第十三話 お仕事を終わらせて華麗に脱出します
アンジェリーナが、ジルベルトと望まぬ再会を果たす少し前のこと。
魔寄せの力を使ったアンジェリーナは周囲の音に耳をすましていた。
「おー、きたきた。大成功だ!」
土煙と振動が魔獣の到来を予感させる。アンジェリーナはほくそ笑んだ。作戦が当たれば吉、外れたら凶だ。さあ、ここからが本番ですよ!
アンジェリーナの姿は防御陣によって隠されているから魔獣や魔物の目には見えない。だが姿は見えなくても魔獣や魔物は嗅覚だけで餌となる魔力を求めるという習性があった。アンジェリーナは誘い込むように一際強く力を開放する。
甘く濃厚な魔力の気配に狂わされた魔獣や魔物は、欲求に従って、ただひたすら一直線に裂け目の向こう側にいるアンジェリーナを目指して突き進む。魔性に支配された今は自らの意思で止まることができない。勢いがついたまま、次から次へと裂け目に落ちていく。数にして何千頭、万に近い数の強力な魔獣や魔物が抵抗もできずに裂け目の奥へと吸い込まれていった。
まさか魔獣の墓場という呼び名がそのままの意味とは思わないでしょうね。
看板に偽りなし。魔獣や魔物を誘き出して墓場に突き落とす。魔寄せの力をもつ聖女だからこそ、こんな途方もない発想が生まれるのだ。過去にはアンジェリーナと同じ策を考えた魔除けの聖女がいて、そのときに作られたのがあの遺跡――――防御陣ということになる。
どれだけの魔獣が押し寄せてもアンジェリーナは魔力を放出する圧力をゆるめなかった。もっと濃く、もっと遠くまで。周囲を徘徊する魔獣や魔物もこの機会にできるだけ減らしておきたい。ただ本気を出すと不可抗力でこんな迷惑なものまで釣れてしまう。
「ワハハハハハハ、なんと甘美で極上の魔力ぞ! 喜ぶがいい、我が嫁に」
「邪魔」
「ブフォッ」
視界の端から物体が消えて何かが煌めく星になった。アンジェリーナが弱体化の効果を付与して、限界まで固めた結界をぶち当てたからだ。でも平気、ヤツらはこの程度では死なない。アンジェリーナが踏んでも潰しても懲りもせずに湧いてくるのだから。
大事なことなので二回言うが、防御陣に守られたアンジェリーナの姿は魔獣や魔物の目には見えない。だがごく稀に人の血が混じる魔とつくモノには見えてしまうことがある。魔という言葉の後ろに人とか王とかついているらしいが仕事中に余計なことするな、うっとうしい。ちなみに妖艶な美魔女だったおばあさまは仕事中に二回ほど拐われかけたそうだ。節操なし、乙女の敵確定だな。
アンジェリーナは裂け目の奥を見つめた。暗闇から獲物を狙うように赤い目がいくつも炯々と光っている。オオン、オオン……アンジェリーナという餌を求める彼らの怨嗟の声が地の底から絶え間なく響いていた。
残酷だよね、たぶらかして地の底に突き落とすのだから。
一瞬、ジルベルト隊長の顔が浮かんだ。だましているという認識があるだけにアンジェリーナの心は痛む。彼との美しい思い出をアンジェリーナはこの場所に置いていくつもりだ。そして……心の奥底に芽生えたばかりの思いも一緒に。
アンジェリーナは今このときも奮闘しているだろう彼の姿を思い浮かべる。自分にはない清廉潔白な強さ。どんな敵にも臆せずに立ち向かう揺るぎない背中を見たときから、胸が騒いで仕方がなかった。
でも仕方のないことだ、愛を失うのは他人の好意を利用するアンジェリーナへの罰だから。
それでも二年前に果たせなかった義務を果たして、きっちりとケジメをつける。死んだ兵士達が命懸けで守ろうとしたものを、今度はアンジェリーナが守るのだ。
アンジェリーナの視界の先では流れる滝の水のように巨体が為す術もなく裂け目から地の底へと次々に落ちていく。やがて数え切れないくらいいたはずの魔獣の群れは地上から完全に姿を消した。翼を持つ個体も飛んできたが、撃ち落として同じように裂け目へと叩き落とす。
さて、そろそろ終幕かしら。
いくら活性化した魔力だまりだろうと魔獣や魔物を生み出す数は無限ではない。一度出しきったら再び力を貯めなくては強い個体を生み出すことはできないのだ。それが自然の摂理というもの。
つまり、これで今回の魔獣の大移動は終わった。数頭、はぐれとなった個体は森の中に取り残されているけれど、あれくらいなら残しても差し支えないだろう。精鋭揃いの特務部隊なら片手間の相手だ。アンジェリーナは再び手を組んで額に当てると内側の色を塗り替えていく。黒から、白へ。もとのアンジェリーナに戻すために。頭の先から爪の先まで完全に内側の色を変えたアンジェリーナは、ほっと息を吐いて目を開けた。アンジェリーナの視線は裂け目の奥に蠢く魔をとらえる。
なんてわかりやすい。
万を超える憎しみに燃えた視線が突き刺さった。先ほどまで純粋に思慕の色合いが濃かった視線は跡形もなく消え失せ、アンジェリーナを憎むべき敵としか認識していないのがよくわかる。今のアンジェリーナは魔除け、彼らにとって天敵。魔法とはなんとも罪つくりな力だ、いくらでも自分を甘く優しく偽ることができる。
魔に対してかわいそうという負の感情がアンジェリーナを侵食した。
「っと、いけない。これがおばあさまの言っていた副作用のひとつか」
内側を黒く塗り替えるとね、魔に愛着が湧くのだよ。染まりたいという欲求に抗いにくくなる。
だから引きずり込まれないように警戒せよ、と。たしかにこれは意識していないと危険だわ。でも大丈夫、ちゃんとわかっている。私には果たすべき義務があるということを。
「さあ、最後の仕上げね」
アンジェリーナは魔力を練り上げる。痛みなく、一瞬で終わらせるためにも威力は最大で。
「次に生まれ変わるときは、魔獣や魔物ではない別の生き物に生まれるといいわね」
それでもこのくらいなら寄り添っても許されるだろう、せめてもの餞となるように。
かわいい、かわいい魔物達――――では、さようなら。
「さ迷える魂よ、天に還れ」
アンジェリーナは裂け目に浄化の魔法を放った。膨大な光の渦がうねりながら裂け目に落ちて、浄化の光は地下世界をあまねく照らす。まるで太陽が落ちたようだわ。でもどれほど強い光を間近で浴びたとしても、浄化の光がアンジェリーナを焼くことはない。まるで温もりに包まれたような安心感を覚えるだけだ。
光が収束し、少し時間が経ったところでアンジェリーナは裂け目を覗き込んだ。見渡す限り、真っ暗な闇の奥。先ほどまで蠢いていた赤い光が再び瞬くことはない。安堵したようにアンジェリーナは深く息を吐いた。
ようやく終わった……終わってしまったのだ。
「アンジュ!」
風に乗って誰かの叫ぶ声が聞こえる。本当に、あの人はタイミングが良いのか悪いのか。アンジェリーナにとって間の悪いときに居合わせる。はじめて出会った時と同じように、簡単には逃してくれないだろうとは薄々感じていたけれど。相手が誰かなんてわかりきっているのに今はどうしても素直に顔を上げることができなかった。
アンジェリーナは火を消して防御陣を解除した。ローブを纏ったまま、鞄を肩から下げる。一応、お世話になったのだから最後のご挨拶くらいはしなければ。魔法を使わなくても届く距離、吊り橋の中程まで渡ったところで足を止めた。
ぐらり、ぐらり。ギシギシと軋むような音を立てて揺れる吊り橋は私の心みたいだ。
ジルベルト隊長は懸命に言葉を尽くして渡らせようとする。けれどアンジェリーナは戻るわけにいかない。焦れたように彼はアンジェリーナへと手を伸ばした。拒絶するようにアンジェリーナは顔をあげる。
「アンジュ、その瞳の色はなんだ。君は一体何なんだ?」
見られてしまったと、アンジェリーナはあきらめたように笑った。
魔寄せの力を使うと一時的に瞳の虹彩や角膜まで血のような赤に染まる。まるで魔のつくものと同じだと思って、最初はこわくて泣いてしまった。
……だから、顔をあげたくなかったのに。これもまた魔寄せの力を使ったときの副作用だ。しかもいつ戻るかは力の使い方によってまちまちで。数分か、数十分か。時間を気にしたことはないけれど、けっこう派手に力を使ったし、しばらくはこのままだろうな。ジルベルト隊長は呆然とした顔でつぶやいた。
「まさか君も魔物なのか?」
「そうかもしれません」
あえて否定しなかった。これで完全に嫌われただろう。でもいいの。アンジェリーナは胸に芽生えた小さな痛みには気がつかない振りをして微笑んだ。
「今後の魔獣対策に役立ちそうな情報は部屋に資料としてまとめて置いてあります。古い情報も含まれていますので、参考にならないと判断したら処分していただいてかまいません」
「どういうことだ、君は何をしたんだ?」
何をした、当然のことをだ。アンジェリーナは傲慢にも聞こえる口調で答えた。胸を張って、そこにある大事なものを確かめるように手を当てて。
「不当に貶められた矜持を取り戻したまで」
彼はハッとした顔で息を呑んだ。あなた達の望む義務を果たしたの。だからもう国に縛りつけられるのはごめんだわ。アンジェリーナは瞳を伏せ、決意をこめて再び開いた。
「瞳の色が、紫に。戻ったのか……君は一体、何を」
「私を許さなくていい。うらんで、憎んだままでもかまわない」
「アンジュ、君は何を言っている。説明してくれなければわからない」
ジルベルト隊長の気持ちが痛いほど伝わってくる。君を助けたいのだ、と。
それは私が何者かを知らないからだ。今回の顛末を聞けばセントレア王国は必ず確認するだろう。黒髪に紫水晶色の瞳をした魔除けの聖女がいるのではないかと。そして遅かれ早かれ、リゾルド=ロバルディア王国は私が魔除けの聖女であると気がつくはずだ。だから戻れないのよ。アンジェリーナはうつむくことなく前を向いた。
「尽きることのない怒りを抱いたまま、ひたすら力を蓄える。そうすればあなた達はもっと強くなれるでしょう」
そうなればもう魔除けの聖女は必要ない。だからそうなる前に魔除けの聖女は表舞台から姿を消すのだ。誰もが幸せになれるように。もちろん、アンジェリーナ自身も幸せになりたい。そのためには全てを断ち切る勇気が必要だった。
アンジェリーナは鞄から小刀を取り出す。断魔の小刀と呼ばれ、魔力を帯びた物質ならなんでも断ち切ることのできる妖刀。魔を弾き、切り裂くために銀でできている。魔除けの聖女のために武器錬成の聖女が鍛えた品とされ、アンジェリーナ自身が対魔戦で扱うことのできる唯一の武器だ。慣れないから滅多に使ったことはないけれどね。
「アンジュ、何をする気だ!」
「あなた達には関係のないこと。私のことは忘れてください」
冷めた表情で、あえて冷たく言い放った。興味を失ったように背を向ける。
「……さようなら、幸せになってくださいね」
ずるくて嘘つきだけれど、この願いは本物だ。アンジェリーナは小刀で吊り橋の縄を切った。刃物でも魔法でも切れないはずの縄が激しい音を立てて切れる。支えを失ったアンジェリーナの体は裂け目の上に投げ出された。
「っ、アンジュ……って、は⁉︎」
ジルベルト隊長のちょっと間の抜けた声がして、アンジェリーナはくくっと笑った。思ったとおり。ローブに付与された空中浮遊の効果で風を受けたアンジェリーナの体は裂け目に落下しない。その代わりに、下から吹き上げる強い風に煽られて、一気に向こう岸へと投げ出される。
よっしゃ、このまま華麗に着地して隣国に脱出だー!
と、思ったけれど意外に勢いがついている。このまま地面に落ちると腰と背中を打ちつけてしまうかもしれない。しまった、これは想定外だわー。まあ、調薬の聖女特製治癒薬もあるから命さえあればきっと助かる。
そう覚悟を決めて受け身の体勢をとったアンジェリーナだったが、向こう岸にたどり着いても地面に体を打ちつけることはなかった。その代わりに、なぜかふわりとした柔らかいものに包まれる。
「ほんと無駄に思い切りがよくて危なっかしいところがあるよね」
「へ?」
「でも残念、つかまえた」
顔をあげると、そこには満面に笑みを浮かべたフェレス副隊長がいた。この柔らかい感じは、どうやら彼の腕のなかでしっかりと抱きとめられたから。理解した瞬間、顔から血の気がザッと音を立てるように引いた。
なんでこちら側にフェレス副隊長がいるの⁉︎
「対人戦闘能力は皆無と聞いていたけれど、これだけ近づいてもまったく気がつかないなんて相当だ」
「ど、どうして、どうやって⁉︎」
「どうやらアンジュは橋さえ落とせば反対側には渡ってこれないと思っていたようだけれど、誰がそう言った?」
「……嘘でしょう」
「たしかに吊り橋を落とす計画があったけれど、縄は切れないし魔法は効かないしで断念した。でもね、ここは我が国の領土なんだ。橋がなければ渡れないのなら、そもそも吊り橋を落とす計画なんて立てないよ。橋を補強するとか、転移の魔道具を設置するとか、やり方はいくらでもある。では補強もせず転移の魔道具を設置するわけでもないのに、なぜ吊り橋を落とす計画が立てられたのか」
「……」
「ずる賢いところのあるアンジュなら、もうわかるよね。あ、念のため言っておくけれど褒め言葉だから」
絶対に褒めてない、目が笑っていないもの。でもフェレス副隊長の言いたいことがわかってしまった。
「我々は吊り橋を使わなくても対岸に渡る手段をすでに獲得しているからだよ」
正解はアレだ。フェレス副隊長はアンジェリーナを抱っこしたまま体の向きを変えた。そこにはなんで気がつかなかったのか不思議なくらい立派な最新の魔道具が鎮座していた。どれだけ視野が狭かったのよ、私……。
「ここには我が国の秘匿技術が使われている。必要に応じて向こう岸へ橋を架ける魔道具なんだ」
内緒だよ、と囁いてフェレス副隊長は魔力を流した。音もなく動き出したのは透明な板。橋を形成しているはずなのに、まったく起動音がしないとはどういう構造なのよ?
「優位になるように音を極限まで静かにして兵士の姿を隠蔽できる特別な素材を使用している。魔獣狩りだけでなく今回みたいな隠密行動には便利だよね」
コワイヨ、その含みをもたせた言い回しが。それ絶対国家機密じゃないですか!
音もなく継ぎ目ひとつない透明な橋ができあがった……らしい。目に見えないのにどうやって渡るのよこれ。フェレス副隊長は無言でアンジェリーナを降ろした。
「さあ、どうぞ」
「どうぞって、なんでしょう⁉︎」
「渡れるでしょう、一人で」
「ムリムリムリ、絶対無理ですよ! 橋の床板ないじゃないですか!」
「ありますよ、ほらここに」
コンコンと叩く仕草をするとたしかに音はある、でも橋の継ぎ目すら見えない。どれだけ目を凝らしてもまったく視界に映らないのですが⁉︎
「完全に透けているじゃないですか。裂け目の上を歩くなんてこわいです、こんなところ一人で渡れませんよ!」
「おや、吊り橋の綱を切って空中浮遊を経験した人間がずいぶんと弱気ですね」
「だって見えないのですよ、つかむどころか踏むところもわからない橋なんてあり得ます⁉︎」
「そうですね、踏みはずしたら裂け目に真っ逆さまですからね」
甘い声で囁く台詞ではない。鬼畜というのは設定だけではなかったのか。涙目になったアンジェリーナをフェレス副隊長はもう一度抱き上げる
「わかりました、一緒に渡ってあげますよ」
「ではなく逃げ」
「この期に及んで逃すと思いますか?」
ですよねー。しかも抱き上げるというか、そのままするっと肩に担ぎましたよこの人。落ちないように腰をガッチリホールドされているから絶対に逃げられない。それでも逃れようと足掻いていると呆れた顔をしたジルベルト隊長がそばに立っていた。見えないはずの橋を渡ってきたらしい。おかしいよね、みんなどうして見えないのに渡れるの?
「何遊んでいるんだ?」
「これが遊んでいるように見えますか!」
「いえ、アンジュがこわいというから運んで差し上げようと思いまして……この体勢で」
フェレス副隊長がいい笑顔で答えるとジルベルト隊長はニヤリと笑う。
「それはいいな、きっと楽しいぞ?」
「そんなわけないですよね!」
ゆらゆら揺れて不安定だし、見たくないのに裂け目の底がよく見える。恐怖十割増しです!
「さんざん我々を振り回した罰だ。フェレス、逃すなよ」
「もちろん」
「聞きたいことが山ほどある。覚悟しておけ」
ジルベルト隊長は闇を背負ったおそろしい顔で笑った。アンジェリーナは顔面蒼白だ。鬼畜の上司もやっぱり鬼だった。だがいまさら気がついたとしても、もう遅い。肩に担いだまま普通に橋を渡り始めたフェレス副隊長は途中でピタリと足を止めた。
「逃げてもいいですよ、ここに置き去りにしますけれど?」
「いやだー!」
フェレス副隊長が一歩足を進めるたびにアンジェリーナのライフがゴリゴリ削られていく。ついには涙目になったアンジェリーナの顔を見て、フェレス副隊長は頬を赤らめた。
「アンジュの泣き顔もかわいいですね」
だからなんでうれしそうなわけ⁉︎