第十話 忘れないでおくれ、迷うときは紫色を
オオン、オオン――――。
風が吹き抜けるたびに地の底から悲しげな音が響く。アンジェリーナの耳にはまるで魔獣の鳴き声のように聞こえた。
「……これが魔獣の墓場」
数メートル先の地表に深い裂け目がある。右を見ても左を見ても裂け目の終わりが見えない。なんでも国土を横断するように長く遠いところまで裂け目が続いているそうだ。
裂け目の上には向こう側につながる細い吊り橋がかけられていて、ギシギシと音を立てながら頼りなく揺れていた。ちらりとのぞいた谷底はどこまでも真っ暗で、終わりが見えない。長いことのぞき込んでいると意識がもっていかれて、谷底に引きずりこまれてしまいそうだ。
なるほど、魔獣の墓場とはこの底なしの深い裂け目のことを指すのね。
オオン、オオン――――。
これは這いあがることができないという魔獣の嘆きか。きっとこの悲しげな風の音が名前の由来なのだろう。
「この裂け目の向こう側は隣国の領土と繋がっている。ただ裂け目を挟んで森の手前までは我が国の領土とされているから本来は兵を常駐させて管理すべきところなのだが……さすがにこの吊り橋を渡ってくる勇気のある旅人はいないだろうと半ば放置されているんだ」
「たとえ忍び込んだとしても行き着く先は特務部隊の本部なわけですから、捕まえてしまえば煮るなり焼くなり好きにできると。無防備なだけに、ある意味で最強の罠ですね」
「まあそういうことだ」
続いて彼は一定の間隔を保ち並べられた石柱と、規則性をもって並べられたと思われる丸石を指し示した。
「あれが古代の儀式の跡だと言われている」
「……」
「行きたそうな顔をしているがダメだぞ。吊り橋も古い時代のものだからいつ切れるかわからない」
過去には危ないので吊り橋を落とすという意見もあったそうなのだが、切ろうと思っても未知の魔法が組み込まれているようで剣でも魔法でも切れない。
「失われた魔法のひとつなのだろうな。おそらく特定の刃物でしか切れないようになっている」
大当たり。ジルベルト隊長はおそろしく鋭いところがある。昔、セントレア王国の神官がリゾルド=ロバルディア王国には魔法を認知する能力に長けた人間が生まれると言っていたけれど、彼はそういう人物なのだろう。
この人の前では魔法を極力使わないようにしないと。隊長の意識が他に向いているときならともかく、意識が向いている状態で使ったらうっかりでもバレる自信がある。
アンジェリーナは遺跡のある場所をもう一度確認する。単純に考えれば儀式の行われたであろう遺跡がアンジェリーナの求める目的地だ。ただそこが正解だと確証を得る何かが欲しかった。
「あれ、あそこに紫色の何かがある?」
「本当だ、なんだろう?」
裂け目を挟んで遺跡の向かい側に紫色の何かがあった。灰と小石、倒れた樹木しかない世界で、紫の点のようなものはとてもよく目立つ。
「あ、遺跡にも同じ色がありますよ!」
「偶然だろうが目を引くな」
ちょうど遺跡の真ん中あたりだ。アンジェリーナはこちら側にある紫色の何かに近づいてみる。するとそこには見知った花が咲いていた。
「フィラニウム!」
「本当だ、こんな固い土と小石しかないような場所に珍しい。どこからか種が飛んできたのか?」
点のように見えた紫色はフィラニウムの群生だった。きっと裂け目の向かい側にある紫色の点もフィラニウムなのだろう。踏まれても再び咲き誇る生命力が強い花。そんな花だからこそ、こんな厳しい環境にも適合できたのかもしれない。それにしてもこんなきっちり向かい合うように咲いているなんて……まるで何かの印みたいだ。
アンジェリーナはハッと目を見開く。目印と、紫色。その単語が記憶に残るおばあさまの言葉と重なった。
『かわいいアンジュ、良い子だね――――忘れないでおくれ、迷うときは紫色を探すのさ。代々、魔除けの聖女はこの瞳と同じ紫色を後継者への目印となるよう世界に散りばめてから逝くのだよ』
……ああ、おばあさま。そういうことなのですね。
花に手を添えてアンジェリーナは瞳を潤ませた。
もしかしたら、これはおばあさまが残した目印なのかもしれない。代替わりの前に、たった一度だけ国を出ることを許されたおばあさまが最初で最後の旅行先にリゾルド=ロバルディア王国を選んだのには意味があった。
「アンジュ、どうした?」
「師匠は弟子が約束を守らないことぐらいお見通しだったみたいですね」
おばあさまはアンジェリーナが国を捨て、ここにたどり着く未来を予期していた。かなわないなー、さすが神殿の知恵の書と呼ばれた人だ。アンジェリーナの行動も考え方もしっかり把握されている。
おばあさまが亡くなってから五年以上の月日が経ったのに、日々忙しくてまともに弔うことができなかった。でも国を捨てた代わりに、こうしてようやくおばあさまを悼むことができる。
「ごめんなさい。あまりにも懐かしくて、少しだけ泣いてしまいそうなんです」
アンジェリーナは淡く笑って瞳を閉じた。
そしてジルベルトは、いつもよりずっと大人びたアンジェリーナの横顔を静かに見つめている。
彼女は花の先にどんな景色を思い出しているのだろう。
同じ景色が見えないからこそ、手が出せなくてもどかしい。
うすく影をおびた微笑み。もしかして泣いているのだろうか。
かすかに肩が震えている。脆く崩れてしまいそうな予感にジルベルトはそっと彼女の肩を抱き寄せた。そしてあまりにも細い体つきに驚いた。こんなに華奢な体躯をした女性だったのか。自分の胸の内で容易に包み込むことができてしまうほどにアンジェリーナの体は柔らかく小さい。いつも溌剌と元気よく動き回る姿から、この儚さは想像できなかった。この人を守りたい、甘やかしたい、もっと自分を求めてほしい。
ああ、この気持ちが恋か。音もなくジルベルトは恋に落ちた。
死に一番近いところにいる自分が、手に入れてもいつか失ってしまうもの。だから恋なんて知らないほうが幸せと思っていたのに。気がついてしまえば、これ以上の幸せはなかった。ジルベルトは無言のまま彼女を胸の内に閉じ込めて、同じように瞳を閉じる。
失われてしまうのなら、今だけは芽生えたばかりの思いに殉じたい。
やがてひとつ鼻を啜るとアンジェリーナは顔をあげる。涙の跡もなく、いつもと同じ彼女の顔だ。ただちょっとだけきまり悪いような表情をしているけれど、恋を自覚した今はそんなところも愛おしい。
「泣いた訳を聞かないのですか?」
「聞いてほしいなら聞く」
ああもう、どうしてこんな突き放すような言葉を。ジルベルトは苦い顔をする。自分の愛想のなさにはうんざりだ。だがアンジェリーナは柔らかく微笑んだ。
「隊長は優しいですね」
「そうか?」
「無理やり聞き出すのではなく、相手が話すまで待っていてくれる」
本当は優しくなんてないのに。君は誰だ、どうしてここにいる。今すぐ問いつめて、君の全てを暴いてしまいたい。そんな男が、優しいわけはないというのに。ジルベルトのくすぶる胸の奥を知らないアンジェリーナは無邪気な顔で笑った。
「だったら秘密です」
「意地悪だ」
「ふふ、逃げる隙を与えたほうが悪いのですよ」
惚れたほうが負け、兵士の誰かがそう言っていた。わかる気がする。アンジェリーナには絶対に勝てない。ジルベルトは熱を逃すように息を吐いた。
どうせなら、もっと深く自分の存在を刻みつけておこう。少しでも長く彼女に覚えていてもらえるように。
「アンジュ、君に贈り物がある」
「え?」
「気に入ってくれるといいが」
ジルベルトはポケットから布袋を取り出した。袋からこぼれ落ちたのは小さな石のついたネックレス。アンジェリーナは素材やカットの技術から一目で価値あるものだとわかったらしい。
「こ、こんな高価なものはいただけません!」
「これが最後の機会になるかもしれない。だからこそ、君にこれを受け取ってほしい」
そう返すとアンジェリーナは沈黙した。ずるい手だ。聡い彼女のことだから、きっと意味がわかると思った。ジルベルトがアンジェリーナの手を取ると、その手をためらいがちにアンジェリーナは握り返す。
魔獣の大移動がはじまる前、どれだけ緊迫する状況でも兵士は必ず一日休みをもらえる。その一日を大切な人と過ごしてお別れをするためだ。心残りなく厳しい戦いに臨めるように。
そしてもし命を落とすことがあっても、悔いがないように……。
ジルベルトはアンジェリーナの手のひらにネックレスを置いた。銀の鎖にきらりと銀の石が光る。アンジェリーナは鉱石の輝きに負けないくらい瞳を輝かせた。ジルベルトは口元に手を添えて目元をほんのり赤く染める。好きだと自覚した途端にこれか。今はどんな表情の彼女もかわいいと思えてしまう。
「星水晶、夜空からこぼれ落ちた光の欠片。研ぎ澄まされた剣みたいで、まさに隊長の色ですね」
ジルベルトの髪は灰色、そして瞳もまた銀色だ。ジルベルトは慎重にネックレスの金具を留めてアンジェリーナの首元に飾った。
「きれいだ、よく似合っている」
まるでジルベルトのものだと主張するように星水晶はキラキラと輝く。アンジェリーナの黒の髪と紫色の瞳に銀の細工はよく似合った。それがうれしくて、ジルベルトはアンジェリーナの艶やかな髪をなでる。慈しむような手つきにアンジェリーナは懐かしさを覚えて、柔らかく目を細めた。不器用で、あったかくて。おばあさまの手つきによく似ている。
そしてジルベルトは気持ちよさそうに目を細める仕草がまるで機嫌のいいときの猫みたいだと小さく笑った。
「銀色なら今の黒の髪と紫の瞳にも合う。アンジュが商人を見つけるまで、ずいぶんと時間がかかりそうだから正解だな」
「あはは、けっこう真剣に探してるのですけどねー」
嘘だ、全然探してない。でもそうとは言えないのでアンジェリーナはへらっと笑って誤魔化した。もう一度髪をなでて、ジルベルトは表情を真剣なものに変える。
「でも私は今のままの君も好きだな」
「え?」
「高潔で独立心旺盛な黒と、優雅で神秘的な紫の瞳。元がどんな色をしていたのか知らないけれど、黒の髪と紫の瞳の組み合わせはとてもアンジュらしい色だと思う。きれいなだけではなく、私の知る君自身のように強さと優しさを感じさせる随一の色の組み合わせだ」
強さと、優しさ。不意を突かれて思わず頬を染めた。不気味な黒髪に意地の悪そうな紫の瞳、セントレア王国では魔女とそう言われていたのに。
「不気味とか意地が悪そうとは思わないのですね」
「……誰だ、アンジュにそんな悪口を言った人間は。もしかして兵士か隊員の誰かか?」
「いえ、セントレア王国ではそう言われることもあったなって」
ジルベルト隊長が眉を跳ね上げた。私が絡むと沸点が低すぎる。でもそうやって怒ってくれるのは大切に思う証だから。この黒髪も紫の瞳も悪くない、今ならそう思える。チョロいな、私ったら。ジルベルト隊長は髪を一房すくい上げて、口づけを落とした。
「明るく振る舞う君にそんなつらい過去があったのか。そばにいたら助けてやれたのに」
そう呟いてジルベルトはアンジェリーナの首に下がる石に触れた。
「この石には魔獣を寄せつけない力が宿るとされている。採掘量が少ないのは難点だけれど、国の要所にも使われているから効果はたしかだ。魔獣の大移動がはじまったときはきっとアンジュを守ってくれる」
「そんな貴重な石を……ありがとうございます」
「そしてアンジュ、もし許されるのならば君の心は私が守りたい」
懐深くに抱き込まれてアンジェリーナは呼吸を止めた。この人は惜しみなくアンジェリーナが望むものを捧げてくれる。言葉も、優しさも、強さも、愛も全部だ。困ったなぁ、背中に回した手で彼の上着を強くつかんだ。
「今回の魔獣の大移動はかつてない規模になるだろう。そう予測されたとき死を覚悟した。これで死ぬのだとあきらめていたんだ。そのほうが、終わりの見えない苦痛に生きるよりもずっと楽だから」
周期が短くなったことで繰り返される魔獣の大移動。友人を失い、信頼する人を失って、それでも生きるためには戦い続けなくてはならなかった。
「きっと苦しかったですよね」
「どれだけ苦しくても、苦しいなんて言える立場ではなかった」
しぼり出すような言葉がアンジェリーナの心を揺さぶる。そうだろう、隊長として人を鼓舞する立場だ。苦しいときほど平気な顔をしていなくてはならない。そんな彼が苦しいなんて言えるわけがなかった。
責任も立場の重さも違う。けれど同じだ、アンジェリーナと同じ。
傷ついても平気な顔をしているところも、戦う前に諦めていたところも。心ないと揶揄される魔女だって傷つかないわけじゃない。精一杯虚勢を張って、傷つかないふりをしてきただけだ。
「だがアンジュと触れ合ううちに、こんなところで死にたくないとそう思えるようになった。君の存在が私を変えた」
そして困難に屈せず、もう一度戦うことを決めたところも同じだ。アンジェリーナを抱き寄せるジルベルト隊長の腕に力がこもった。
「必ず生き残ってアンジュを迎えにいく。だから待っていて」
乞い願うようなジルベルトの言葉にアンジェリーナの胸が痛んだ。この美しい約束が反故にされたと知ったとき、彼はどう思うのだろう。魔除けの聖女に捧げたものと同じ熱意で私をうらむだろうか。
彼の願いはきっと叶わない。
これ以上、彼の言葉を聞いてしまえばもっと絆されてしまう。引き裂かれる思いで上着を強く掴む手を離したアンジェリーナは、平気な顔をしてするりと彼の腕の中から抜けた。
どうか、最後まで気がつきませんように。
「あっ、いけない! 買い物に行かないと日が暮れてしまいます!」
答えないこと、期待させないこと。どれだけ残酷だろうと、それがアンジェリーナの捧げる最上級の誠意だ。無邪気を装うアンジェリーナの焦った表情に、ジルベルト隊長は苦笑いを浮かべながら深々と息を吐いた。
「もう満足なのか?」
「はい、満足しました。さあ、行きましょう!」
アンジェリーナは踵を返した。過去はもう振り返らない。
次にきたときは、ここが私の戦場になる――――。