第二十九話 そんな未来はないと、わかっていたはずなのに
――――拝啓、天国のおばあさま。
おばあさまは常々、精神的にきついときほど学びがあると教えてくれました。魔獣の捕獲数を私と競争して負けた日、落ち込んだおばあさまは勢いでお気に入りの屋台のお酒と料理を一日分丸ごと買い上げ、暴飲暴食ではっちゃけましたよね。次の日おばあさまが食べ過ぎと二日酔いで寝込んだことが、まるで昨日のことのように思い浮かびます。
あれ以来おいしいものとお酒はほどほどが大事だと学んだそうですね。ええ、ちゃんと覚えていますとも。ですがどういうわけか目を閉じると天国で遠慮も配慮もなくはっちゃけるおばあさまの姿が浮かんできます。まさか神様を困らせていませんよね。決定事項というか、もはや不安しかありません。
目を開いてアンジェリーナは天を見上げた。今日も透き通るような青い空は健在だ。
ジルベルト隊長が目覚めてから一週間が経った。フェレス副隊長からは順調に回復していると聞いている。そしてアンジェリーナの処遇はまだ決まっていないが、ちゃんと学びはあって、自分の場合は変に閉じこもっているから落ち込むのだということがわかった。ええそうです、閉じこもって落ち込んでいる場合ではないのですよ。
そう、学びはとても大事です。たとえどんな無理難題をふっかけられようと、どこかに学びがあるはずなのです。
「私をいじめて楽しいですか⁉︎」
「それはもちろん楽し、いわけがないじゃないですか」
「今楽しいって言いましたよね、ひどいわ……こんな子供をいじめて!」
おばあさま、この意味不明なやりとりにも学びはあるのでしょうか。
皆にかわいがられているから嫉妬しているのですよね、能力がないってかわいそう。そう言ったのと同じ口が今は固く引き結ばれて、瞳は涙で潤んでいる。
「アンジェリーナ様がいじめたー!」
わーんと泣くと誰もが振り返る。この構図はどうみてもアンジェリーナがいじめたようにしか見えない。相変わらずやり口がえげつないというか、ほんとタチが悪いわ!
アンジェリーナは頭を抱えた。
今日はようやく外出許可が出て、フェレス副隊長と一緒に誰かの胃袋をつかむ作戦の約束を果たすことになっていたのです。誰の胃袋かいまだに不明ですが、甘いものは大好物なのですよ。ところが浮かれた気持ちで建物を出たら、いきなりコレに捕まりました。
ですが大人をなめてはいけませんよ、涙が出ていないのにちゃんと気がついていますからねー!
「……出たわね、妖怪バラバラ」
「え、よく聞こえないです。文句があるなら大きな声で言ってください」
東方には妖怪というこわい生き物が生息するという。目をつけた人間にイタズラを仕掛けたり、嫌がらせをしたりするのだとか。想像しただけでも迷惑な話だわ。
「おや、楽しそうな話をしていますね」
「ちょっと邪魔しないで……え」
わー、ここに猛者がいました。振り向きざまにフェレス副隊長を怒鳴るなんて芸当ができる八歳児は宝具の聖女バルバラ様しかおりません。するとアンジェリーナに見せつけるように、いきなりバルバラが副隊長に抱きついたのです。おお、大胆な。今はまだ軽く犯罪の香りがするが、十年待てばこれが運命の出会いになる。
――――運命の恋、爆誕か。
物語のようだと瞳をキラキラさせれば、なぜかフェレス副隊長に温度のない視線で叱られた。なぜだろう、男性にとって若い女性(御年八歳)はかわいい盛りではないのか。
「聞いてください、この人がいじめるのです!」
「ほう、どんなふうにですか?」
無理やり引き剥がすのではなく、やんわりと遠ざけながらフェレス副隊長は自然な仕草でバルバラ様の両手首をつかんだ。間違いない、あれは拘束している。ついに迷惑な妖怪……ではなく幼女、でもなくて聖女は捕まったらしい。ごめんなさいね、正直なところ呼び方なんてどうでもいいのよ。これで安心して眠ることができるわ。
「じゃ、私はこれで!」
「逃すわけがないでしょう、当事者ではないですか」
運命の恋を邪魔してはいけない。勢いよく振り向いたところで、なぜかドスのきいた低い声と同時に行く手を阻まれた。あれ、妖怪は?
拘束された妖怪はペイッと捨てられて、いつのまにかマルコさんが捕獲していた。バルバラもあまりの手際のよさにびっくりして瞳を丸くしている。たしかに子猫みたいだ。彼女は瞳を潤ませながらマルコさんの腕に抱きついた。
「それで、どうしたの?」
「アンジェリーナ様がいじめるのです」
「はは、面白い冗談を言う子だねー」
「冗談ではありませんよ、本当のことです!」
怒っているところもあざとかわいい。これに皆騙される。やられたほうはたまったものじゃないけどね!
「なるほど、噂どおりにかわいいお嬢さんですね」
「えー、よく言われるんですぅ」
頬を赤らめているが誰でもいいのか。そしてマルコさんのかわいいが、かわいいに聞こえないのは私の耳がおかしいの? 棒読みで紡がれたかわいいが一般的なかわいいと同列なわけがないのに、バルバラはずいぶんと幸せな脳の作りをしているのですね。
「ではあちらでお話を聞きましょうか。よければお菓子もありますよ」
「わーい、いっぱいお話ししましょうね」
事情聴取のうえ、説教確定。マルコさん面倒見がいいけれど説教が長いんだわ。にこにこしながら連行されていく妖怪の背中にアンジェリーナはそっと祈りを捧げた。
……成仏しておくれ。そして私の前に二度と姿を現すのではないわよ。
それにしてもマルコさんが振り向きざまに親指を立てて合図してきたのだが、あれはなんだ?
「マルコには特別手当てが必要ですね」
「そうなのですか?」
「よく働いてくれましたから」
よかったですね、特訓の成果があったようでマルコさんは手当てもらえるらしいですよ! アンジェリーナが微笑ましく見送っていると、フェレス副隊長はどこか冷えた眼差しでバルバラの背中を見つめた。
「彼女が破壊の聖女バラバラさんですか」
「宝具の聖女バルバラ様です。それは私がつけた個人的な愛称ですが……口にしたことありましたっけ?」
「あなたは思ったことが顔に出やすいのですよ」
アンジェリーナは固まった。文字化するのはさすがに顔色読むレベルを超えてない? だがここでそのことに気がついてはいけないのだ。国家機密とか言われたら、きっと部屋から出してもらえなくなる。だからアンジェリーナは気がつかなかったことにして、さらっと話題を変えた。
「分解しかできませんが、まだまだ発展途上だからです。メンテナンスと組み立ては基礎を学ぶところからだと思いますよ」
「分解して元に戻せないというのはたしかに困りますね。ですから王とも話しまして、彼女の聖女の称号は一時凍結することにしました」
優秀な魔道具師が在籍する工房に弟子入りさせて、一から学ばせる。魔道具職人として独り立ちするまでに最低でも十年という厳しい世界だ。
「そのうえで本人が聖女の称号を使いたい場合は試験を受けてもらうことになるでしょう」
「つまり許可制にするということですね」
「ええ、あとは本人のやる気次第です」
あきらめるならばそれまで。国の求める最低ラインを満たさなければ、最終的に聖女の称号を失うことになる。その代わり、才能を開花させて国の納得する技術を身につければ称号とともに高い手当てを支給するそうだ。国家資格のようなものか……たとえばユリアンネ様のように高い技術が要求される聖女には必要な仕組みだろう。
「もちろん聖女ではなく一般人として工房に残って仕事をするという選択肢もあります。アンジュを見ていて思いましたが、無理やり聖女の枠にはめなくても技術者や職人として活躍できるような優れた技能を持つ方がけっこういるのですね」
聖女としてではなく職人として切磋琢磨し技術を磨く。まだ若いバルバラには選択肢がたくさんあるということに気がついてもらいたいからだとか。すごいな、アンジェリーナには思いつきもしなかった。
「すばらしいですね、許可制度を考えた方は将来国を支える礎となれるでしょう」
「……そうでしょうか?」
「ええ。技術が向上すれば国も潤いますし、その技術でたくさんの人が救われるならば聖女の努力も報われるでしょう」
なによりも、聖女が無能で役立たずと呼ばれることがなくなる。アンジェリーナがうれしそうに微笑むと、フェレス副隊長が頬を赤らめた。あら、照れるなんて珍しいこともあるものね。
「さて、邪魔は消えましたから甘いものを食べに行きましょうか」
「はい、よろしくお願いします!」
アンジェリーナは元気よく王都の街並みを歩き出した。するとフェレス副隊長があわてて駆け寄ってくる。
「そちらではありませんよ、行きたいお店はこっちです!」
「あれ、そっちでしたっけ。中心街はこっちではなかったですか?」
一瞬呆気にとられたフェレス副隊長はやがてクスクスと笑い出した。
「アンジュ、あなた実は方向音痴でしょう」
「ち、違いますよ。セントレア王国では道に迷ったことがないですし、慣れていないだけですよ!」
「そうでしたか、失礼しました」
でもやっぱり口元のあたりが笑っている。今度は間違えないようにしないと。アンジェリーナはあわてて方向を変えた。フェレス副隊長は並んで歩くアンジェリーナと手をつないだ。強引さを感じさせない自然な仕草に、一瞬鼓動がはねた。
「目を離したらまたどこかに行ってしまいそうですからね」
「心配しすぎですよ!」
勝手にどこにも行きません。そう答えたけれど、彼は曖昧に笑うだけで最後まで手を離してはくれなかった。そして二人並んで王都の魔獣の大移動を経ても変わることのなかった勇壮で荘厳な街並みを歩く。アンジェリーナは深々と感嘆のため息をついた。
澄んだ青い空を大きな鳥が横切った。翼ある彼らはどこまでも飛んでいける。
きっとさみしくて、でも自由だ。
「いつ見ても美しい国ですね」
「そう言ってもらえるとうれしいですね」
柔らかく笑うフェレス副隊長と視線が合って、アンジェリーナは微笑んだ。こんなおだやかな時間は久しぶりだった。ただずいぶんと二人の距離が近いような……。
ふと、ジルベルト隊長のことを思い出した。彼と並んで歩いたときは、二人の距離が離れていくのをもどかしいと感じたのよね。
会話は多くなかったけれど、決して居心地の悪い時間ではなかった。歩調を合わせてくれる優しさがうれしくて、静かに笑う横顔が繊細できれいに見えて。彼の迷いがない眼差しは、いつもはるか彼方を見据えていた。あのとき感じたのだ。ほんの少しだけさみしさを感じさせる眼差しはアンジェリーナと同じように自由を望んでいる。
このまま二人でどこまでも一緒に歩いていけたら。
そんな未来はないと、わかっていたはずなのに。
「アンジュ?」
「っと、すみません。ちょっとぼんやりしていました」
「ここが連れてきたかったお店だよ」
「わぁ、ちょっとした隠れ家みたいでかわいいですね!」
彼が連れてきてくれたのはリゾルド=ロバルディア王国でも人気のあるスイーツの専門店。魔獣の大移動のために避難したけれど人々も少しずつ戻ってきていて、最近また営業を始めたそうだ。
「ケーキが有名なんだよ」
「それは楽しみですね!」
テラス席に案内されてメニューを隅から隅まで読んだアンジェリーナが選んだのは真っ赤な苺のケーキ。紅茶を飲みつつ待っていると、鮮やかな色合いのケーキが二つ運ばれてくる。キラキラとした砂糖の衣をまとって、まるで宝石みたいだ。
「きれい、おいしそう!」
「……胃袋をつかむ作戦は成功みたいだね」
「ええ、これなら大成功間違いなしです!」
つかまれるのはどなたかわかりませんがお相手の方はきっと幸せ者ですね。ゆっくりと味わうように食べていると、目の前にもうひとつフォークが差し出される。その先にはフェレス副隊長の選んだチョコレートケーキが一欠片のっていた。
「はい一口どうぞ」
「……これも練習ですか?」
「そう、未来を想定した練習ですね」
周囲の人達がチラチラとこちらを観察している。……この状況はとても恥ずかしい。私達の席は離れた場所にあるから話す内容が聞き取れない。だから余計に想像をかき立てるのだろう。
けれど練習ならしょうがないかな。アンジェリーナはフェレス副隊長の差し出すチョコレートケーキを食べた。
甘くて、ほろ苦い。
「おいしい?」
フェレス副隊長が蠱惑的な笑みを浮かべて軽く首をかしげる。アンジェリーナは頬を染めてうなずいた。今日はいつもよりも華やかな格好をしているから、まるで王子様みたいだ。刺すような視線が気になるのも、きっと彼に見惚れている女性がどこかにいるからだろう。
罪つくりな人だなー。練習に付き合うのはいいが相手に誤解されないだろうか。フェレス副隊長はにっこりと笑ってアンジェリーナの手を握った。今、間違いなく逃げ道を封じましたね。
「誤解されるのが目的だからね」
「だから心を読まないでください!」
間違いなく心が読まれている。あせったアンジェリーナの手をフェレス副隊長は強く引いた。チョコレートとは違う甘い香りにどきりとして心拍数が跳ねあがる。目の前には冷たく精悍なジルベルト隊長とは系統が違う、甘く優しい顔立ちがあった。
「アンジュ、あなたを愛しています」
「……っ、どうしたのですかいきなり」
絶賛混乱中のアンジェリーナは顔を真っ赤にした。これも練習、でも視線はそうとは思えないほどに真剣で。すくい上げた指先に柔らかな口づけが落ちた。
「感情を抑えていては伝わらないものもあると、あなたが教えてくれました。あなたの強さと弱さ、誰よりも誇り高く自分に正直なところが好きです。神秘的な紫の瞳も、光を弾く黒髪も美しいと思います。特にこうやっておいしいものを食べているときの幸せそうな顔も好きですし、この国を愛してくれるところも好ましい」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
このままでは本当に愛されていると勘違いしてしまいそうだ。
「申し訳ありませんが、ゆっくり考えてもらうような時間の余裕がありません」
「……」
「もしあなたが私を望んでくれるのなら、私の全てをかけてあなたを手に入れてみせる。あなたに差し上げられるものはそうたくさんありませんが、その代わりに全身全霊をかけて私はあなたのものだ」
薄く笑った顔が翳りを帯びて、色気が滴るようだった。普段のおだやかな様子からは想像つかないくらいに熱量が半端ない。あまりの壮絶さにアンジェリーナは言葉を失った。
相手を追いつめて、思考が停止したところで畳みかけるように追い込む。これは思わずうんと言わせるための作戦だ。誰だよ、鬼畜になる何かを押したのは。私か、私なのか⁉︎
「ねぇアンジュ、返事は?」




