第十一話 口で言うほど簡単には、あきらめがつかなかったということです
ひさびさに本気でジルベルト様に叱られているような気がする。
「ええと手に触れて、そこから魔法をかけますが」
「……それくらいなら、まあいい。許す」
よかった、許されましたか!
ラシムール公爵子息に軽く触れて魔法をかけた。毒無効に、反射。命を奪った相手を確実に狙うという竜の呪いとは違うから弾けば自然に消滅するでしょう。
「では、行ってきます」
念のため持ってきていたという呼吸を補助する魔道具を身につけて、ラシムール公爵子息は海に飛び込んだ。やがて空気の泡が小さくなって泳ぐ姿が見えなくなる。
波の音しか聞こえなくなったところで、ジルベルト様が深々と息を吐いた。
「頬に触れたら、ラシムール公爵子息を斬ってしまうところだった」
「物騒な、どうしてそんな発想に……」
明らかに面白くなさそうな顔をしたジルベルト様の横顔で思い出した。
ああ、ジルベルト様の頬に口づけたときのことか。
冷静になってみると、あのときは兵士の前で大胆な真似をしてしまったなー。ジルベルト様の立場もあっただろうし、勝手したという負目もある。この際だ、ちゃんと説明して謝っておこう。
頬をうっすら赤く染めたアンジェリーナは明後日の方向を向きつつ口を開いた。
「今だから白状しますがあれは相手がジルだったからなんです。驚かせて、ごめんなさい」
本当は手とか肩とか、肌に直接触れることができればどこでもいい。
ジルベルト様が目を丸くしたのを見て、アンジェリーナは気まずそうな顔で視線をそらした。
「あのときは、あなたを失うと思っていたから。魔除けの聖女は嫌われていたでしょう?」
期待するから苦しくなる。嫌われ者とわかっているから失う覚悟はできているはずだった、それなのに。
「初めてほしいと思った人があなただったのです。手を伸ばせば触れる距離にいて、しかもどんどん好きになっていて。それなのに何もできずにただあきらめることが、やりきれなくなってしまった。愚かにも、あなたがくれる優しさに目が眩んでしまったのかもしれません」
寄せては返す波にゆらゆらと揺らされながらアンジェリーナは膝を抱える。
見上げた空の呆れるほどの青さに、あのときの苦い気持ちがよみがえって胸が痛んだ。
「口で言うほど簡単には、あきらめがつかなかったということです」
なんでこんなに澄み切ってきれいなのだろう。私の心は掻き乱されてぐちゃぐちゃだというのに。
一点の迷いもない背中をずるいと、そう思ったから。
「私がいなくてもあなたは幸せになれる。そう思ったらほんの少しだけ悔しくなってしまったの」
だから最後にひとつだけ、嘘をついて。
「あなたはいつか私を忘れる。でも忘れるその前に、きっと私を思い出すでしょう。ずるくて嘘つきで、おかしな娘がいたことをそのときだけは思い出してくれるはずだから」
そしてあなたは私を忘れてしまう。それでいい、だから最後くらいは思うままに振る舞ってみたかった。
ジルベルトを見上げたアンジェリーナは自分の唇に人差し指を添える。
「このことはフェレス隊長や特務部隊の皆さんには秘密にしてくださいね、恥ずかしいから」
どこか切なさの滲む顔で、淡く笑った。
ジルベルトは真っ赤に染まった目元を手で隠して、熱を逃すように深々と息を吐いた。
とんでもない破壊力。無自覚なのか、これ。
無防備なところで強烈な一撃を受け止めたジルベルトは思わず呻いた。
「それだけのことをしておいて逃げる気だったとは恐ろしいな」
「本当にごめんなさい。他のことはともかく、ジルのことだけはどうしても割り切れなかったの」
嘘つきなアンジェリーナ、でもこれは嘘じゃない。
ジルベルトは頭を抱えた。あんな翻弄するようなことをしておいて、自分勝手が過ぎるだろう。
「いくらなんでもずるくないか」
こんなに求められてうれしくないわけがないじゃないか。
逃がさないとばかり両手を掴まれてしまえば、今度はアンジェリーナが追い込まれる。
「待っていてと言ったはずだ。それを忘れろなんて、そっちのほうが残酷だ」
「だからごめんなさい、って」
「ならばもう逃げないで、ずっと私のそばにいると誓うか?」
アンジェリーナはぐっと言葉につまった。
もちろんそのつもりだ、でもそれを本人の前で言葉にするのは恥ずかしい。
思わず逃げ腰になるけれど背後は海で。なのにジルベルト様の研ぎ澄まされた剣のような瞳はアンジェリーナを強く捕らえて離してくれない。
ああもう、こういうときは容赦ないのだから!
言葉を探して、視線をさまよわせて。結局アンジェリーナは思いつく言葉を返した。
「望むところです!」
「……どうしていつもひねくれた返事が返ってくるのだろうな」
ふっと、ジルベルト様は呆れたような顔で笑った。
「素直に愛していると言ってくれたらいいのに」
からかうような口調で、でも心底幸せそうな表情をして。
言い返したくてもそんな顔をされたらアンジェリーナは何も言えなくなってしまう。
軽く手を引かれると、視界をジルベルト様の灰色の髪が横切った。距離が近い、そう思う間もなく吐息が頬にかかる。ほんのわずかに瞳を伏せると吸い寄せられるように唇が触れ合う……そのときだった。
目の前で盛大な水音がして、水面が大きく盛り上がる。ハッとして視線を向けるといきなり茶色と黒と緑の何かが絡みついた物体が飛び出してきて船縁を掴んだ。
「失敗しました、この辺りは海藻の繁殖地点が」
「ギャー、妖怪!」
「違いますよ! 私です、ジャミルです」
勢いよく船に上がってきた物体が体に絡みついたものを引き剥がす。すると、そこにいたのはたしかにラシムール公爵子息だった。茶色と黒と緑の正体は海藻。ジルベルト様も間合いをとるために飛び退って剣に手をかけた姿勢のまま呆然としている。
ええ、二人して完全に気を抜いてましたよ!
「何が妖怪ですか、ヒイロタナモガエルのような悲鳴まで上げて。あなたは魔除けの聖女でしょう?」
「魔除けだろうが聖女だろうが、いきなりくるものはこわいのです!」
そもそもラシムール公爵子息がとんでもない姿で海から上がってきたのが原因ではないですか!
ラシムール公爵子息は荒くなった呼吸を整えながら船の中心に座り込んだ。海水の流れは緩やかでも、それなりに深さがあるから体力を削られたらしい。
彼を挟んでジルベルト様と視線が合うとなんでか急に恥ずかしくなって、アンジェリーナは視線をそらした。ラシムール公爵子息は二人を見比べて深いため息をつく。
「なぜそんな端と端に座っているのですか。体重差があるのだから船のバランスを考えて座らないと。ほら、もっと真ん中に寄り添って」
「寄り添ってませんよ!」
「だからそう言っているでしょう。何、アホなことを言っているのですか」
なんでこんなに口が悪いのですかね!
文句を言いながらアンジェリーナは鞄から布を取り出してラシムール公爵子息に渡した。お礼を言って受け取った彼は髪と体についた水を拭っていく。髪や肌から水滴が滴り落ち、端正な顔立ちも相まって色気がダダ漏れていますが、そんなことはどうでもいい。
「どうですか、ご自身の目で見た感想は?」
「あれを見つけてくれてくれたことに感謝します。この目で見てきたどんなものよりも、恐ろしくて禍々しい。まるでこの世のすべてを飲み込もうとする貪欲な渦潮だ」
現に赤黒い魔力だまり中心部では渦が巻いていたそうだ。
しかも渦の中心からは不気味な魔物の体の一部が見え隠れしていたらしい。
「おそらくですが、ようやく本来の力を取り戻しつつあるのでしょう。魔力だまりとしての役割を果たすために、これからどんどん強さが増していきます」
「殿下にもお伝えして周知しなければ。今後のことも考えて、管理のことも」
「どこまでお役に立つかわかりませんが、リゾルド=ロバルディア王国ではどのように魔力だまりの管理を行ってきたかご説明しましょう」
「ありがとうございます」
やけに素直なのは、それだけ衝撃的だったからだろうか。
アンジェリーナは思案するように瞳を伏せる。
海の底にあるという魔力だまり。アンジェリーナも気配は感じることができるけれど実物を見たことはない。この深い海の底には、もっとたくさんの知らないものや世界が広がっていそうだ。
「ああそうだ、私も一つだけ仕事が残っていました」
アンジェリーナも魔力だまりに用がある。
船縁から少しだけ身を乗り出すと手を伸ばして水面を指先で弾いた。弾いたところを起点としてきれいな波紋ができ、水面を伝うように円を描いて広がっていく。その波紋の中心にアンジェリーナは顔を寄せた。魔力だまりに直接響くよう、言葉に魔除けの力を乗せる。
「聞こえるね、魔の巣窟の主」
船縁から海の奥をのぞき込んだ体勢のまま、アンジェリーナは絶えず円を描く波紋の中心に言葉を響かせる。
「どうしたの、主と呼ばれる存在がずいぶんと不甲斐ないじゃないか。せっかく新たな魔力だまりを生み出したのに魔力と魔物をシーサーペントに奪われて。打つ手がなくて、ずいぶんと困っていたみたいだ」
――――海の底から、魔除けの聖女を呼び寄せてしまうくらいに。
「魔力だまりは魔物を生み出すことしかできない。おそらくシーサーペントに抵抗できるような魔物を生み出しても群れに襲われて食い尽くされてしまったのだろう。他に選択肢がなくなったから私を呼んだ、魔物を狩るのは私の領分だもの」
だったら仕事をしろって? もちろんあなたの後始末はちゃんとした、だからね。
微笑みを浮かべるアンジェリーナの口元がニイと歪んだ。
「これは貸しだ。私の取り立ては厳しいから覚悟しておいて」
するとそれまで静かだった水面にふつふつと小さな泡が浮かんだ。海中から噴き出す泡は徐々に大きくなって、水面がゆっくりと膨れ上がる。そして膨れ上がった海面から、いつかのように牙を持った魚が飛び出してアンジェリーナに襲いかかった。
「アンジェリーナ!」
「あはは、相変わらず元気ですねー」
水の罠、とっさに腕を伸ばしたジルベルト様に守られながらアンジェリーナは一気に魔物を跳ね飛ばす。
その謀ったようなタイミングの良さにジルベルトは思わず叫んだ。
「わざと煽っただろう! ああもうどうして何も言わずにやらかすのか、この娘は!」
「煽ってませんよ、からかっただけで不可抗力です!」
どうして話が噛み合わないのだろうな。
ジルベルトは痛む胃の辺りを押さえた。ラシムール公爵子息が呆れた顔をする。
「これは、たしかに規格外ですね」
アンジェリーナは満面に笑みを浮かべた。
ご希望に添えたかわかりませんが、やれることはやったし大満足です!
「お待たせしました、これで後始末は終わりですよ!」
「それでは戻りましょうか」
「あっ!」
のんびりとしたファハド先生の声が響いて、船が陸に向かって動き出した。思わず声を上げたアンジェリーナはジルベルト様と顔を見合わせる。一瞬にして状況を理解した彼は視線を泳がせた。
この瞬間まで、船の上には先生がいることをきれいさっぱり忘れてましたよ!
アンジェリーナはファハド先生にそっと近づいて、小声で話しかける。
「ええと、さっきの話って聞いてました?」
「もちろん。相思相愛ですな、若さとは素晴らしい!」
先生は笑いながら舵を切る。
はい、どうやら聞こえていたことは確定しました。
「ど、どこからどこまで聞こえていたでしょうか」
「情熱的なアンジェリーナ嬢の告白にジルベルト様は照れて無粋なことを申しておりましたが、私には大変潔い誓いの言葉だと思いましたよ。そうだ、ご希望があればお二人の婚姻誓約書の立会人欄に署名しましょう」
からかうような口調でファハド先生はそう答えた。
ええ、これで最初から最後まで聞かれていたことが確定です。
アンジェリーナは真っ赤になった顔を隠すように下を向いた。
次回、先生に会ったときはどんな顔をすればいいのかしらね。
陽が少しずつ落ちていく中を、船は軽やかに波を引いて船着場を目指す。
そうよ、どんな顔といえば……。
海を眺めているふりをして、ラシムール公爵子息と何やら話し込むジルベルト様の横顔を見つめた。
いまさらなのよ、でも深く意識してしまうとね。
どうしよう、まともに顔を合わせる余裕がないかも。
本編のとあるシーンの裏話になるでしょうか。唐突なアンジェリーナの行動に驚いた方もいると思いますが、機会があればこんな場面でアンジェリーナの気持ちを書いてみたいとも思っていました。
賛否ありそうだと、書くかどうかをさんざん悩んだところではありましたが、せっかくなので書いておきます。
ちなみにファハド先生はアンジェリーナとジルベルトのやり取りを最後まで聞きたいため、魔物観察の経験を活かして静かーに気配を消していました。
お楽しみいただけるとうれしいです。




