第十話 私にだけ見えるものがあるのです
「大きな船ですねー!」
「航路や役割によって使う船の種類を変えるのですよ。帝国の艦隊にはもっと大きな船もありますよ」
「そうなのですか、機会があれば是非見てみたいですね!」
ファハド先生に連れてきてもらったのは前回の港よりももう少し規模の大きなところ。前回は視察だったので小さな船でしたが、今回は荷物があるため頑丈で一回り大きな船に乗せてもらうことになっているのです。
そして目の前には見慣れた人がもう一人。
「それで、ラシムール公爵子息がなぜここに?」
もはや定番となりつつあるやり取りなので、なんの抵抗もなくポンと口から出たのですが。
「アンジェリーナ嬢はどうしても私のことを邪魔者扱いしたいのですね」
「いや、そういうわけでは」
え、平常運転の無表情はどこに置いてきたのですか。いきなり落ち込んだ顔をしないでくださいよ!
うろたえたアンジェリーナの横で、眉間に皺を寄せたジルベルト様が深々と息を吐きながらつぶやいた。
「これだから面倒なんだ、ああいう属性の人間は。無自覚なのか、本当は作為があるのか分かりにくくて」
「何がです?」
「……何でもない」
アンジェリーナの手を掴んでジルベルト様は船へと歩き出した。横から流れてくる空気が冷たい。微妙な空気をものともせず、ラシムール公爵子息はアンジェリーナの背後に歩み寄った。
「なぜって、あんな話を聞いたら誰だって興味を引かれるでしょう?」
「まあそうかもしれませんね。実際にどう作業するか詳細は語りませんでしたし」
振り向くことなくアンジェリーナはそう答えた。
シーサーペントを狩った日から数日後のこと、皇太子殿下とラシムール公爵子息との面会が改めて公館で行われた。ジルベルト様に相談したうえで事前に作業の許可をもらおうと思っていたため、こういう場を設けてもらえたのは助かる。
「それで後始末をする理由は。一体、何をするつもりなのです?」
開口一番にラシムール公爵子息はこう聞いてきた。
きっと気になっていたのでしょうねー。
アンジェリーナは香りの良い茶を一口飲んで、静かに口を開いた。
「最初に申し上げたとおりです。シーサーペントを狩ったら終わりではありません」
真実を見極めようとする緑青の瞳が瞬いた。
「どういうことでしょう?」
「絶妙に保たれた自然界のバランスが崩れたこと。それから伝説の生き物であったはずのシーサーペントがここ十年くらいで急に姿を見かけるようになったこと。無関係のように見えて、実は繋がっていると申し上げたら何が原因と思われますか。見えていないだけで普段と違う動きには理由があるのだとすれば、どんな理由を想像されます?」
円卓を囲む三人は沈黙する。
アンジェリーナ自身も実際に現地を見るまでわからなかった、その理由とは何か。
「手掛かりは、ここ十年くらいでというところですわね。特にジルベルト様なら、十年前に何が起きたか、お心当たりはありませんか?」
するとジルベルト様はハッと顔を上げた。
「魔獣の大移動だ」
「大当たりです。今から十年前、リゾルド=ロバルディア王国で魔獣の大移動が起きた。魔力だまりは水脈のように繋がっているとされます。一ヶ所が活性化することで、引きずられるように他の魔力だまりも活性化することがあるのをご存知ですか?」
たとえば魔の巣窟のように、セントレア王国の魔力だまりのように。
離れた場所にありながら互いに影響を与え合う。
「魔獣の大移動とは魔のつくものが優勢となる時期。旺盛な魔の力は、ときに人の想像を超えた動きをすることがあるのです。先代の魔除けの聖女は魔の巣窟は活発であると評しました。活発な時期は魔のつくものにとって勢力を拡大できる絶好の機会でもあります」
アンジェリーナは蠱惑的な微笑みを浮かべた。
「私には見えないものが皆様の目には見えることがある。それと同様に、私にだけ見えるものがあるのです」
「それは、一体」
「十年前、新たな魔力だまりが誕生しました――――セザイア帝国の海の底で」
アンジェリーナは地図を開き、印をつける。場所はシーサーペントの目撃情報があったところのすぐ近く。唯一、この付近で海流がゆるやかになっているところだとファハド先生が教えてくれた場所だ。そして強力な魔物が多く棲息するから漁師が避けるところと聞いている。
指した先を見て、彼らが顔色を悪くしたのはあり得るとでも思ったからだろうか。
「魔力だまりの名の示すとおり、海流がゆるやかで魔力がたまりやすいところ。最低限の条件が満たせなけば新たに生まれることはないのでしょう。海には潮の流れがあって、常に循環しているらしいですね。それが海中に魔力だまりが少ないとされる理由なのかもしれません」
「少ない……ではこのほかにも魔力だまりはあると」
「海で暮らす種が空から生まれることはない。ならば魔物も海で生まれるの一択でしょうね」
地上の魔力だまりに近い場所で育った魚が魔のつくものに変異したという事例もあるようだが、それは稀な話。魔力だまりから生まれた魔物が繁殖して数を増やしたと考えるほうが無理がない。
「それで新たな魔力だまりができたとして、それがどう今回の件に繋がるのです?」
「十年前に起きた魔獣の大移動。もし陸の上と同じような現象が海の中でも起きていたらどうでしょう。上質な魔力を求めて、この魔力だまりにさまざまな魔物が殺到したら?」
アンジェリーナの紫水晶色をした瞳が強い光を宿した。
魔獣の大移動はリゾルド=ロバルディア王国国土の一部を通過して、他国の魔力だまりを目指すもの。より良い魔力を求めて、長い距離を移動する魔獣や魔物もいるというから見当違いということはないだろう。
「海中に魔力だまりの数が少ないということは、その可能性がより高まるということです。そのうえでさらに四年前や二年前に起きた魔獣の大移動によって魔物の数が爆発的に増えたとすればどうでしょうね?」
最終的には魔物同士が魔力だまりを奪い合う壮絶な縄張り争いが起きた。
「そして縄張り争いの結果、人の手によって淘汰されることなく一番強い魔物が生き残った。それが番を得て、次々と繁殖したとすればどうなるでしょう?」
「ではもしかしてシーサーペントが⁉︎」
「強敵を押し除けて、なぜシーサーペントが勝者となれたのか。それを調べるのは専門家の領分ですからひとまず置いておいて。魔力だまりは餌場として申し分ないでしょうね。常時供給される質の良い魔力、寄ってくる魔物や海の生物も食べ放題です。餌が豊富だから仲間内で争うこともなく、効率よく強敵を倒すために力を合わせるようになったのかもしれません」
そしてより強く、大きく成長した。あそこまで育っては人の力だけで駆逐するのは難しい。
「魔獣の大移動において、リゾルド=ロバルディア王国の対応は実のところ最善なのかもしれません。魔の巣窟から湧く強い個体を間引き、力を分散させることで最終的には人間が勝者になれる」
たとえたくさんの兵士が散り、大量の血は流れたとしても。あのやり方なら脆弱な人間が勝者になれる。
そうやって彼らは人間に勝利を捧げてきたのだ。
痛みを耐えるように、ジルベルト様は瞳を伏せる。アンジェリーナはそっと彼の手を握った。
そうよ、あなた達の犠牲にしてきたものを私だって間違いだとは言わせないわ。
「話はわかった。だがすべてをこの場で判断することは難しい」
そう答えた皇太子殿下の言葉の持つ意味をアンジェリーナもよく理解ができる。
セザイア帝国にとって海はゆりかごのような場所だった。生命を育み、国を潤す厳しくも優しい母のようなもの。その海が魔力だまりという毒を孕み、牙を剥いた。
困惑、混乱。兵士達は海中での魔物狩りには慣れているそうだが、魔力だまりを管理する知識や経験は持たない。今は何から手をつけたらいいか、とまどっているのだろう。
「さて、そこでひとつ提案です。ひとまず時間稼ぎをしませんか?」
「時間稼ぎですか?」
「はい。魔力だまりは神のつく方々の領域、魔除けの力だろうと消すことはできません。ですが当面の間、湧きにくくすることはできます。その間に水中にある魔力だまりを管理する仕組みを考える。焦って考えても良い案は浮かばないものですよ。漁師や専門家といった国民に意見を求めて、他国の意向も聞いて。それから方針を決めても問題ないはずです。ですから少しばかりですが、お手伝いをいたします」
「魔除けの結界か」
「ええ。三ヶ月間、常設型の魔除けの結界を張りましょう。そこから先、管理するのは皆様の仕事です」
三ヶ月と切ったのはセントレア王国のようにアンジェリーナに任せきりとなるのを防ぐため。そこは理解してもらえたようで、顔色は冴えないけれど皇太子殿下とラシムール公爵子息はうなずいた。
よし、了承したね。早速仕事をしましょうか!
「それでは魔除けの結界を張る媒体になるものを用意してくださいな」
「どういったものが望ましい?」
「こういうものがあると聞いたのですが、用意できますか?」
アンジェリーナはファハド先生に借りてきた冊子を机の上に広げて、そのうちいくつかを示す。
できるよねー、だってなんでも手に入る特級商人なんだから!
大きさや重さを相談して、ラシムール公爵子息が準備してくれたのを船に積み込んで。
そして本日、船をファハド先生に操縦してもらって作業する場所にたどり着いたところです。
「このあたりが最適でしょう。深い裂け目もなく、海流もゆるやかです。魔力だまりにも近接しています」
「了解ですー、では媒体を沈めてください!」
ジルベルト様とラシムール公爵子息とファハド先生、三人がかりで媒体を海面に落とすとドボンという音がして派手に水飛沫が上がる。船縁を鎖が擦れていく音がして、最後に円形の浮きだけが手元に残った。その浮きを海面に落として、ひとまず作業は終了です!
「碇に紫水晶を仕込んで沈める。そして鎖で繋がった先にある浮きから魔除けの力を流すことで水中に魔除けの結界を張る。やり方はこれでいいのですよね」
「はい、そのとおりです。最初はもっと簡易な媒体でもいいかとは思ったのですが、ファハド先生に相談したら海水の影響もあるので頑丈なものがいいとのことでこれにしました」
するとラシムール公爵子息が、珍しく口元を和らげた。
「ファハド先生に相談されたのですか」
「はい、あのときは相談してみてはと提案していただいて助かりました。ありがとうございます」
かけてもらった言葉が、吹っ切れるきっかけとなったような気がする。
こぼれ落ちたような微笑みにジャミルは視線を泳がせた。
……ときどき変に素直なところがあって、調子が狂う。
アンジェリーナは浮きに手を伸ばした。この浮きは魔物から採取した張りのある袋状の素材に空気を入れたもの。しなやかで丈夫だと漁で重宝されているそうだ。浮きに流した魔除けの力は鎖を伝い、紫水晶を媒体としてゆっくりと海に溶けていく。程よく周囲に魔除けの力が溶け込んだところでアンジェリーナは力を切った。
「これでしばらくは大丈夫でしょう。足りなくなったところで補充します」
「アンジェリーナ嬢、ここからほど近いところに魔力だまりがあるのですよね?」
「そうですね、すぐ側にあるというわけではありませんが、目視できる距離にはあるはずですよ」
ここからだとあの方角ですと、アンジェリーナは指で示した。水面に近い場所でラシムール公爵子息は海の奥をのぞき込む。そして言葉に導かれるようにして鎖の先を視線で追った。
「ラシムール公爵子息、どうしました?」
「できればこの目で魔力だまりがみてみたいのですが、できますか?」
「なぜです、私の言葉が信用できないと?」
「いいえ。この目で実物を知っておきたいのです。信用を担保するためではなく、本物を見極めたい」
ラシムール公爵子息の真剣な声にアンジェリーナは目を丸くした。
そうかー、そういう考え方もあるのか。悪い方向にばかり考えるのは良くないわね。
「ええと、ちなみにですが泳げるのですか?」
「かなり失礼ですね、セザイア帝国の人間は身分に関係なく泳げます。海とともに生きるためには、そういう訓練は必須です」
「はは、すみません。ちょっと印象が違ったので」
屈強な海の男というよりは、どちらかというと細身でしなやかだから。バサリと上着を脱いで軽装になると体の線が見える。特務部隊の兵士よりは華奢だけれど、しっかり鍛えられているのがわかった。
服を脱いだということは本気で泳いで見に行く気なんだな。
アンジェリーナは鞄から取り出した覚書をめくった。
「数百年以上前のことですが地上で新たな魔力だまりが生まれたことがあるそうです。若い魔力だまりはとても不安定で、稀に不完全な魔獣や魔物を生み出したり、微弱ですが毒や呪いを撒き散らすこともあったとか」
ただ少なくとも出来上がって十年は経っている。そこまで不安定だとは思わないけれどね。
「念のため、呪いや幻覚など精神に影響するものから保護する魔法をかけましょう。ちょっと手を貸していただけますか。魂に影響する魔法は体に直接かけたほうが効果が高いので……」
「アンジェリーナ、何をする気だ?」
珍しく険しい表情をしたジルベルト様がアンジェリーナの手を強く握った。
声が一段低い。しかも背後に黒い何かが見えるような……あれ、もしかして怒ってる?




