第二十六話 これ以上は失望させないでください
魔除けの聖女の忠誠だけは失わないように。彼女達はこの国の要だ。
父の言葉をこの期に及んで思い出した。でも走り出した以上、ここで止まるわけにはいかない。
「言いたいことはそれだけか。ならばさっさと薬を飲め!」
「安心して、効果については保証するわ」
ユリアンネが嫣然と微笑み、足元に転がった薬瓶が陽光を弾く。この薬は人の意思を奪って無害な人形を作り出すもの。試行錯誤の結果生み出された傑作だ。鉄格子の向こう側で影をまとい、うつむいたアンジェリーナは肩を震わせる。
……泣いているのか?
かわいらしいところもあるものだと王は口角をあげた、そのときだ。突然顔をあげると、アンジェリーナははしたないくらいに大きな声で笑った。
「あはははは、ほんと救えない人達ね!」
「なっ! きさまなにを……気でも触れたか!」
薄らと笑いながらアンジェリーナは微動だにしなかった。それなのに目の前でパキリと音をたてて薬瓶が砕ける。液体が床にこぼれて、不気味な模様を描いた。
「狂っているのはあなたですよ、セントレア王」
牢の奥から男の声がしてセントレア王は仰天した。姿が見えないのに誰かがいる?
そのとき入口の扉を蹴破る勢いで甲冑を着た兵士が駆け込んできた。
「緊急事態です! 王城ほか関係各所に次々と他国の兵が侵入しています!」
「なんだと、どこの国だ!」
「リゾルド=ロバルディア王国です!」
痛いくらいの沈黙が落ちた。理由はただひとつ、セントレア王は牢を振り向いた。
「きさま、謀ったのか!」
「ご冗談を。しがない平民の聖女に国を謀る器量などあるわけないでしょう」
「ならばどうしてリゾルド=ロバルディア王国の兵が侵入するのだ!」
すると牢の奥から再び声がした。
「定刻どおり、制圧完了です。もういいでしょう、種明かしをしましょうか」
闇の奥から滲み出るように男が姿を現した。そして柔らかな微笑みを浮かべながらアンジェリーナの隣に並ぶ。顔を見て、王は言葉を失った。
「おまえは……まさか」
「なかなか斬新な歓迎ですね、ここに案内されたのははじめてですよ」
「ど、どうしてこんなところに」
王と視線が合ったアンジェリーナは、パパーンと音がするような弾けた笑みを浮かべる。
「正解はリゾルド=ロバルディア王国と手を組んだ、でした!」
「この裏切り者!」
射殺さんといわんばかりの鋭い視線をアンジェリーナは受け流す。いやほんと、鬼気迫る状況に怯える態度を取り続けるのがキツかった。
「はは、だが牢に囚われている状況でなにができ」
セントレア王の言葉が言い終わらないうちに、次々と姿を現したリゾルド=ロバルディア王国の兵が兵士を襲い縛り上げて、牢の鍵を開けた。縛られていないものの王とユリアンネも手早く拘束される。
「こういうことができますよ」
にっこりと笑って牢の鍵を揺らす男――――フェレスは皮肉げに口角をあげる。サビーノが駆け込んでくると礼の姿勢をとった。
「リオノーラ王妃を保護しました。こちらの要請に従って結界を解除しています」
「ずいぶんとあっさり指示に従ったね。もう少し揉めると思っていたけれど」
「それが……侍女によると薬によって意思を奪われているそうです。驚くくらいこちらの言いなりでしたよ」
「アンジェリーナの懸念していたとおりになったわけか」
なるほど、実験済みだから効果を保証すると答えたのね。アンジェリーナとユリアンネの視線が交錯する。命は奪わなかったけれど、社会的に聖女を抹殺したわけか。冷酷非情はどちらよ。咎めるような紫水晶色の瞳から先に視線をそらしたのはユリアンネのほうだった。
「では我らが王に連絡を。作戦は成功、待機中の本隊を寄越すようにと」
「了解です!」
状況は刻一刻と悪化していく。呆然としていたセントレア王がようやく意識を取り戻して叫んだ。
「和平条約違反だ!」
「いまさらですか、だいたい先に手を出したのはそちらでしょう」
アンジェリーナは笑った。リゾルド=ロバルディア王国の影響力を甘く見てはいけないのに。
「私の到着が早いとは思いませんでした? 謁見が行われたのは一週間前、リゾルド=ロバルディア王国とセントレア王国間は不眠不休でどんなに急いでも徒歩なら二週間はかかります。それがどうして一週間で元気一杯に到着できたか不思議に思わなかったのですね」
「……まさか!」
「そうです。他国の協力を得て、転移陣を乗り継いでここまできました」
アンジェリーナが答えると、フェレス副隊長もにこやかに微笑んだ。
「ついでに審議の場で起きたことはもれなく情報提供済みです。おかげさまでどこも積極的に協力してくださいましたよ。日頃の行いはとても大事だと痛感したところです」
周辺各国ともにセントレア王国の傲慢な態度がいい加減頭にきていたそうで、これ幸いと画像込みで国民にまで広く周知していただけるそうだ。
そしてうれしい誤算だったのはアンジェリーナの評価が爆上がったこと。特にジャガイモを一個秒で剥けるスキルが非常に喜ばれ、我が国に来てくれればこれだけ給料出すよというスカウトが多数寄せられて追放先に困ら……っといけない大事な仕事が残っている。アンジェリーナはユリアンネに視線を向けた。
「あらユリアンネ様、ずいぶんと顔色が冴えませんね……そういえば推しはいかがされました?」
「あなた、どういう状態かわかって言っているでしょう⁉︎」
アンジェリーナが邪気のない表情で煽ると、案の定噛みついてきた。
ユリアンネは興味のないことには手を出さない。その代わりに興味があるものに捧げる熱量が桁違いなのだ。彼女の推しは就任したばかりの若き第二騎士団長。侯爵子息、独身、顔よし、頭よしで筋肉のつき方が芸術的な紳士だとか。ちなみにこれらはユリアンネの言葉をそのまま引用した。彼女は推しの前では可憐で楚々とした聖女らしい姿を演じており、絶対に手に入れると息巻いていたのだが。
帰ってきてすぐに牢へ放り込まれているから知らないけれど、どんな状況かは相手の職業が騎士だけに想像はつく。魔獣との戦闘に慣れていないセントレア王国の兵士は傷つき、多くが生死の境をさまよっていた。きっと第二騎士団長もそのうちのひとりに含まれているだろう。
たぶん彼女はセントレア王と取引したのだ。私を言いなりにしたら、推しを刻戻しの魔法で治させる。だからそういう薬を作り、保険で毒を作れと。顔色が悪いのは計画が破綻したから。
「では私と取引しませんか?」
「取引ですって、あなたに人の心はないの⁉︎」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
ピシャリと言い返して、アンジェリーナは冷ややかな表情を浮かべる。ジルベルト隊長が命を落とすようなことがあれば絶対に許さない。
「聖女殺しの短剣に塗られた毒の解毒剤をください」
「残念だが、解毒剤は私が持っている一本きりだ。それももう捨てたがなぁ。きさまは今までもこれからもずっと無能で役立たずのままだ!」
ざまあみろ、セントレア王は高らかに笑った。最初から渡す気がなかったということがわかってリゾルド=ロバルディア王国側の兵士が殺気立った。まあ想定内よね、アンジェリーナは口角をあげてユリアンネと視線を合わせた。
「もう一本、解毒剤の予備を持ってますよね」
「……どうしてそう思うの」
「一緒に仕事をしたからわかります、あなたはそういう人だ。ですから私と取引しましょう。解毒剤と引き換えに魔除けの聖女特製霊薬をさしあげます」
「冗談言わないで、ド素人のあなたに調薬できるわけないじゃないの!」
「調薬ではありませんよ、私の場合は効果を付与して霊薬に変えます。しかも私の作る霊薬は対魔戦に有効で、たとえば毒無効、回復、状態異常解除に浄化」
「は、バカじゃないの。浄化は聖水でしかできないはずよ!」
アンジェリーナは薄らと笑った。情報によれば、彼女は聖水に代わる薬を作ったらしい。自分にはできるのに、どうして他の人にはできないと決めつけるのかな。
「できないという根拠はなんでしょう。私は魔除けの聖女ですよ。対人特化の聖女とは違い、対魔戦に有効な能力の全てを与えられた聖女です。魔に侵された肉体や精神を癒す薬ぐらい作れないわけがないじゃないですか」
「……」
「相手が聖女の鑑と呼ばれるユリアンネ様だからこそ破格の申し出です。これ以上、失望させないでくださいね」
アンジェリーナはポケットから薬瓶を取り出した。ユリアンネは目を見開く。
「それって、私の!」
「お気づきですか、この瓶はお手伝いしたときにあなたに頼まれて私がデザインしたもの。薬瓶のデザインは薬師によって異なります。ですからこの瓶を使えばあなたが調薬したことにできるのです」
「……っ!」
「推しに愛されたいと思いませんか?」
青ざめた顔でユリアンネは瓶を見つめている。アンジェリーナは手を差し出した。
「解毒剤と交換です。破格の取引ですから用法用量の情報も一緒にお願いしますね」
「ダメだ、渡すんじゃない!」
セントレア王は暴れたけれど兵士によって難なく押さえつけられる。愛や情は人を弱く愚かにする。だから聖女に愛や情などいらないと言ったのだ。ため息をついてユリアンネは立ち上がると三種類の薬瓶を机の上に並べた。
「このうちの一本を選びなさい」
アンジェリーナは兵士に目配せして三本とも手に入れた。軽く舌打ちをしてユリアンネは手を差し出す。
「さあ、あなたの番よ。霊薬を渡しなさい。用法用量の情報は薬と交換するわ」
「もちろん」
アンジェリーナは隊員に霊薬を手渡した。霊薬を受け取ってユリアンネはそっと息を吐く。そして睨むようにして前を向いた。
「傷口に直接かけるの、三回に分けて使わなければ効果はないわ」
するとセントレア王の口角がほんの少しだけあがる。アンジェリーナはユリアンネの顔を見て、ニヤリと笑った。
「経口摂取、一回で全量を服用させるのですね。承知しました」
「は⁉︎」
真逆のことを言ったアンジェリーナに王は焦った顔をした。大当たり、種明かしすればなんてことないことだ。
「彼女は血の契約に触れるので嘘をついたのでしょう。この三本の薬瓶はすべて経口摂取用なのです。それにユリアンネ様の薬は経口摂取の場合、一回で全量服用させるものばかり。三回に分けるのは子供用の風邪薬だけです」
「……よく覚えているわね」
「瓶詰めとラベル貼りのお手伝いをしたときに教えていただいた知識は、どれも今後の生活で役に立つものばかりでした。あのときの経験は良い勉強になりましたからね」
セントレア王国には咲いていないフィラニウムの実物を見せてくれたのも彼女だから。彼女から教えてもらった調剤の知識は今もアンジェリーナの手助けとなっている。ユリアンネはハッと胸をつかれたような顔をして、恥じたように横を向いた。お腹の中は真っ黒だけれど推しに愛が通じるといいわね。
「霊薬は経口摂取です。全量で全回復します。ちなみに修復の効果も付与していますから、欠損や熱傷にも効果を発揮するでしょう。ただし効果があるのは赤紫色に変色した傷だけです」
「つまり浄化する前、ということね」
「はい。それからこれはとっておきの情報ですが、解毒剤や治療薬の場合は用法用量を守って規定量を服用しなければ効果が失われてしまいます。ですが霊薬は水で薄めても効果がありますので多くの人に摂取させることができるのです」
「なんですって……そんなことが」
「ただし薄めただけ効果は限定的になり完治はできません。その代わり、魔に侵された内部の損傷は癒すので、そこからユリアンネ様の薬で治療すればたくさんの人の命を救うことができるでしょう。そうなれば聖女筆頭の空席は、きっとあなたのものにできる」
愛か、名誉か。破滅へと誘う魔女のようにアンジェリーナは甘く囁いた。
ユリアンネは呆然として手元の霊薬を見つめる。この一本でたくさんの人間を救えるかもしれない。でも多くの人を癒す代わりに、たったひとりを完治させることはできなくなる。
「その一本でたったひとりを完治させるか、それとも薄めることでたくさんの人間を癒すか。聖女の鑑と呼ばれたユリアンネ様がどちらを選ぶのか興味深いですね」
推しか、その他大勢のモブか。ああなんてこと、ユリアンネは拳を強く握った。
「アンジェリーナ、あなたわざと教えたでしょう⁉︎」
知らなければ、聞いていないと言い逃れができたのに。睨みつけられてアンジェリーナは小さく首をかしげた。
「わざとだなんて心外ですね。用法用量の情報を与えてくださったお礼なのに」
「あなたのそういうこざかしいところが大嫌いなのよ!」
「奇遇ですね、大嫌いなのは私もおそろいです」
ユリアンネが返す言葉を失ったところでアンジェリーナは振り向いた。
「あとはお願いしますね」
「もちろん、任されましょう」
アンジェリーナは、にこやかに微笑んだフェレス副隊長を牢に残して薬瓶を受け取った。そして二人の隊員が付き添って、足早に扉から出て行った。その背後では身を激しく揺らして王が暴れている。服が乱れて、王冠が床に音を立てて落ちた。
「逃がさないぞ。我が兵士達よ逃すな、魔除けの聖女を捕えろー!」
「残念ながら、制圧しましたのであなたの命令を聞く兵士はもういません」
ただでさえ魔獣に襲われて兵士の多くが傷ついている。彼らを除く兵士は形ばかり抵抗を示したものの、まともに戦うこともできないまま降伏した。魔獣の討伐は戦闘訓練と同じだ、相手の意図が読めないだけ高度な訓練の相手となる。拍子抜けするくらいにレベルの低い彼らの技量を見ると、魔の巣窟の上に国を建てた意図がなんとなく読めるような気がした。
セントレア王国の兵士は結界の聖女のおかげで人と戦うこともなく、魔除けの聖女のおかげで魔獣を討伐することもない。聖女の力に頼りきったことで国が弱体化し、滅んだ。その事実を知ったときに王は何を思うのだろう。自分の愚かさを認めることなく、やはりアンジェリーナを恨むのだろうか。
それを剣のせいだと武器を咎めますか?
――――あのときの凜とした横顔がどうしても忘れられない。
今ごろアンジェリーナは解毒剤を手にジルベルトの元へと駆けつけているはずだ。彼女は選んだ、彼の隣でともに戦うことを。アンジェリーナにとって憂いとなるものは排除する、それがジルベルトと交わした約束だ。せめてそのくらいは自分の手で、彼女のために。
選ばれなかった自分には、それしかできないから。
「ユリアンネ嬢、少々外していただけますか。監視つきですが調薬を許可しましょう」
「よろしいのですか?」
「ただし、アンジェリーナの心遣いを無駄にしたら許しませんよ」
アンジェリーナは彼女に一片の慈悲をかけた。無理やり解毒剤を奪うこともできたのに、交換条件を提示したのはそのため。だがもしアンジェリーナの期待を裏切るような真似をすれば容赦しない。ユリアンネはうなずいて兵士とともに出て行った。ついでに牢番の兵士も遠ざけると、それまでさんざん暴れていた王が力を使い果たしたようにぐったりと椅子にもたれる。ようやく舞台は整った。フェレスは牢の中に置かれていた古びた椅子に跨いで座ると笑みを浮かべる。
笑っているのに、見ている者の背筋が凍りつくような凄惨な笑みを。
「さて、邪魔する者がいなくなりました。落ち着いて今後の話をしましょうか」




