第二話 大切に思うものは人それぞれなのです
吹き抜ける風が心地よい。船の立てる波が岩に砕けて、花びらのように散った。
「楽しいですねー!」
シーサーペントを観察するために船に乗ったアンジェリーナは船縁から海をのぞき込んだ。船体に叩きつける波の勢いが力強い。この暗く底が見えない水たまりの内側に、数えきれないほどたくさんの命を孕んでいるのか。
海は不思議だ。
「あんまり身を乗り出すと落ちるぞ」
「はい、すみません!」
腰に腕を回して支えるジルベルト様もなんだか楽しそうだ。いつもより表情も柔らかいし、心持ち体温が高い。
「そろそろ目撃された地点に到達しますよ」
皇太子殿下に紹介してもらったファハド先生は中年の男性で、今は国から依頼を受けて最寄りの観測所で生息数の調査をしているとか。彼は手慣れた様子で船を動かし、ある程度近づいたところで錨を下ろした。
「通常、シーサーペントのような大型で力の強い種は単体で行動するため群れることはありません。ですが今はその生態も崩れているように感じます。凶暴化していますし、集団に襲われないよう充分に距離をとるといった注意が必要です」
「それでも襲われたらどうするのです?」
「逃げる一択ですな。相手があきらめるまでとにかく距離を取る」
そこは陸上に暮らす魔獣と同じか。アンジェリーナはもう一度、水の底をのぞき込んだ。探るように、魔物の気配をたどっていく。魔物と、そうでないもの。力強い生命の息吹を避けて、さらに奥へ、奥へと。
「……見つけた」
「何を?」
答える前に数十メートル先の水面が大きく揺れ動いた。充分距離をとったはずなのに、船体がぐらりと揺れる。
「船縁につかまって!」
「えっ!
「シーサーペントです!」
警戒するような先生の声がして、水面から跳ねるように巨体が飛び出した。
あらやだ、大歓迎じゃない。アンジェリーナは目を丸くする。
「大きい、それにこんな近くまで!」
「アンジュ!」
「大丈夫です!」
アンジェリーナは手を突き出した。その手の先に大きな水球ができる。閉じた水の罠。そのまま罠を引き寄せて、水の中でふよふよと蠢くシーサーペントをじっくりと観察した。
「す、すごいな。あなたはこんなことができるのか!」
「よろこんでもらえてよかったです!」
体長は十メートル以上。海に紛れるような灰青の体に、黒と白茶、灰色混じりの複雑なまだら模様。背中と尾のヒレが大きく発達している。それにすごい歯だ、アレに噛まれたらそれだけで致命傷となるだろう。そして血のように赤い目は魔性に狂わされている証。
「まさかこんな間近で見ることができるとは……それにしても大きいですね。記録に残るよりも格段に大きい」
「そうなのですか?」
「ええ、何が原因かわかりませんが……場合によってはもっと大きな個体が棲息していると覚悟しておいたほうがよさそうですね。シーサーペントは雑食で、生き物なら見境なくなんでも食べてしまうと言われています。それがより巨体化に拍車をかけているのでしょう」
緊張を孕んだ先生の声だけでこの状況が異常だと伝わってくる。
「そもそもシーサーペントの生きた姿を見ること自体が奇跡なのです。少し前までは絶滅したとか、伝説の生物とされたくらいですから。体の特徴だって伝聞や伝承の類から、それとわかるだけだったのですよ。それがここ十年くらいで急に姿を見かけるようになった。そのことも不思議でなりません」
言い伝えでは気性が荒いとされ、単体で商用船を襲うこともあったとか。ならばこの三倍くらいの大きさがある個体もいるかもしれないな。アンジェリーナはじっくりと観察して、生かしたまま巨体を遠いところに跳ね飛ばした。すると隣にいた先生が驚いたような声をあげる。
「えっ!」
「どうしました?」
「ああ、いえすみません……てっきりこの場でシーサーペントを始末するとばかり」
ああそういうこと。アンジェリーナはファハド先生と視線を合わせて微笑んだ。
「始末しませんよ、ここではね」
「どうしてですか、それを依頼されたのでしょう?」
「そうですね、ですがこの場で命を奪うことはしません。だから……そんな悲しそうな顔をしないでください」
アンジェリーナの言葉に先生はハッとして、苦笑いを浮かべた。
「いけませんね、つい」
「魔物だって海の生き物ですもの。専門家である先生が研究対象として大切に思うことくらいわかります」
見守ってきた命を目の前で刈り取られるのはつらいだろう。たとえそれが魔物であってもだ。
「わかっているのです、これは偽善だということは。魔物に襲われたことがないから、そう思う。実際、あなたやジルベルト様のように魔物と命がけで戦ってきた人はそんな感情とは無縁のはず」
「まあそうですねー、時と場合と相手によってはそこまで気が回りませんから!」
ははっと軽く笑い飛ばして、アンジェリーナはシーサーペントの消えた先を見つめる。
「でも場を選ぶことができるのなら、私はそうします」
ほんのわずかな時間、魔物に自由を与えただけ。それで人の心が守られるのなら私はそうする。
陽光に紫水晶のような瞳が煌めいた。先ほどまでと打って変わって、船上に静かな時間が流れる。
「ファハド先生。突然ですが、魔除けの聖女が生まれる理由はなんだと思います?」
「見当もつきませんが……」
「それは我々に魔のつくものを管理させるためです」
魔除けの聖女は害を及ぼそうとする魔のつくものから人を守護する。そしてもうひとつ、隠された裏の力があった。そう、まるで魔とつくものを従えるかのような魔寄せの力だ。
魔寄せは人にとって忌むべき力、でもそれは人間の立場から見た場合だ。
船の上でゆらゆら揺れながらアンジェリーナは陽射しに目を細める。
「もし神がこの世界から魔とつくものを排除したいのなら、そもそも魔を生み出さなければいいのです」
人間ごときに対魔特化なんていう異質な力をわざわざ与えるまでもない。
「それは、たしかに」
「魔力だまりに、魔獣の大移動。それもまた、この世界を構成する要素のひとつ。だから絶えることなく魔のつくものが生み出される。自然のものであればなんらかの理由で均衡が崩れて、増えすぎることもあるでしょう」
だから管理する人間が必要となる。アンジェリーナは視線を向けた。
「先生は偽善とおっしゃっていましたが、大切に思うものは人それぞれ。思うだけで誰も傷つけるものでないのなら、価値観の相違というだけのこと。それに人と違う視点から物事を見ているほうが真実に近いということもありますからね。その場に相応しくないというだけで間違いだとするのは、かえって正解から遠ざかる原因にもなります」
最善と思われた手が、未来では評価が変わるということもあるのだから。
「いいではありませんか。先生のように魔物を大切にできるということは上手に管理ができているという証です。それにこれから先の未来で、魔物と同じ目線から物事を検証する人物が必要になるかもしれませんよ」
未来は誰にもわからない、アンジェリーナは薄く笑って口角をあげる。
「その先生の目に、魔除けの聖女はどう映るのでしょう」
無能か、有能か。役立たずか、役に立つ人なのか。
実態はそんな単純なものではなかった。ファハドの目に映るアンジェリーナの姿は、聖女と呼ばれながら、まるで自分を魅了してやまない魔物のような……。
すると隣にいたジルベルト様の背が、ファハドの視界をさえぎった。
「アンジェリーナ、見るべきものは見たな。もうすぐ陽が落ちる。魔物が活性化する前に帰ろう」
「あ、はい。ファハド先生、ありがとうございます。大変勉強になりました!」
次の瞬間、顔を上げたときにはあどけない少女のような顔で。先ほどまでの大人びた謎めいた雰囲気は霧散して、今は邪気のない気安い雰囲気だ。ファハドは深々と息を吐いた。とにかく、一旦落ち着こう。
「では船を戻しますね。他に協力できることはありますか?」
「そうですね、ひとつ厚かましいお願いが!」
「……アンジェリーナ、厚かましいはまずいだろう」
「っと、つい癖で」
聖女か、それとも噂どおりの魔女か。どちらが本物の彼女なのだろう。
「船からではなく、陸の上からこの場所がよく見えるところをご存知ではありませんか?」
「観測拠点のことでいいのなら、いくつか候補はありますが」
「できれば人目につかないところで、近くに寝泊まりできる施設があるところが助かります」
「本当に厚かましいな!」
「ちゃんと自己申告したでしょう」
軽やかに笑い飛ばしたアンジェリーナは次の瞬間、瞳を輝かせながら水平線を指した。
「おー、夕陽です。きれいですね!」
紺地の水面に朱の線を引きながらオレンジ色に輝く太陽がゆっくりと落ちていく。どんな場所から見ても夕焼けというのはきれいだ。でも海の上から見た景色は格別。うっとりとした表情で夕陽を見つめるアンジェリーナを乗せて船は船着場に到着した。アンジェリーナはファハド先生の手を借りながら軽やかに船を降りる。
「とても助かりました、ありがとうございます!」
「いいえ、私も楽しかったですよ」
にこやかに笑ってファハドは彼女の背を見送った。どうやらアンジェリーナ嬢は噂どおりの人物ではなさそうだ。
「ファハド先生、本日はありがとうございました」
最後に降りたジルベルトにファハドは観測地点までの地図を渡す。
彼は受け取って礼を述べながら苦笑いを浮かべた。
「船を貸していただき、そのうえ厚かましいお願いまで。申し訳ありません」
「いえ、ご一緒できて楽しかったですよ。それにアンジェリーナ嬢の言葉には救われたところもあるのです」
大切に思うのは上手に管理できている証。
そう言ってもらえることが、これほどうれしいことだとは思わなかった。
「なんというか、不思議な方ですな」
「そうですね、危なっかしくて目が離せませんが」
でも心底愛おしいという顔で。微笑ましい、そう思ったらするりと言葉が出た。
「彼女の悪い噂を聞いていたのですが全然違いますね」
「そうでしょうね。贔屓目抜きで無能で役立たずの対極にいるような女性ですから」
「だとすれば余計に国を追われたのは残念だ」
罪なき咎人、今の私の目にはそう映る。得られるはずの地位も賞賛も奪われて、かわいそうに。
するとジルベルトは口角をあげた。
「さて、それはどうでしょうね」
ちょうどそのとき、アンジェリーナが手を振りながらジルベルトを呼んだ。
「ジルベルト様ー。帰りに煮込み料理食べるのでしょう、早くしないと売り切れますよー!」
ファハドは呆気に取られた。全然罪人という感じがしない、むしろすごく楽しそうだ。
「本当に彼女はかわいそうなのか。それはこれから彼女自身が証明するでしょう」
小さく笑いながらジルベルトは背を向ける。
そして宿への帰り道。夜の帳が下りた商店街に、ぼんやりとした光を放つ提灯が揺れていた。
吸い込まれるように立ち寄った屋台でアンジェリーナは盛大に迷っている。
「牛の煮込みにするか……、でも海鮮煮込みも捨てがたい」
なんて贅沢な悩みだ。でもここで逃したら次はいつ食べられるかわからないのですよ!
「どっちも食べればいいんじゃないか?」
「さすがに量が多くて二皿は無理です」
「ならば両方買って、二人で分ければいい」
ジルベルトの言葉にアンジェリーナは目を丸くした。
え、二人で分ける?
想像したら、じわじわと頬が赤くなった。
「どうしてそこで赤くなる」
「なんかそういうの、いいなぁって思いまして」
照れたように笑うと今度はジルベルトの目元が赤く染まった。なんでそこで赤くなる。ちょっとよくわからないけれど、とりあえず二人で一皿ずつ買って席に座った。アンジェリーナの周囲においしそうな煮込み料理の香りが漂う。ここには今、幸せしかありません!
だから完全に油断していました。
「ほらアンジュ、まだ熱いかもしれないから気をつけて」
今、目の前に差し出された匙には牛の煮込みが乗っている。そして湯気も立っていないから適温らしいというのもわかった。アンジェリーナは匙を凝視したまま固まった。
で、これをどうしろと。
「どうって、フェレスと練習しただろう?」
わかりやすくジルベルト様の口角があがっている。
ええ、そうかなとは一瞬思いましたが。やっぱり確信犯でしたよ!
ああ、周囲の視線が痛い。でしょうね、私だってそういうしょっぱい顔になるもの。この状況で牛の煮込みを食べるには勇気が必要だ。アンジェリーナは視線をさまよわせてから、覚悟を決めて口に入れた。
「どうだ?」
「味がしません」
恥ずかしすぎて。
「そうか、しっかり煮込まれているように見えるが?」
そしてジルベルト様はアンジェリーナの口元についた煮込みの汁を指先で拭って舐めた。
真っ赤な顔で、呆然と目を見開いて。アンジェリーナは匙を握りしめたまま完全に沈黙する。
「ちょうど良い塩加減だ。いい味付けじゃないか」
からかうような笑顔が直撃してアンジェリーナは心臓のあたりを押さえた。どうしよう、心拍数がおかしい。
――――申し訳ありません、おばあさま。アンジュは志半ばで死ぬかもしれません。
「大丈夫、このくらいでは死なない」
「なんでそれ」
「全部口からダダ漏れている」
もはや取り繕う余裕もなく。練習と本番は緊張感が桁違いだということをアンジェリーナは学んだ。
そして煮込み料理を堪能……したかどうか、ところどころでだいぶ記憶は怪しいが食事を終えた。二人並んで歩きながら一軒店の前を通り過ぎる。
「あ!」
「どうした?」
「ちょっと待っていてください」
アンジェリーナは店先で商人と楽しそうに話しながら商品を選ぶと、代金を支払いジルベルトに差し出した。
「はい、こちらはお礼です!」
「何のだ?」
「これですよ」
アンジェリーナの指先には星水晶のネックレスがあった。
「良い品物があったらお返しをしたいと思っていたのですよ」
「剣につける房飾りか、付属の石は紫水晶?」
「芸もなく瞳の色そのままですけれどね。邪魔にならないよう小ぶりのものにしました」
ですが、小さくても石は上質なもの。一目見て良い品だとわかりましたよ。
「スワラティ竜王国のベルビナというところに竜の寝床という場所があるそうです。その近くで産出される紫水晶は質が良い事で有名なのだそうですよ」
「なるほど、竜の国のものか」
スワラティ竜王国、古より竜の血を受け継ぐとされる竜騎士の国。
店の灯りにすかすようにしてジルベルト様が石をかざした。質の良い紫水晶は浄化の効果を持つから装飾品としても人気が高いそうだ。ちなみに飾り紐の色は黒……いまさら気がついたけれど主張しすぎ。チラリと視線を投げると女性の店主さんが満面の笑みを浮かべて親指を立てた。
良い仕事したでしょ!
完全にはめられた。だから細工の飾り紐は黒一択だったのね。
「アンジュ、これもしかして石に魔法が付与されている?」
「さすがですね、先ほど付与したばかりですが。ちなみに種類までわかります?」
「たぶん……時戻しの魔法か!」
そこまでわかるなんて、アンジェリーナは目を丸くする。質が違うという聖女の魔法をほぼ完全に読めるようになったのか。ということはジルベルト様の魔法を読む精度もまた上がっているという証だ。うん、負けないようにしないと。
「ただし、容量の関係で一回の使い切りです」
「使ったらどうなる?」
「割れてしまいますね」
つまり石自体が対価のようなもの。再利用ができない代わりに永続的に効果は継続して、魔道具や魔石のように充填という作業はいらない。
「私がそばにいないときは石があなたを守ります。だから必ず持っていてくださいね」
それがアンジェリーナの願い。するとジルベルト様は幸せそうに笑って、房飾りを剣の柄頭に飾った。
「つまりもっと強くなれということだな」
「はい?」
「この石を割ることがないようにもっと強くなれということだろう?」
なんだそのいかにも脳筋ですみたいな答えは!
全くそうは言っていない。アンジェリーナは想定外の台詞に言葉を失った。
「いやいやいや、紫水晶はそこまで高い物ではないので、使ってもまた新しい石に魔法を付与すればいいだけのことですよ。対魔戦で大怪我する前に、むしろ遠慮なく使ってください」
そのつもりであげたのだから。でも珍しくジルベルト様は引かなかった。
「はじめてアンジュからもらった物だ。大切にしたい」
そんなふうに言われたら何も言えなくなってしまう。もっと大きな石にして三回くらい使えるようにすればよかった。でもそれだと剣を振るとき邪魔になる。散々思い悩んでアンジェリーナは深々と息を吐いた。
「あとで霊薬を渡します。それは何がなんでも使ってくださいね」
「わかった。ありがとう、これは絶対死守する」
いや、死守って。断じてそのために渡した物ではない。でも本人は殺る……やる気だから止めないほうがいいのかな。ジルベルト様はアンジェリーナの髪を一房すくいあげて唇を寄せると、耳元でそっと囁いた。
「うれしいよ、石も飾り紐の色も両方ともにアンジュの色だ」
しっかりバレてる。完全に泳いだ視線がニマニマする店主を捉えた。
商人恐るべし、相手がわかりやすくよろこんでいるから文句も言えない。
ああもう、振り回されてばかりだ。
でもこんなにぎやかで平穏な時間が続いてほしい、そんなふうにも思わせる不思議な夜だった。




