第二話 婚約を破棄してくださるそうです
また面倒な人が来た。なんで今日は立て続けにこういう面倒が重なるのかな。
アンジェリーナは侍女にお礼を言って下がらせるとため息を吐く。行きたくないなー、でも行かないともっと面倒なことになる。重い足を引きずって、なんとか客間の扉を開いた。
「お待たせしました」
「遅いぞ、どれだけ待たせる気だ!」
「申し訳ありません」
こっちだって遊んでいたわけじゃない。待つのが嫌なら事前に訪問を知らせるべきだろう。顔をあげると冷ややかな瑠璃色の瞳と視線が合った。グレアム・べアズリース伯爵子息。この不躾な男が不本意なことにアンジェリーナの婚約者だ。顔が良くて頭も良い紳士と評判の彼は、アンジェリーナにだけは欠片も紳士的な優しさを向けてくれない。
なぜアンジェリーナに婚約者がいるのか。単純明快、聖女の能力を国に縛りつけるためだ。セントレア王国の聖女の能力は千差万別だけれど、国内に留めておきたい能力がいくつかある。たとえばリオノーラ様の結界がまさにそう。そして、無能で役立たずなはずなのにどういうわけかアンジェリーナの魔除けもそうらしい。
「それでどんなご用件ですか?」
「君は自分の職務を放棄して怪我人をヘレナに丸投げしたそうだな。聖女として恥ずかしくないのか!」
「怪我人から私の手当ては不要と言われたからです」
「それは手当てを拒否される君に落ち度があるからだ!」
出会ったころからそうだった。悪いのは全てアンジェリーナで、うまくいかないのもアンジェリーナのせい。
婚約のことだってそうだ。私の知らないところで決められた話だというのに、勝手に人のせいにして。政治的なバランス、神殿との距離感などを加味した国主導で結ばれた婚約。それを平民の私がどうこうできるわけがないじゃない。それなのに、ある日突然、この男は不機嫌な顔でやってきていきなりアンジェリーナを罵倒したのだ。
『ふざけるな、おまえが私の婚約者だと⁉︎ 断固認めない、絶対拒否する!』
何言ってるんだ、こいつは。婚約のことを欠片も知らない私は、本気で彼のことを妄想に取り憑かれた可哀想な人だと思っていた。癒しか回復が必要なのかとヘレナを呼びに行ったくらいだ。アンジェリーナは彼の隣に寄り添って座るヘレナに視線を向けた。
まさかあのときのことがきっかけでグレアム様とヘレナが恋に落ちるとは思わなかったわ。意図せずアンジェリーナが二人の縁を結んだ。ちなみに神殿には縁結びの聖女様もいるけれど、この二人に関しては私の実績。むしろ感謝してもらいたいくらいだ。
「馬車の事故のとき、ヘレナ様は現場におられましたよね。実際の状況をごらんになったはずです」
「ええ、ですからアンジェリーナ様の態度は良くないと思いますの。患者のわがままは不安の裏返しですわ。多少厳しいことを言われたくらいで怪我人を置き去りにするなんて、褒められた行為ではありません。怪我人を不安にさせるような行動は慎むべきですわ」
よく言うわ、そうなるよう煽ったくせに。アンジェリーナと視線が合うと、ヘレナの天使の金の髪が揺れて、翡翠の色をした瞳が怯えたように瞬いた。ヘレナの肩をグレアム様が抱き寄せる。
「そうやって睨みつけるから怯えるのではないか! ヘレナは何も悪いことはしていないというのに可哀想だ!」
「婚約者のいる男性とお付き合いをしていても悪くはないのですか?」
「私はおまえを婚約者とは認めていない。それなのに執着して気持ち悪いやつだ!」
私をいたぶったとしても婚約がなくなるわけじゃない。異論があるなら国に申し出るべきだろう。無言で眉根を寄せると、優越感をにじませたグレアム様が口元を歪めた。
「だがもうこの不本意な婚約も終わりだ。おまえは私とどうしても婚約したくて神殿経由で姑息な手を使ったらしいが無駄な努力になったな」
「というと?」
「ありとあらゆる手を尽くし、意味不明なこの婚約を完全に破棄したのだよ!」
これは、これは。アンジェリーナにとっても朗報だ。
「国は最後まで渋っていたが、真実の愛のためだと言ったらあきらめてくれた」
ドヤ顔がまぶしいけれど、それはもしかすると別の意味であきらめたのではないだろうか。まあいい、婚約を破棄するためにがんばってくださったのだから努力は認めてあげないと。
「よかったですね、おめでとうございます!」
「よかったって、よくはないぞ。なぜならおまえ有責だ。婚約破棄の件も含めて、国からは罰金刑が与えられるそうだぞ。まあ当然だな!」
「あら、私の有責とする理由は何です?」
「決まっているだろう。おまえが聖女の仕事をサボるからだ!」
呆れたような顔をされても。私の能力はちゃんと仕事してくれてますよ。それにしても罰金刑か。国は私が働いていることを知っているはずなのに……さては適当な罰を与えて私への不満をガス抜きする気だな。
「何も見えていないのですね」
「は?」
期待外れもいいところだ。ヘレナのように聖女らしく振る舞うことも才能かもしれないが、それは人々が自分に都合のいいものしか見ていないという証明でもある。民衆だけでなく貴族や神官も、何も見えていない。国は多少理解があるらしいが私への批判を放置している時点で同罪。
やってられるか。
「婚約破棄、承知しました。お好きなようになさってください」
「え?」
「私との婚約を破棄してヘレナ様と婚約されるのでしょう? おめでとうございます、どうぞお幸せに!」
ポカンとした二人の顔が間抜けで笑える。アンジェリーナはクスッと笑った。はじめて見せたアンジェリーナの無垢な微笑みにグレアムはハッと胸を突かれる。柔らかくて、温かそうで。まるで雪解けのようだ。なんで今まで隠していたのか。はじめから見せてくれていたら、もっと……。
「ふん、強がりはやめたほうがいい。おまえは私が好きだっただろう」
「いいえ、全く。どうしてそんな勘違いをなさったのか疑問ですわ。ご自身に置き換えてみてください。婚約者なのに存在を無視する。目を合わせない、会話をしない、これのどこに好きでいる要素があると思うのですか?」
「だがおまえが好きだから婚約をゴリ押ししたのだと」
おそらくヘレナに適当なことを吹き込まれたのでしょうね。悪意しかない、この子のどこが天使なんだか。
「無能で役立たずの聖女が国にゴリ押しできるわけがないじゃないですか」
アホだなー、ちょっと考えればわかることなのに。
「あなたとの婚約は国主導で結ばれました。つまり巷の評価とは関係なく、私にそれだけの価値があるからですよ」
そう答えるとグレアム様の顔色が悪くなる。国の意向を無視して婚約を破棄したことにいまさら気がついたようだ。顔はいいけど政治的な駆け引きに疎い彼と、人気の高い癒しと回復の聖女との婚約を国はすんなりと認めてくれるだろうか。まあもういいか、どうせ私には関係のない話だ。
「話は終わりのようですね。ではごきげんよう」
幸せになれるものなら、なってみればいい。あっさり席を立って、アンジェリーナは部屋を出た。
「待ちなさいよ!」
ヘレナが追いかけてきて、アンジェリーナの肩を強く掴んだ。まったく次から次へと面倒な!
「なにか御用ですか?」
「調子に乗らないで。あなたなんて、私が望めばいつだって聖女をクビにできるの!」
「ああそう」
完全に聖女の仮面を外したヘレナはアンジェリーナを睨みつける。彼女のいうことももっともだ。神官からも釘を刺されていたし十分に可能性はある。ならばこれが最後の機会になるかもしれないので、聞けることは聞こう。覚悟を決めて、アンジェリーナはヘレナの瞳の奥をのぞき込んだ。
「ひとつ聞きたいと思っていたのですが」
「なによ、なにか文句あるの⁉︎」
「どうして私の悪い噂を助長するような態度を取り続けたのです?」
先代の魔除けの聖女の時代は、偏見はあってもここまでひどくなかった。つまり扱いがひどくなったのは、そうなるように仕向けた人間がいるから。一瞬目を見張ったヘレナは次の瞬間、口元を大きく歪めて笑った。
「まあ、いくらバカでもさすがに気がつくわよね。でもいまさらそれを聞いてどうするのよ」
「別に。ただ貶められた側としては聞く権利はあるんじゃない?」
クスクスと、彼女は心底楽しそうに笑う。だが細めた瞳の奥は全く笑っていなかった。
「あなたが私よりも上にいるのが許せないのよ」
「は?」
「貴重な癒しと回復を使える天使よりも、無能で役立たずな魔女を選ぶなんてどうかしている」
選んだというのは国か、べアズリース伯爵家のことか。
それともグレアムの瞳に宿る仄暗い欲望に気がついたからか。
「だってそうでしょう。魔除けなんて何の役にも立たないじゃない。怪我や病気も治せる私の力こそが、世の中の役に立つ。私のほうがこの国のためになるの!」
「……」
「グレアム様も、べアズリース伯爵家も、本来なら全部私のものだったのよ。それを横から掠め取るようなマネをして。地位も名誉も欠片だって悪しき魔女に渡すものですか!」
それが彼女の動機か。バカバカしい、アンジェリーナは深々と息を吐いた。
「なによ、バカにしているのね!」
「まあたしかに呆れてはいます」
やっぱりなにもわかっていない。私が無能で役立たずでいることは皆にとって幸せなのにね。
その他大勢の聖女の力と私の力の決定的な違い。そのことに彼女が気がついていれば未来は変わっていただろうか。思い込みに囚われているから、本当に大切なことが見えていない。でももう、いまさらよね。
「よかったですね、全てを取り戻せて。それで、今の気持ちはいかがですか?」
「ふふ、大満足よ!」
「そうですか、ではどうぞお幸せに」
答えを待たずにパタリと自室の扉を閉めた。何度か扉を叩く音がしたけれど、やがて静寂が訪れる。アンジェリーナは扉を背にして座り込んだ。座り込んだまま、ぼんやりと部屋の天井を見上げる。
無償の愛に信頼。失ったものは二度と取り戻せないことをアンジェリーナは知っていた。
「ごめん、おばあさま。約束は守れない」
生まれてから十年だ。おばあさまはアンジェリーナにとって母であり、師匠だった。アンジェリーナにとって唯一の家族と呼んでいいような存在。この部屋で一緒に暮らしたおばあさまはアンジェリーナを慈しみ、惜しみなく知恵と知識を授けてくれた。そして彼女が亡くなって五年と少しばかり。
『私の知る全てを教えよう。だから魔除けの聖女としてこの国を守っておくれ』
命をかけた彼女との約束を思うとどうしても捨てきれなくて、私さえ我慢すればいいと思っていたけれど。
「誰かの幸せのために犠牲となることは愛とは違うのですね」
利用されていただけ、そのことに気がついた今は聖女として人々に尽くすなんて無理だ。他人のために命を捧げる覚悟を失ったら、聖女である資格を失ったのと同じこと。だったらこれ以上周囲が騒がしくなる前に出ていこう。王命で新たな婚約に縛られる前に、無実の罪で人としての尊厳を踏み躙られる前に。
アンジェリーナはローブを脱ぎ、小さな鞄に手早く荷物をまとめる。そして家具以外にはほとんど物のない空虚な部屋を見回した。
「さようなら、おばあさま。これからはただのアンジェリーナとして生きていきます」
もう二度と、この部屋には戻らない。一礼するとアンジェリーナは静かに扉を閉める。
誰に咎められることもなく神殿を抜け出して、一度だけ振り向いた。神殿の空気は静まり返ったままだ。アンジェリーナがいなくても、誰も気にしない。
捨てるとなれば呆気ないものだわ、足りないのはほんの少しだけ踏み出す勇気だった。
さて、どこにいこう。行き先は決めていないけれどこの国を出ていくことは決まりだ。国を出るための秘策も用意しているし、うまくいくでしょう。
「いますぐではなくても、国が荒れる未来は決まったようなものだからね。どこまで持ちこたえられるかしら」
魔除けの聖女がいる限り、セントレア王国に魔とつくものは寄りつかない。
つまりセントレア王国にいる限り、アンジェリーナの本当の能力を発揮する日は一生こないということだ。国民にとっては、そのほうが幸せ。無駄に血を流さずに済む。
では魔除けの聖女がいなくなったあとは?