悪夢のはじまり ※他者目線
悪夢のはじまりは農夫からの通報だった。
青ざめた彼は転がるように走って、巡回の兵士にすがりつく。
「朝起きたら畑に見たことのない生き物がいるのです!」
「はは、昨日の酒が残っているんじゃないのか。酔っ払って夢を見たとか?」
「違う、本当なんだ。イノシシよりも大きいし、牙だけでなく爪もある。目が血走っているし、おっかなくて!」
「わかった、わかった。一緒に見に行ってやるから落ち着けよ」
巡回の兵士はあまりにも農夫が真剣に頼むので一緒について行ってやることにした。仲間に用事ができたと告げて伝令を頼む。それが運命の分かれ道となるとは知らずに。畑に近づくと、農夫は震える手で何かを指した。畑の真ん中で農作物を荒らす生き物を一目見て兵士は震え上がる。
この生き物はなんだ、絶対にイノシシではない。まずは体の大きさが違う。一回りどころか十倍以上は違う。そして太く先の尖った鋭利な牙に、踏み潰されたらひとたまりもないとわかるほど分厚い爪。鼻息荒く畑の作物を漁っていた大きな鼻が不気味にうごめく。そして匂いを嗅ぎつけたように顔がグルンと二人の方を向いた。
「っ!」
兵士は反射的に剣を抜いて構える。ようやく農夫のおぞましいという意味が理解できた。両目の瞳は赤く、白目が黒い。これを生き物と呼ぶにはあまりにも禍々しい雰囲氣だ。その不吉な何かは狙いを定め、腰が引けた兵士に牙を剥いた。
「ギャー!」
口腔が血のように赤いという記憶を最後に、兵士の意識は途絶えた。
まずい、まずいぞ! 断末魔の叫びをあげた兵士の姿を振り返ることなく農夫は駆け出した。とにかくもっと人のいる方へ逃げなくては。下を向き、一心に走る農夫の体が頑強な何かにぶつかって、弾かれるようにポーンと空を飛んだ。叩きつけられて、うめく農夫の顔に生温かい何かがゾロリと這う。
これは、動物の舌だ。それを理解した農夫は目を見開く。同じ姿形をしたおぞましい生き物がもう一体、それどころか、その奥にも、またその奥にも……次から次に見たことのない禍々しい生き物が森の奥から姿を現す。
『よいか、魔獣を見かけたら近づいてはならんぞ?』
まさか、これが魔獣?
曾祖父が歯のない口をモゴモゴさせながら教えてくれた。イノシシに似た見た目の、イノシシよりも危険な魔性をもつもの。曾祖父もまた、彼の曾祖父から教えてもらったのだという。あのときは荒唐無稽な作り話としか思っていなかったのに。そういえばあのとき、曾祖父はうっかり魔獣に近づいたらどうなると言っていたか。
『うっかりでも近づいたら――魔獣に喰われてしまうだろう』
昔話に忍ばせた教訓。それをこの期に及んで思い出すなんて。腰を抜かした男は這うようにして後ずさる。ところが後ずさった先でふたたび何かに押し返された。おそろしい咆哮が地を震わせる。
ああ、囲まれたのか。農夫の意識もまた、そこで途絶えている。
そこからは怒涛のように事態が動いた。兵士が戻ってこないことを伝え聞いた兵士長は、部下を従えて急行する。そこでは確認できるだけで数十頭はいる化け物が我が物顔で家畜を襲っていた。森の生き物を食い尽くし、餌を求めて森から出てきたということか。
実はこの森の奥には近隣の住民すら近づかない不気味な底なし沼がある。見た目は沼に見えるけれど引き継ぎのときに兵士長だけは聞かされていた。そこは他国で魔力だまりと呼ぶ場所なのだと。そこから魔獣や魔物が生まれると聞いてはいたが兵士長は信じていなかった。
だって一度も生まれるところを見たことがないのだから。
魔力だまりと呼ばれていていても実際はただの汚い沼だと思っていた。それがどうだ、這い出る化け物は明らかに沼のある方角から姿を現している。立場上、確認しにいくべきだろうけれど、そんな勇気はない。そうこうしているうちに濁った魔獣の視線が兵士長を捉えた。仲間を呼び寄せるおぞましい咆哮が響き渡る。
様子を見に行った兵士長から音沙汰がない。そこでようやく国に通報が届き、国は軍を魔力だまりのある一帯へと送り込んだ。だが現場はあふれかえった魔獣によって蹂躙され尽くしたあとで、数が多く討伐は遅々として進まない。そうこうしているうちに都市部にまで魔獣や魔物が姿を現すようになり、ついには国民の知るところとなった。
「あれが魔獣……本当にいたのか!」
生まれたときから一度も見たことのない人間がほとんどのため、どう対処したらいいかわからない。とにかく怯えて、逃げまどうだけだ。逃げながらも人々は治療や炊き出しを行う神殿にたどり着き、そしてようやく思い出した。
神殿には魔除けの聖女がいたはずだ、と。
「何が魔除けだ、仕事をしていないじゃないか!」
「役立たずにも限度がある。今すぐこの状況をなんとかさせろ!」
さんざん無能で役立たずと蔑んでいたくせに、無能で役立たずだと責める。何をいまさら自分勝手なことを。アンジェリーナがその場にいたらぼやいていただろう。だが魔獣の出現によって冷静さを欠いている人々は自分達の矛盾に気づかない。
やがて敷地内で魔除けの聖女と神殿の怠慢に対する抗議活動が起こり、一部の人間は暴徒と化した。魔除けの聖女を建物の外へと引きずり出そうと神殿の扉を打ち壊しはじめる。
「お待ちください、暴力はいけません!」
そこに姿を現したのは金の髪に翡翠色の瞳をした少女――――癒しと回復の聖女ヘレナが瞳を潤ませて懇願する。少なからず、誰もが一度は彼女の世話になっているだけに強くは言えなかった。ひとまず落ち着いたところでヘレナはひっそりとほくそ笑む。
誰だって怪我や病気はつらいもの。だから癒しと回復という力が最強なのよ!
いつものように微笑んで、人々に手を差し伸べる。
「さあ、治療しましょう。どなたか怪我をされた方はいらっしゃいませんか?」
私が、俺が、たくさんの人間がヘレナの前に列を成した。ヘレナは顔色を悪くする。……いつもよりずっと多いわ、しかも傷口が見たことのない赤紫色をしている。大丈夫かしら、心許ない気持ちでまずは先頭に並んだ男の子の傷に手をかざした。
「……嘘でしょう、どうして」
「聖女様?」
つぶやきを拾った男の子の母親が不安そうに首をかしげた。ヘレナは表面上は平静を装いながら、唇を噛む。
……癒しの魔法が、効かない。
いつもの怪我ならば、こうやって手をかざせば簡単に治るのに。まるで水が油を弾くように傷口が力を受け入れまいと拒否している。どうしてこんなことが……。
「聖女ヘレナ、どうしましたか?」
「それが……」
顔見知りの神官が近寄ってきたので囁くように説明すると、彼も顔色を悪くする。そして文献から治療する方法を探ると言って神殿に戻った。いつもは積極的な聖女ヘレナが治療をやめたことに人々は動揺する。
「ど、どうしたのです。聖女ヘレナ⁉︎」
「少々、調子が悪いようなのです」
誤魔化すように笑ってヘレナは人々を仮設テントに集めた。治療が必要な人間は続々と増えていくのに、遅々として治療が進まない。そのうちヘレナは気がついた。治せる傷と治せない傷がある。どうやら転んで挫いたり、木や草で切ったような傷は治せる。だが赤紫色をした傷口は治せない。しかもそういう患者は時間が経つにつれてどんどん体調が悪くなっていく。治療の進捗に差が出て、人々の不満が最高潮に達しようとしたそのときだった。
「聖女ヘレナ、治療法がわかりましたよ!」
駆け込んできた神官は手に水を汲んだ樽と透明な薬瓶を握りしめている。彼は最初に治療しようとした男の子の傷口に水をかけて傷口を洗い流した。そして神官は優しく言い含めるように男の子に声をかけた。
「しみるけれど我慢するんだよ?」
男の子は青ざめた顔でうなずいた。傷口に聖水を振りかけるとジュっといういう音がする。痛みで涙が滲んでいるけれど我慢した男の子の頭を神官はなでた。
「えらいね、さあ聖女ヘレナ治療を!」
「はい!」
すると先ほどまで拒絶されていたのが嘘のように瞬く間に傷が癒えていく。周囲から歓声が上がった。
「これはどういうことでしょうか?」
「魔獣や魔物につけられた傷は魔素に侵食されて、通常の手順では治療ができないそうだ。油が水を弾くように癒しの魔法が人の体に馴染まない。だからまずは傷口を水で洗って毒を洗い流し、そのうえで聖水を振りかけて浄化するそうだ。それで通常の怪我と同じようになるから癒しの魔法が使える」
聖女ヘレナは目を見張った。そんなこと今まで一度も聞いたことがない。魔獣や魔物の傷そのものを見たのすらはじめてなのだから。
「その知識、どこから……」
そこで神官は声をひそめた。
「おばあさまの残した知恵の書からです。そこには治療方法だけでなく、聖水の作り方や対魔戦の武器に効果を付与する手順まで記されていました」
「……そう、先代魔除けの聖女の」
「おそらくアンジェリーナも知っていたでしょう。まったく肝心なところでことごとく役に立たない聖女だ」
聖水は神官総出で作らせているし、武具に対する付与は聖女ができるか試しているところだという。聖女ヘレナは口元を歪めた。だったらあの無能で役立たずの代わりに魔除けの聖女の知識を有効活用してやればいい。
建国以来、途切れることなく綿々と受け継がれてきた魔除けの聖女の称号。神殿はひた隠しにしているけれど、神殿の規範で、もっとも位が高く由緒正しいとされるのは魔除けの聖女だった。あの無能で役立たずが聖女筆頭なんて忌々しい。
思惑を包み隠してヘレナはいつものように柔らかく微笑んだ。
「さあ皆さん、今の言葉を聞きましたよね。傷口を洗い流して、神官から聖水を振りかけてもらってください。そのうえで私の前にもう一度並んで。魔除けの聖女がいない今、私が代わりに皆様を癒します」
すると人々が感嘆の声をあげた。
「やはりあなたは強く優しい! 役立たずとは大違いだ!」
「さすが我々の聖女ヘレナ、天使だ! 神よ、感謝します!」
「聖女ヘレナこそ我々の魔除けの聖女だ!」
いらないのなら、私が聖女筆頭の称号をもらってあげる。感謝することね!