し探ってみるか」