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第一話 婚約破棄

「私は、君との婚約を破棄しようと思う」


 広大な庭園に置かれたお茶会用テーブルの周囲を、初夏には似合わない季節外れの冷たい風が包んだ。


「承諾してくれるだろうか?」


 私は、目の前に置かれた「血の契約書」に視線を落とす。


「夫、イシュトヴァーン公爵家 長男グラディス」

「妻、テオドール伯爵家 長女マリア」


 契約書には、婚姻を行う予定の男女の名前が記されている。そして、名前のすぐ下に直筆の署名があり、その署名の右端には、名前に(かぶ)せるように血判が押されていた。


 「血の契約書」は、多重婚約を不可能にする一種の呪術だ。双方が署名と同時に血判を押し、その血によって婚約を確実なものとする。既に契約を結んでいる状態で、別の血の契約を行おうとすると、後から血判を押した契約書がすぐに燃え尽きて灰になってしまう。


 この国では婚約詐欺が横行しているわけではないものの、相手に純潔さを示す信用の証として、貴族間の婚約では必ず「血の契約書」が使用されていた。


「もし承諾してくれるのなら、『血の上書き』をお願いしたい」


 血の契約は永遠ではない。以前の血判を上書きするように、署名者の血で「バツ印」を付ければ、血の契約を無効とすることができる。


「……私の手続きは終わっている。確認してくれ」


 グラディスの言葉を受けて、契約書下部にある彼の署名欄に視線を移すと、既にグラディスの血判がバツ印で上書きされているのが分かった。


 ──私にはもう、選択肢は無いのね……。


 私はグラディスに軽く一礼した。


「……分かりました。承諾いたします」


 私は、お茶会用テーブルから少し離れた場所にいる執事を呼ぶ。そして、右手の人差し指を差し出した。執事は私の手の平を軽く持つと、慣れた仕草(しぐさ)で、私の指先に針を刺す。


 私は指先に血の(しずく)ができたのを確認すると、やや躊躇(ちゅうちょ)しながら、自分が押した血判にバツ印を付けた。


 その瞬間、「血の契約書」は効力を失い、瞬く間に燃え尽きて灰になった。


 グラディスが灰になった契約書を見ながら、軽く安堵の溜息を()く。


「……マリア、本当にすまない。父上が、君との婚約を破棄するために、様々なところに働きかけているんだ。知っての通り、私の父上は冷酷と評される帝国宰相だ。目的の達成のためには、何をするか分からない。……君の命が危険にさらされる前に、こうして話がまとまって良かったと思う」


 私はグラディスの言葉には答えず、テーブルの上に置かれた紅茶のカップをじっと見つめる。そして、グラディスに視線を合わせないまま、ゆっくりと口を開いた。


「……あの、もし差し支えなければ、私が婚約を破棄された理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 私が視線を上げると、グラディスは私から目を()らして、気まずそうな表情を浮かべた。


「……やはり、私のこの身体のせいでしょうか? まともに動かない、この下半身……」


 私の言葉に、グラディスからの反応はない。どうやら図星のようだ。


 私はグラディスを見て、懸命に笑顔を作った。


「やっぱり、そうなんですね。いいんですよ。そんなに気になさらないで下さい。……私がグラディス様の立場だったら、家を守るために同じことをしたと思います。『将来の公爵』として、切り捨てなくてはならないものがあることは分かっているつもりです」


 グラディスは椅子に座ったまま、私に向けて深く頭を下げた。


「本当にすまない! 先日の事故は、とても残念な出来事だった。君に何か非があるわけではない。だが、公爵家にはそうも言っていられない事情があって……」


 私は、グラディスの謝罪を(さえぎ)るように声を掛けた。


「グラディス様。どうか顔をお上げください。むしろ、こうして私に直接、婚約破棄をお伝え下さったことに心から感謝いたします」


 私の言葉に、グラディスは驚くようにして顔を上げた。


「……最近は、親しいと思っていた令嬢の皆様から形ばかりの書状が届きまして、正直なところ、辟易(へきえき)しておりました」


 私の(もと)には、様々な(もよお)しへの私の招待を撤回する書状が多数届いていた。私の身を思いやるような文面ばかりだが、「あなたには来て欲しくない。招待に応じないで欲しい」という思いが透けて見えていた。


「書状の文面と違って、令嬢の皆様は誰一人、私の(もと)にはいらっしゃらないのです。……別に、見舞いに来て欲しいわけではありません。ただ、皆さんの心の内側が見えてしまったようで、とても悲しくて……」


 私の目に自然と涙が込み上げてきた。しかし、涙が(あふ)れるのをグッと(こら)える。


「……人の(えん)って、本当に(はかな)いものですね」


 私の言葉に、グラディスは申し訳なさそうな表情を浮かべた。一瞬何かを言おうとして口を開くが、その口から発せられる言葉は無い。


 そして、しばらくの沈黙の後、グラディスは再びゆっくりと口を開いた。


「……テオドール伯のご様子は、いかがだろうか?」


 私は溢れそうになった涙を(ぬぐ)いながら、グラディスに笑みを見せる。


「お父様は私を心配して下さって、周囲の環境を整えてくれています。侍女達が私を三階の部屋まで苦労して持ち上げているのを見て、新たに一階に私の部屋を(しつら)えてくださいました。それに、腕の良い職人を探し出して、この車椅子をプレゼントして下さったんです」


 私はそう説明しながら、車椅子の(ひじ)掛けを軽く握った。


「ただ、最近は私のことで気が滅入(めい)っているようです。きっと、私が将来()く予定だった様々な役職が、全部キャンセルになったんだと思います。本当に申し訳ないです……」


「そうか……。マリア、どうか気を落とさずに過ごして欲しい。私にできることがあれば、今まで通り連絡してくれて構わない。可能な限り、取り計らおうと思う」


 グラディスの言葉に、私は精一杯の笑顔を見せた。


「ありがとうございます。しかし、グラディス様に、これ以上ご迷惑をお掛けする訳にはまいりません。グラディス様はどうか、次のステップにお進みください」


 私が暗に次の婚約のことを(ほの)めかすと、グラディスは再び(うつむ)き、そのまま黙り込んだ。私達の間に、二度目の沈黙が流れる。


 幾分の重たい時間が経過した後、私は本日の面会を終えるため、グラディスに声を掛けた。


「グラディス様。本日は誠にありがとうございました。そろそろ宮殿に戻られませんと、執務に支障があるのではありませんか?」


 私の言葉に、グラディスはハッとするように顔を上げる。


「……すまない。本来は私がマリアを気に掛けるべきであるのに、逆に私に対して気を(つか)わせてしまったようだな……」


 グラディスは一瞬、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべたが、すぐに左右に首を振って正気を取り戻す仕草をした。


「マリアが言う通り、そろそろ執務に戻るとしよう。今日は、わざわざ時間を取ってもらったことに、心から感謝する」


 私は車椅子に座ったまま、グラディスに向かって深く一礼した。


「グラディス様の将来が、(かがや)かしいものであることを心からお祈りしております。……帝国に光を」


「帝国に光を」


 グラディスは貴族流の挨拶を終えると、椅子から立ち上がった。そして、(きびす)を返して、少し離れた場所に待機していた側近達と共に、庭園の出口に向かった。


「マリア様。その……、なんと申し上げれば良いのか……」


 後方に立つ専属侍女エルザが、(くや)し気な声で私に話し掛けた。


「エルザ。気にしないで。これはきっと、私が今まで何も努力してこなかった結果だと思う。私は『公爵家に嫁ぐ伯爵令嬢』という立場に、ずっと甘えていたんだと思う……」


 私は丁寧な言葉遣いをやめて、普段の日常的な話し方に変えると、車椅子を少し回転させて、エルザの顔を見上げた。そして、眉尻(まゆじり)を下げて、困ったように笑みを浮かべる。


「これで、私には誰もいなくなっちゃった」


「……マリア様。そんなことを言わないで下さい。マリア様には、まだ私がいます」


 エルザはそう言いながら、目から溢れ出る涙を懸命に拭う。先月二十歳(はたち)の誕生日を迎えたばかりのエルザだが、その泣き顔はまるで、子供が親に叱られてベソをかいているようだった。


「あっ、ごめん。エルザは家族みたいなものだから、つい、一緒にいるのが普通だと思ってた」


 私は号泣するエルザに向けて、可愛くペロッと舌を出した。


「でもね、エルザ。もし将来に不安を感じたら、私の(もと)を去ってくれてもいいからね。私と一緒にいても出世できないよ。それに、私は身体が不自由だから、きっとお世話に苦労すると思うし……」


 エルザは、私の言葉に泣きながら首を振る。「去りません。私が一生、共にいます」と言おうとしているのが言葉の端々から分かったが、嗚咽(おえつ)が激しくて全体を聞き取ることはできなかった。


 私は軽く微笑(ほほえ)むと、そんなエルザに優しく話し掛けた。


「私のために泣いてくれて、本当にありがとう。エルザには心から感謝してる」


 私はエルザを抱き締める代わりに、目の前にあるエルザの腰に手を当てた。


「実は私、今、すっごくスッキリしてるんだ。だから、そんなに泣かないで。全てを失うって、ちょっと晴れ晴れとした気持ちにならない?」


「……マリア様?」


 エルザは、少し驚いた表情で私を見ながら、嗚咽を鎮めるためにハンカチで懸命に口元を押さえた。


「私はもう自由なの。誰かに気を遣う必要も無く、誰にも『公爵夫人になるのに』と(とが)められることもない。窮屈なドレスを着る必要もない。太ってもいい。だから、デザートを好きなだけ食べられる」


 私は車椅子を半回転させて、エルザの隣に並ぶようにした。そして、庭園から見える真っ青な大空に右手をグッと伸ばす。


「ほら! 私の前には、希望に満ちた無限の未来が広がってるのよ! 私は諦めない! 私はこれから、エルザと一緒にたくさんの幸せを手に入れるんだ!」


 私はそう言うと、雲をつかみ取るように手の平を握りしめた。


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