第十一話 平穏は突然終わりました
かりそめの平穏は、やはり唐突に終わるものだった。朝食が終わり、厨房の後片付けを手伝っていたアンジェリーナは布巾でテーブルを拭く手を止めた。
「はじまった」
アンジェリーナが異変に気がついて、ジルベルト隊長経由で国に進言したあの日から三週間と六日。明日はフェレス副隊長に誘われて、二人で買い出しに出かける予定だった。よくわからないけれど誰かの胃袋を掴む作戦のために、彼がおすすめしたいという甘い物を一緒に食べに行くという約束をしていたのだ。
……約束が果たせなくなってしまったな。
満杯になった器から水があふれ出すような感覚。放出された魔力の圧力は想像以上だった。これではアンジェリーナの他にも気がついた人がいるかもしれない。アンジェリーナはなんでもない振りをして食器棚のほうを振り向いた。
「エルダさん、人が引けたので先に休憩に入ってもいいですか?」
「ああ本当だ、もうそんな時間だね。良いよ、先に休憩に入りな」
「ではお先に休憩入りますー」
「いつも言っているけど、危ないからね。魔の巣窟には近づくんじゃないよ?」
「わかりました、エルダさんも合図の鐘の音に気をつけてくださいね! もしかしたら、今この瞬間にもはじまっているかもしれませんよ?」
「ああ、わかった。気をつけるよ」
警告はした、あとは彼女の運次第。アンジェリーナは勢いよく走り出した。自室に戻って鞄をつかみ、用意しておいた手紙を机の上に置いた。
内容は色変え魔法薬を売った商人を見つけたので追って旅に出ること。突然辞めてしまったことへの謝罪と感謝の気持ち。これでもしアンジェリーナの不在が問題になったとしても探そうとはしないだろう。
アンジェリーナの嘘はこれで完結。あとは魔獣の大移動を処理して、そして今度こそ旅に出るだけだ。ほんの少しだけ痛む胸を押さえつつ、部屋の鍵を手紙と一緒に置いて最後に部屋を見回した。
「おせわになりました、ありがとうございます!」
アンジェリーナは部屋を飛び出した。急げ、急げ……ここからは時間との勝負だ!
宿舎を出て、魔の巣窟の状況を確認する。すでに兵士達が防具をまとい、武器を手にして取り囲みつつあった。さすがリゾルド=ロバルディア王国でも選び抜かれた精鋭ばかり。こういう勘の良さがないとこの厳しい環境では生き残れないということか。その輪の先頭に厳しい表情をしたジルベルト隊長とフェレス副隊長の姿があるのを確認して、アンジェリーナは口角をあげる。やっぱりすごい人達だなー。
リゾルド=ロバルディア王国にとって彼らこそ対魔戦の要だ。今回は全力で支援しますよ、一人も欠けることなく生き残れるように。アンジェリーナは目立たないように細心の注意を払って第六の門をくぐった。そして大樹の奥に隠された転移の魔道具を調べる。
「あった、あった。ここに手をかざせばいいのね」
紋章に手をかざすと認証したようで魔道具が音を立てながら起動した。どのくらい魔力を充填すればいいのかな、古い機械だから燃費が悪そうだ。一瞬にしてそこそこの魔力が抜かれたけれど、点滅する光が使えることを教えてくれる。壊れてないみたい。手ごたえを感じてアンジェリーナはニヤリと笑った。
ジルベルト隊長はこの魔道具を使えないと言ったけれど、正解は使えないのではなく魔除けの聖女の力でのみ動くように作られているからだった。
やはりこの地と魔除けの聖女に関わりがあるのは間違いない。魔の巣窟の主との因縁はアンジェリーナには計り知れないほど昔から綿々と引き継がれているものらしい。
魔の巣窟の脈動が一際大きく跳ねた。巣窟の奥で主が解放されたという歓喜の雄叫びをあげている。
「よし、ここから先は手加減なしだ」
挑めというのなら、全力で受けて立つ。転移するアンジェリーナの背後で、魔獣の大移動のはじまりを告げる鐘の音が高らかに鳴り響いた。
――――
剣を振るう手を止めて、ジルベルトは顔を上げた。
「……なんだ今のは」
アンジェリーナがはじまりを予知したとき、ジルベルトも同時に何かが弾けた気配を感じていた。気配は途絶えることなく続き、波打つような間隔が徐々に短くなっていく。
「隊長!」
倉庫の扉を開け放ち、フェレスが血相を変えて飛び出してきた。備品の最終確認をすると籠っていたはずだが……視線があった瞬間、ジルベルトは反射的に叫んだ。
「配置につけ、大移動がはじまるぞ!」
ジルベルトが走り出すと誰もがハッとした顔で駆け出していく。魔獣の大移動がはじまる直前はいつでも対応できる体制をつくるため、武器と装備を身につけたまま戦闘訓練を行う。
夜間でなくてよかった。就寝中であればどうしても初動が遅くなる。特に夜には魔獣や魔物の力が強くなるためさらに手こずるだろう。それにしても前回はこんな異常な感じがすることもなく突然はじまったのに、今回は異例ずくめだ。
「魔獣は?」
「まだです、ですが押し寄せる気配はあります!」
見張りの兵士が叫んだ。ジルベルトがのぞき込むと同時に魔力だまりに浮かぶ泡が弾けた。
「っ、来ます! 下がって!」
フェレスの言葉で下がって距離を取った。すると今まさにジルベルトがいた場所に魔獣が生まれる。体の大きさが三倍以上あって、避けていなければ踏み潰されていたかもしれない。威嚇するように雄叫びをあげて、正面からジルベルトを睨みつける。
「ケルベロスか!」
また大物ばかりを出してきたものだ!
マンティコアにバジリスク、ミノタウロスやオーガなどの人型もいる。上位種ばかりでなく、変異種も含まれているじゃないか。背後で兵士達が大きく息を呑んだ。まるで何者かを警戒するように、持てる強力な駒を余すところなくぶつけてきたような。
いいだろう、上等だ。ジルベルトはケルベロスの牙と爪をよけて、ひとつ首を刎ねた。いつもよりも体が軽く感じた。よし、これならいける。
「鐘を鳴らせ!」
「はい!」
ジルベルトの号令とともに鐘が打ち鳴らされた。そこかしこからあわただしく避難する非戦闘員の姿が視界に映る。ジルベルトは無意識のうちに艶やかな黒を探した。
……アンジェリーナは大丈夫だろうか。
コカトリスを切り捨て、サラマンダーの火を魔法で防ぎつつ、スライムは蹴り飛ばす。蹴り飛ばした先にはちょうどフェレスがいて火属性の魔法を放ち、一気に燃やし尽くした。
「よそ見とは余裕ですね」
「体が軽いと思わないか?」
「それに魔法の威力も上がっています」
「対人戦での訓練のときは普通だった」
「そう、魔獣や魔物に対するときだけ個々の能力が底上げされたとしか思えない不可思議な状況です」
そしてジルベルトに近づくと声を一段低く落とした。
「大丈夫、アンジュは無事ですよ」
「なぜわかる?」
「この時間帯は休憩時間ですから食堂にはいません。それに彼女には避難所のことを教えてありますから逃げられるはずです。鐘のこともですが、緊急避難の放送や地下通路のことも教えてあります」
「……そうか」
「それに何があろうと彼女は確実に生き延びるでしょう。そうは思いませんか?」
「あのふてぶてしさだものな」
ジルベルトはふっと笑った。ついでにコボルトを数体まとめて吹き飛ばす。
「すまない、気が楽になった」
「いいえ、お気になさらず」
フェレスは嫣然と笑って、トレントの群れに火の魔法を放つ。そして小さな声でつぶやいた。
「……本当にあなた達はよく似ている」
二人ともお互いのことしか見えていない。あまりにも手応えがなさすぎて心が折れそうだ。フェレスが腹立ちまぎれに放った火は、瞬く間に燃え広がって周囲の魔獣や魔物を巻き込んでいく。まるで謀ったかのようなタイミングのよさにジルベルトは苦笑いを浮かべた。
「えげつない」
「あなたには言われたくありませんよ」
「違う、褒めているんだ」
ジルベルトは油分の多いスライムを蹴りあげ、燃える魔獣にぶつける。さらに風の魔法で火を煽ってからケルベロスの残った首を切り落とした。
「勢いのあるうちに一体でも多く倒せ!」
「おう!」
脈が動くたびに新たな魔が生まれてくる。あれだけ強力で大量の魔を生み出しながら弱まる気配はなかった。これは長い戦いになりそうだ。決して顔に出すことなくジルベルトはため息をついた。
そしてどのくらいときが過ぎただろうか。陽が天まで昇りきったころ、勢いに乗って攻め続けていたものの、さすがに誰もが体力の限界を迎えつつあった。魔の巣窟からは上位種や変異種を挟みつつ、まったく途切れることなく一定の間隔で魔獣や魔物が姿を現している。強ければ脅威だし、弱くても数は力だ。怪我した兵士が抜けただけ人間側の戦力が落ちている。
まるでじわじわとこちらを痛めつけるような狡猾なやり口だ。だが実に効果的で人間は体力が落ちれば気力も削られる。ここまで追い詰められているのに死者が出ていないのは奇跡だった。
さらに戦況が厳しくなりそうだと判断したジルベルトは疲れを見せはじめたフェレスを振り向く。魔獣の爪先が武具に引っかかって彼の腕の皮膚を浅く裂いた。あっという間にフェレスの片腕が血に染まる。
「フェレス、先に小休憩をとれ」
「っ、すみません。すぐに戻ります!」
人の血の匂いは魔をさらに興奮させ凶暴性が増す。魔獣につけられた傷は速やかに手当てをすることが肝心だ。フェレスは魔法を放ち数体の魔獣を焼き尽くすと退路を作って戦線を離脱しようとした、そのときだ。
なんとも表現できない嫌な予感がしてジルベルトは思わず振り向いた。視線の先には魔の巣窟がある。一際、魔力が膨れ上がって脈動がさらに勢いを増した。
「まさか、ここで第二波だと⁉︎」
かつてない事態にジルベルトだけでなく兵士の動きが止まる。魔力だまりには魔を生み出す強弱の波があって、一気に強い個体が生み出されたあとは比較的勢いが弱まる時間帯がある。そのタイミングを見計らって交代で兵士を休ませたり怪我の手当てをするのだが、今回は途切れることなく強い個体が生み出されている。そのためここまで休憩を取らずに狩り続けてきたのだが、ここにきてまた大量の強い個体が生み出される気配を感じていた。
長期戦に持ち込めば、こちらの体力が落ちて優位に立てる。手持ちの駒を使いさらに策を練るとは、まるで知性があるようではないか。魔の巣窟の奥で見えない何かがこちらの混乱ぶりを嗤ったような気がした。だが、負けるものか。きっと持ちこたえてみせる。生きて帰るとアンジェリーナに約束したのだから。
「隊長!」
「いいから、おまえはそのまま離脱しろ!」
焦ったようなフェレスの声が聞こえて意識が一瞬そちらに向いた。次の瞬間、ジルベルトの頭上に影が落ちる。反射的に避けると、真横を鋭い爪の切先が横切った。かすかに擦れた感覚があって視線を向けると真っ黒な毛並みをした赤い目の犬が狙いを定めていた。
ヘルハウンド。地獄の猟犬がまさか、こんなところに。唐突に姿を現した上位種の顎がぐわりと開いた。口腔は血のように赤い。牙を剥いて飛びかかる魔犬の動きがジルベルトの目にはなぜかゆっくりとして見えた。
こんなところで死ぬのか。アンジュとの約束を果たせないままに。ジルベルトはギリッと奥歯を噛んだ。
「隊長ーー!」
フェレスの声がどこか遠いところから聞こえた。




