第十二話 最初から奥の手を使います
一瞬の浮遊感のあと、アンジェリーナは地表に降り立つ。風に煽られて漆黒の髪が舞った。
「ここに出るのか!」
転移した先は、前回裂け目を挟んで向こう側にあった遺跡のところ。強く風が吹きつけると、裂け目からは相変わらずオオン、オオンという悲しげな音がした。
吹きすさぶ風の隙間に、ほんのわずかだけれど武器のぶつかる音と爆発音が混じっている。ついにはじまったわね。アンジェリーナは口角をあげる。
いまごろ盛り上がっているだろうなー。
気づかれないようにアンジェリーナは兵士の戦闘力を底上げしておいた。数週間かけて少しずつ食堂の食事に効果を付与したのだ。個々の特性に合わせて、毒や火炎に対する耐久力向上、対魔戦の近接攻撃や遠距離攻撃のダメージ増加、能力増幅などなど。アンジェリーナの魔除けの力を兵士の体に馴染ませることで、いざというときにアンジェリーナがいなくても効果を発揮するように調整した。
ついでに治療用の水を汲む樽には毒無効と浄化の効果を付与しておいた。これなら水で洗い流すだけで傷口が浄化されるから聖水を使わなくて済む。もちろんどちらも効果は一時的なものだが時間稼ぎにはなるだろう。
視線を戻すと再び遺跡を観察した。石柱の配置に丸石の並び方。それらはやはりアンジェリーナの予想どおり、一定の規則性をもって並んでいた。
この並びは間違いない。魔除けの聖女特製防御陣だ。
防御陣は魔のつくものから聖女の姿を隠蔽する。今は力を失っているけれど、儀式によって効力を取り戻せば使えるはずだ。アンジェリーナは手早く薪で火を起こすと、丸石を中心とした六方を囲む円柱の上にある受け皿へ油を落とした。そして足元に咲くフィラニウムの葉と花を摘みとった。
「さすがおばあさま、用意周到だなー」
フィラニウムこそ、この結界の要。アンジェリーナは呪を唱えつつ受け皿にちぎった葉と花を散らす。乾燥させたものでも効果はあるが、生花のほうが効果が高く長持ちするそうだ。続いて薪に移した火を皿に近づけると、引き寄せられるように火が移った。火の朱色が金に色を変え、丸く形を変えて皿のうえに灯る。強風に揺らぐこともなく、安定した形を保ったまま周囲を明るく照らす浄化の炎。玉のような金の炎を見つめてアンジェリーナはしみじみとつぶやいた。
「本当、不思議よね。風でも水でも消えない火って」
アンジェリーナが命じない限り、この火は消えない。そして防御陣がある限り、アンジェリーナは魔獣や魔物に襲われることはないのだ。ただ人間の目からはアンジェリーナの姿が見えてしまうので、側からみると怪しい儀式やってる不審者にしか見えないけれど。だから隠れてコソコソ準備しているというわけです。
さて、最後の仕上げだ。アンジェリーナは鞄に手を入れてローブを取り出した。魔除けの聖女を象徴する紫に、魔除けの効果をもつ銀糸で刺繍を施してある。魔法抵抗向上にダメージ減少、毒無効、効率強化と攻撃力増加。あらゆる便利機能を搭載した逸品。魔除けの聖女にとって戦闘服というものだ。
繊細な刺繍で限界まで飾り立てた装飾と、背後のでっかい紋章を確認してアンジェリーナは深々とため息をついた。
「いやー、相変わらずド派手だ。コレをはじめて見たときは初代がずいぶんとはっちゃけたんだなって思ったよ」
銀糸の刺繍はまだいい。五色の錦糸を使い背中に描かれた紋様がさらに豪華なのだ。剣、杖、聖杯、それをぐるりと囲むようにフィラニウムの葉が描かれている。これだけド派手なのに格調高く品位を損ねていないのは、さすが国の威信をかけた品だけあるわ。
ちなみにこれははっちゃけた初代が作らせたものではなく、セントレア王国の始祖が命じ、当時の最高技術を総動員して織り上げたものを褒章として下賜した。つまり昔は王家と魔除けの聖女は仲良くしていたという証拠。
アンジェリーナはローブに手を通す。魔力を流すと、紋様が輝きを取り戻した。
「まあこのローブを身につけて舞台に立つと気分があがるというのはたしかね」
魔除けの聖女と王家の友好関係は時代を重ねるに従い、使役する側とされる側の立場に変わってしまった。平和に慣れて、いつしか国は忘れてしまったのだろう。魔除けの聖女は魔とつくものから大切なものを守護するために戦う存在だということを。裏を返せば、守りたいと思わなければ魔除けの聖女は全力を発揮することができない。
魔除けの聖女が神に課されている制約を覚えていたら国は決してアンジェリーナを蔑ろにはできなかった。
それなのに当代のセントレア王はどうして魔除けの聖女の名を貶めるような行為を黙認したのか。かばってもくれない相手をどうしてアンジェリーナが大切に守ってくれると思い込んでいたのか不思議だわ。
まあいい、もうどうでもいいことだ。答えはきっとこの迷走の先にあるはず。アンジェリーナは天を仰ぎ、頂上に燦然と輝く太陽に目を細めた。
「それでは最初から全力でいきます。弟子の成長をごらんになってください」
天国のおばあさまに今までの練習の成果を見せるときだ。アンジェリーナは出し惜しみせず初手から奥の手を使うことにした。両手を組むと、拳を額に当てて目を閉じる。神殿での祈りの姿勢、アンジェリーナにとってこの姿勢が一番集中できるから。意識を集中して自分の内側を真逆の色に染めあげていく。
普段のアンジェリーナを白とすれば、ここにいるのは黒。頭の先から爪先まで、内側を真っ黒に塗り替える。一片の塗り残しもないよう、細心の注意を払って濃厚に甘く仕立てる。
そして完全に塗り替えたところでアンジェリーナは目を開けた。それから裂け目の向こう側、第六の門の先にある魔の巣窟を思い浮かべる。きっと特務部隊の兵士は補給が切れて厳しい戦いを強いられていることだろう。さらに夜になれば魔がつくものはより活性化する。これからどんどん迎え撃つ人間の側に不利になっていくのだ。
でももう自由時間は終わりよ。日が暮れて宵闇が訪れる前に全てを終わらせるの。
アンジェリーナは類稀なる美しさで国を傾けた妖狐のように艶やかな微笑みを浮かべ、魔の巣窟のある方角に、ゆるりと手を差し伸べる。そして船乗りを岩礁に誘うセイレーンのように、柔らかな声を響かせた。
「魔のつくものよ、こっちへおいで。ここには魔力だまりよりも美味しい餌が待っているわ」
そして真っ黒に染めあげた魔力を解放する。アンジェリーナの体を中心として魔のつくものだけが感じ取れる甘くて濃厚な闇の香りが波動のようにゆるやかに広がっていく。
アンジェリーナが己が内側から生み出す闇の魔力。魔のつくものにとってこの世でもっとも甘美なもので、彼らを酔わせ狂わせる極上の餌だ。
魔除けの聖女が秘技、魔寄せ。
物事には裏がある。この力があるからこそ魔除けの聖女は対魔という限られた分野で最強なのだ。
さあおいで、おいでよ。
甘く誘うアンジェリーナの声が魔の巣窟に届いた。
――――
「……っ、大丈夫だ!」
ジルベルトは間一髪、ヘルハウンドを切り捨てた。しかも奇跡的に傷ひとつ負っていない。一瞬、不自然な間が空いてヤツの気がそれた。どうやら運に救われたらしい。だがこの奇跡のような出来事は、それ以降に起きた不可解な現象によってジルベルトの記憶から呆気なく消え去る。
「何が起きている?」
「こ、これは一体……」
先ほどまで我が物顔で暴れ回っていた魔獣や魔物が何かに気を取られた様子でピタリと動きを止めていた。目の前には武器を携えた兵士がいるというのに、それすらも視界に入らないほど気になる何かがあるようだ。
そして次の瞬間、一斉に走り出した――――第六の門へと。
「なっ、あいつら何を⁉︎」
ジルベルトははじめて第六の門が使われる様子を目の当たりにした。信じられないほど大量の土煙が立ち昇り、地を揺らしながら次々に門を潜って遺跡の方角を目指していく。
「あの先に何かあるのか?」
魔力だまりを目指すときと同様の秩序を保って、まるで追い立てられるように魔獣は先へ先へと突き進んでいく。その様子はあまりにも異様で兵士達は蹴り飛ばされないよう避けるので精一杯だった。そしてその不可解な現象は魔の巣窟にも影響を及ぼし、何千という魔獣や魔物が生まれた瞬間に、剣を振るう兵士に欠片も視線を向けることなく第六の門を目指して駆けていく。ケルベロスやオーガ、ゴブリンキングや配下のゴブリンも皆同じ、まるで取り憑かれたように第六の門を目指していく。すでに万を超える魔のつくものが生まれたはずなのに、中庭には一頭も残っていないとはどういうことか。
やがて力を出し切ったように魔の巣窟はコポコポと小さな泡を生み出すことしかできなくなっていた。当初に感じた爆発的な力を感じることができず、魔獣や魔物が這い出る様子もなかった。
「終わったのか……?」
信じられない思いで誰もが剣を振う手を止めた。たしかに、前回の魔獣の大移動もこんなふうに唐突に終わったものだ。だが各国に繋がる門を開放しないというのははじめてのこと。あれほど強い魔を生み出していた魔の巣窟が、これほど呆気なく力を出し切るなんて。こんな結末を誰も予想だにしていなかった。
「魔獣の大移動が終わったぞ!」
誰かがそう叫んだ。その言葉を皮切りに静まり返った中庭に兵士の歓喜の雄叫びがあがる。結局、怪我をした兵士はいても死者は出なかった。
だが本当にこれで終わりなのか?
反射的にジルベルトは魔獣の背後を追った。
「変則的に湧く魔獣がいるはずだ、討伐は継続。ただし各隊の副隊長は必要に応じて休憩と兵を入れ替えるように。私は魔獣を追う、変化があれば通信用の魔道具で報告せよ!」
「はい!」
こんな現象は今まで見たことがない。彼の隣に手当てを終えたフェレスが並走する。
「隊長、第六の門の先にある隣国も警戒して兵を配置しているとのことです。ですが今のところ到達する個体はいないとのことでした。しかもあの門の方角は魔力だまりとかけ離れた場所にあります」
ならば、どうして。何が彼らを引き寄せたのか。取り憑かれたような魔獣の群れを切り伏せ、器用に避けながら、ジルベルトとフェレスは大樹の脇に到着した。そして陰に隠されたものに二人の視線が釘づけになる。
「なっ!」
「ど、どうして使えないはずでは……」
視線の先では転移の魔道具が鈍い光を放っていた。明らかに誰かが使用した痕跡がある。やがて転移の魔道具は音を立てて点滅を繰り返したあと、急に光を失った。
「魔力切れか!」
いつから動いていたのかはわからない。けれど誰かが動かしたというのは明白。ではこの先には誰が?
――――だったら秘密です。
あのとき熟れた果実のように赤い唇はそう紡いだ。彼女はこの先に何があるのかを知っている。そして、彼女の内側にはとてつもない何かを成し遂げるくらいに膨大な魔力の気配があったはずだ。
「……まさか、アンジュ?」
「隊長?」
アンジュ、君は何をした?
ジルベルトは走り出した。追い立てられるように魔獣の背後を追う。そしてがむしゃらに走りながらもジルベルトは恐ろしいほどの効果と密度を保つ魔法の存在に気がついていた。
魔法を読む力に長けたジルベルトがはじめて知る魔法。
まさかこれほどまでに圧倒的な力を有する者がこの世に存在するとは。
隣に立つフェレスの顔色も悪い。明らかに魔力だまりとは違う濃厚な魔力の気配を感じたからだろう。擬似的に魔法で作り出したものらしいが、これだけの純度を保つとは一体どんな存在なんだ。ジルベルトの心拍数がさらにあがる。夜の闇の包み込むような優しさによく似ているせいで身も心も囚われてしまいそうだ。
禍々しい闇の魔法を美しいと感じるなんて、どう考えてもおかしいだろう。
走り続けて、ようやく頂上にたどり着いた。そして目の前の光景に呆然として言葉を失う。衝動に突き動かされるようにして魔獣や魔物が次々と裂け目に落ちていくのだ。為す術もなく、無抵抗のままで。まさか第六の門を通り過ぎた魔獣はすべてこの裂け目に落ちたというのか。
そんな奇跡を、一体どうやって?
呆然と言葉を失ったジルベルトの前で今度は別の大規模な魔法が行使された。裂け目のすべてを覆うような強い光と地を揺るがすような轟音が響き渡る。あまりの眩しさにジルベルトは目元を腕でかばった。火属性ではない、まるで太陽が落ちてきたようだ。何が起きたのか、それに静かすぎる。音もなく土煙が消えて、ようやく視界が開けた。
「……嘘だろう」
足元をのぞき込んで呆然とした。裂け目の隙間で醜く蠢めいていた魔獣の姿が一瞬にして消え失せていたのだ。ジルベルトは言葉を失った。裂け目の奥からはオオン、オオンという風の音しかしない。そして顔をあげたジルベルトの視線が紫色のローブをまとう少女の姿をとらえた。
「アンジュ!」
見覚えのある艶やかで闇のような黒い髪が跳ねた。
「君はどうしてここに?」
魔法を使い、音声を崖の向こう側に届ける。アンジェリーナからは答えはなかった。ただ黙々と作業を続けている。石柱に灯る光の玉を消し、遺跡から出ると揺れる吊り橋の中ほどまで歩いて足を止めた。どこか不穏な空気を醸し出す黒い髪と、正反対の豪奢なローブが下から吹き抜ける風に煽られて吊り橋がギシギシと嫌な音を立てる。
「おつかれさまです、ジルベルト隊長」
「そこは危険だ。まずは君がこちらへ渡って安全を確保したところで話をしたい」
不安定で、今にも裂け目に落ちそうだ。それを甘んじて受け入れるようなアンジェリーナの態度に不安がつのる。面を伏せているから表情は見えない。ただ彼女の首筋に飾った銀の石が不安そうに揺れている。
「まもなく日が暮れる。魔のつくものは活性化する時間だ、とにかくこちらへ。話すのはそれからだ」
「ご無事でなによりです。大きな怪我はなさっていないようですが、きちんと手当てされてくださいね。隊員の皆様はいかがでしょう?」
まるでこちらの話を聞いていないかのような態度だ。ジルベルトは早口にまくしたてる。
「傷を負った者はいるが全員命は無事だ。砦の損壊はあるが門を開放することもなく終わったから民間人にも怪我人はいない。さあ、早くこちらへ!」
ギシリ、また風によって橋が揺れる。焦れたジルベルトは吊り橋に足を踏み入れようとした。
「こないで!」
はじめて彼女から投げつけられた拒絶の言葉。ハッとしてジルベルトは足を止める。ようやくアンジェリーナは顔をあげた。そして彼女の顔を見てジルベルトは息を呑んだ。
「アンジュ、その瞳の色はなんだ。君は何をしたんだ?」
アンジュの瞳が赤い。瞳の虹彩や角膜まで血のような赤に染まって――――まるで魔のつくものと同じ。凪いだような、彼女の冷静すぎる瞳の温度が不安をかき立てる。
「まさか君は魔物なのか?」
そうではない、そんなことはわかっている。ただどうしても彼女の声で、否定する言葉が聞きたかった。
「そうかもしれません」
あいまいに笑うアンジェリーナの瞳は、いつかのように悲しげに揺れていた。