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断罪前日に前世を思い出した悪役令嬢は邪神の下僕と出会う~邪神のきまぐれ救済はタダじゃない、対価の為に奔走します!

作者: ねむり猫

初めての投稿なので至らぬところが多々あると思いますが楽しんでいただければ嬉しいです。


公爵令嬢アルフィリア・サイファスは絶望していた。彼女はよりによって自身の通う王立学園卒業記念パーティ前日の朝に前世を思い出してしまったのだ。

そして、同時に、この世界は彼女が前世でプレイした乙女ゲーム『真・ラブ』であることも。

明日に迫る卒業パーティで婚約者である王太子とヒロインである男爵令嬢からの断罪の後、悪役令嬢(無実)はくちにするのも悍ましい悲惨の極みな末路をたどる運命にある。

前日に思い出すなんて破滅寸前にもほどがある。そんな我が身の不運を嘆くアルフィリアの前に現れた救いの手は神でも天使でもなく、邪神の下僕を名乗る一人の子供だった。そして、邪神のきまぐれ救済であるが故に、彼女は自らを救うために邪神の望む対価を支払わなければならず、その対価とは何と……


 グランマルシエ王国王立学園、貴族専用寮の私室にて公爵令嬢アルフィリア・サイファスは絶望していた。彼女は艶やかな黒髪も、濃い金色の瞳も美しい、淑女の鑑と謳われる美少女だ。だが、いまの彼女は顔色青ざめ、金色の瞳には隠しようのない悲嘆の色が満ちている。この日の朝、天蓋付きの豪奢なベッドで目覚めてから侍女に着替えを手伝ってもらった後、彼女は一人でぼうっとお気に入りのティーテーブルの椅子に座っていた。

令嬢のなかでも王族を抜かせばトップレベルの地位にある公爵令嬢の私室だけあって広々とした豪奢な部屋、燦燦と太陽光が降り注ぐ窓辺に設えた木製の美しいティーテーブル、椅子は華やかなブリティッシュチェアが二脚。この国一番の家具職人に特注で作らせた一点もののテーブルセット、いつか愛する人と共にお茶を供する事を夢見ていたけれど……今はただ虚しい。



――今自分が座っている向かいに、存在する対の椅子は永遠に空席となるのだ。



 公爵令嬢アルフィリア・サイファスは転生者だ。

ただ、間の悪いことに自分が転生者である記憶を思い出したのは、王立学園の卒業記念パーティを明日に控えた、悪役令嬢断罪劇の後、破滅エンド直前の朝であったのだ。


 アルフィリアは明日の卒業パーティで婚約者のグランマルシエ王国王太子クレメンスに婚約破棄され、そして、彼とこの世界のヒロインである光魔法の使い手、聖女候補リリアーヌ・ドビッチ男爵令嬢に、悪役令嬢として断罪されるのだ。彼らはお互いへの真実の愛を公表し、アルフィリアはリリアーヌに行った数々の悪質な苛め、嫌がらせ、果ては階段から突き落としたという殺人未遂の罪人として断罪される。はっきり言って前世を思い出した今をもってしても、この世界で生きていた過去記憶においても覚えのない罪ばかりなのだが、悔しいことにそれを覆す証拠もないのだ。


何故なら、王太子が男爵令嬢リリアーヌの口頭での訴えを全て是だと判定してしまうのだから……


 もう少し早く前世記憶を思い出していれば、まだ対策も練れたのだが、卒業パーティの前日では逃げようにも、破滅を回避する為の対策を立てようにも、致命的に時間が足りない。足りなすぎるのだ。

自分が『真実の愛を見つけよう~貴女だけのオンリースイートラブ~』、略して真・ラブという実に頭の悪そうな乙女ゲームの悪役令嬢に生まれ変わってしまっているという事実、そして、破滅寸前の日にその事に気付いてしまった時点で完全に詰んでいる現状に絶望しかなかった。


 前世は日本のブラック企業のしがないOLで、楽しみといえば発泡酒と大好物の甘味を片手に乙女ゲームのやりこみに勤しむしか楽しみのなかった人生だった。その上、ブラック企業のデフォであるオーバーワークによる心臓麻痺で三十半ばにして孤独に過労死してしまった。前世の最期を思い出した時点で寂しく哀しい死だったと認識したのに加えて、あれほどのめりこんだ数々の乙女ゲームのなかで唯一楽しむことができなかった乙女ゲームの悪役令嬢に転生するなんてあんまりではないかと思う。

なぜなら、乙女ゲームの都合上、悪役令嬢の最後が悲惨であるゲームは数あれど、なかでも彼女が前世で楽しんだ乙女ゲームの中で最低最悪の糞ゲーだと思えたゲームが真・ラブであったからだ。ハッピーエンドが見たいがために最後までプレイしきったがその後味は最悪で即売り飛ばしたいわくつきのゲームがそれである。


 ゲームの主人公である、たぐいまれなる光魔法の素養を持った元平民であるドビッチ男爵家の庶子、リリアーヌ・ドビッチが聖女候補として、国中の貴族令息、令嬢が集まる王立学園に異例の編入という形で通うことになることから話は始まる。

そして、詳細は省くが様々な困難を乗り越えて、王太子殿下であるクレメンスやその他攻略対象と結ばれるストーリーであった。まあ定番な内容だ、そして、テンプレのごとくそのサクセスストーリーには悪役令嬢が存在し、乙女ゲームの都合上、主人公が攻略対象と共に彼女を断罪する場面もある。そこまではいい。

そう、そこまでなら百歩譲って仕方がないと諦めもついたのだが、真・ラブは悪役令嬢の最期があまりにも悲惨すぎたのだ。過酷な尋問、拷問、罪人たちの玩具、いとも容易く行われるえげつない行為のオンパレードetc.……そのえぐいことえぐいこと、それら全てを映像としてプレイヤーは見なければハッピーエンドにたどり着けないという最低設定を持ったR-18Gオーバーな猟奇鬼畜ゲームだったのだ。


 コアでニッチなゲーマーを呼び込むための実験的乙女ゲームだったらしいのだが、悪役令嬢のあまりにも悲惨すぎる末路が、本筋であるロマンティックなストーリーを求める乙女ゲームファン層に受け入れられず、トラウマ並みの拒絶反応を示され、そのゲームは世間には受け入れられず数多のゲームショップで即ワゴンセールにまわされた、ある意味伝説的ゲームであった。

当然ながらコアでニッチなファン層もつかなかったらしい。



*****



 一生の思い出となる卒業記念パーティで婚約破棄と身に覚えのない断罪劇が行われるだけでもひどすぎるのに、その後に行われる恐ろしい末路……製作者側は悪役令嬢に恨みでもあるのかというほどの悍ましい未来。

いっそ、今すぐ命を断った方がましなのではないかとさえ思える。


 パーティ前日の朝に、凄まじい悲鳴を上げて飛び起きた主を心配した専属侍女に、前世を思い出したなどと当然話すこともできず、寝間着から普段着のドレスへと着替えを済ませてもらった後、少し一人になりたいからとお茶の準備だけをさせて席を外してもらったのが今のアルフィリアの状況であった。

侍女が淹れてくれた薫り高い紅茶もティーカップを口許にまで持っていったものの唇をつけることができず、ソーサーに戻してしまう、


「どうして、私こんな取り返しのつかない時に前世なんか思い出してしまったんだろう……」


 言葉にしても詮無いことだと思うけれどこぼれおちてしまう。

そうだ、いっそ思い出さなければ明日の卒業パーティであらかじめ全ての逃げ道をふさがれた茶番のような断罪劇を受ける前まで幸せに過ごせたのに。アルフィリアが哀し気な溜息を洩らしたとき、前方からやや高めののんびりとした声が響いた。


「そうですね、わかりますよ。まあ、ありがちですけど」


「へ……?」


 淑女らしからぬ間抜けな声が漏れるほど緊張感のない声に、一瞬明日の我が身を嘆く思考が停止してしまった。ここは公爵令嬢の私室であり、侍女も下がらせていた。そもそも、ドアも窓も開いた気配すらなかったのだ。それなのに、闇色の魔導士ローブに身を包んだ十歳ほどであろうかと思える子供が一人、アルフィリアの対面の椅子にちょこんと座り、湯飲みでお茶を飲んでいる。

そして、何故かテーブルの真ん中に鎮座しているケーキスタンド、もちろん侍女に用意してもらった覚えなどない。そして何よりも、スタンドに乗せられているお菓子がこの世界では見たことのないものばかりであったのもアルフィリアの驚きに拍車をかけた。そこにあったのは、おはぎ、お団子、どら焼き、大福、ようかん、飽きが来ないようにする為なのか煎餅、おかきの類も乗っている。


そう、和菓子!


 この世界は、中世ヨーロッパ風なため、菓子といえばケーキ、パイ、クッキーなどの洋菓子ばかりで、和菓子は存在しないはずなのに……状況の異常さに驚きを覚えながらも、アルフィリアは思わず前世で大好物であったどら焼きを両手で掴んでしまった。はしたなくも思わず大口を開けてかぶりついてしまう。


「ど、どゆこと……本物のどら焼き?……んまっ! んまーい!」


こちらの世界に生まれ変わって18年、郷愁を誘う、その懐かしい甘い香りに抗えず口いっぱいに頬張ってしまう。そのあまりの美味しさに思わずはしたなくも叫んでしまう。その途端に堰を切ったように涙が溢れ出す。


「うっ、ううっ、私が何したっていうのよ、何したっていうのよ! むぐぅ、うわああああああん! 美味しい、美味しいよおおおおおおっ!!」


アルフィリアはどら焼きをあっという間に食べきるとおはぎ、お団子、大福も、次々と泣きながら平らげていく。時折、おかきや煎餅で味変しながら。口調が完全に前世に戻ってしまっているのにも気づかず貪りまくる。


「そういえば、朝から何も食べてないんでしたよね。まあ、食べてからにしましょうか」


 魔導ローブ姿の子供は、アルフィリアが泣きながら懐かしい前世の故郷の味に、今生の明日への我が身の不安からやけ食いに移行したのを察したのか彼女のために濃い緑茶が入った湯飲みを空中から取り出して、目の前にそっと置くと彼女が気が済むまで泣きまくり、食べ終わるのを待った。


―――半時後


「おかわりないかしら、そうだ貴方は誰? その恰好からして魔法使い?」


「腹八分目って言葉はご存じでしょうか? 私は……まあ今は魔法使いではないですね」


 三段構えのケーキスタンドの上の和菓子が完璧に空になり、ようやく人心地の着いたアルフィリアは、目の前で相変わらず茶をすすっているローブ姿の子供をようやくまじまじと見た。やや呆れたようにアルフィリアの質問に淡々と答える目の前に座る子供は、年齢が幼いのと、ゆったりと羽織るタイプの魔導ローブ姿のせいか性別が分からない。だが、かぶっているフードがやや短めなせいか、顔ははっきりと見える。目鼻立ちの整った可愛らしい顔立ちで、フードから覗く少しはね気味の銀髪に、青を煮詰めたような不思議なブルーブラックの大きな瞳が美しい。これで金髪であったのなら、この国の国教であるマテリスト教の主神、女神マテリストに使える天使と見まごうばかりの愛らしさであった。


「じゃ、じゃあ天使様? ひょっとして私の今の絶望的状況を助けに来てくださったとか?」


 アルフィリアは、つい食い気味に尋ねてしまう。何もなかったところから和菓子や熱々の緑茶を用意できるような子供だ、天使ではないにしても、超常的な存在なのは間違いない。そう、アルフィリアが今生きている世界では身分違いのラブロマンス小説が流行っているけれど、前世では救いのなさすぎる悪役令嬢の逆転ホームラン的物語が流行っていたではないか。ひょっとしたらこの子もその為に来てくれたのかもしれない。だとしたら、昨今の悪役令嬢を救うこのビッグウエイブ、その名も無敵のご都合主義という幸運に乗るしかないではないか。縋るように瞳を輝かせるアルフィリアに、ローブ姿の子供は聡明そうな瞳を向けて答えた。


「半分は合っていますが、もう半分は違いますね」


アルフィリアは思わず背筋を伸ばしてしまう。二択ならできれば助ける方が合っていてほしい。思わず、祈るように両手を組んで目を瞑ってしまったアルフィリアにローブの子供は言葉を続ける。


「私はこちらの世界の神の使いでも、天使でもありません。世界の理の外にある邪神の下僕です、そして助ける以上は私の主人である邪神に相応の対価を捧げてもらいます」


ごんっ!


アルフィリアはその言葉と同時に頭をティーテーブルに打ち付けた。想像の斜め上すぎたのだ。


「ナイスリアクション! これなら何とかなるかもしれませんね」


 遠くから聞こえるような邪神の下僕を名乗る子供の声に、アルフィリアはがばりと覚醒する。気絶してる場合ではない。神の使徒だろうが、邪神の下僕だろうが、なんだって構いはしない。あの悍ましいゲーム設定、ヒロインだけの為のハッピーエンドに捧げられる生贄か見せしめかと、思えるほどの生き地獄に合わされるくらいなら悪魔だろうが、邪神だろうが何にだって縋ってやる。


「気絶している暇なんてないわ! 私は助かるためだったら何だってする、たとえ対価が魂であっても!」


「魂は別にとりませんが、交渉成立ですね。私の名前はニア、邪神にゃwほdrftgyラテlp様の下僕です」


 ニアの言葉の邪神の名を示す言葉がまるで耳が拒絶するようにバグる。それでも、これから嫌でも交渉して自分の未来を勝ち取らなければいけない以上アルフィリアは耳が拒絶するような悍ましい響きの邪神の名を義務的に聞き返してみる。


「邪神様の名前聞き取れなかったのだけど?」


「はっきり発音するとSAN値が減りますがいいんですか?」


前世の知識によれば、SAN値とは精神と魂の健全度を表す数値のことだ。その数値が減るということは……あ、これ本物の邪神だと直感が叫ぶ。アルフィリアは取り合えず礼儀正しくこの場を進めることに思考を転じる。


「不敬にならないなら、お名前の方は遠慮しとくわ、ニア。私はアルフィリア・サイファス。サイファス公爵の一人娘です」


「言いにくいですね、アルフィーと呼ばせてもらいます」


愛称呼びは、家族か婚約者または、よほど近しい友人でなければ呼ばせないものだが今は緊急事態だ、貴族の礼儀作法などこの際知ったことではない。


「いいわ、よろしくお願いするわ、ニア」


「じゃあ、今から三か月前に戻りましょうか」


ローブの子供がぱちんと指を鳴らした。アルフィリアの視界が一瞬ぶれる。



*****



「本当に三か月前に戻ったの?」


 アルフィリアの懐疑的な声にニアは肩を竦める。確かに、部屋の様子も彼女の服装も変わっていないのだから疑うのも無理もないかもしれないがニアは答えるのが面倒くさかったのか顎で軽く燦燦と日差しを投げかけてくる窓に彼女の視線を誘導する。


「え、嘘? 本当にここって三か月前……」


先程までは窓から覗く庭園は、木々には緑の葉が芽吹き、学園生の目を楽しませる花壇には春の花が咲き乱れていたというのに、今アルフィリアの瞳に移るのは枯れ木のように寂しげなたたずまいの木々と、世話はきちんとされているが花の芽さえも顔を出してはいない黒々とした土だけが見える閑散とした花壇であった。


「すごい、確かに季節が明らかに違うわ。すごいわ、ニア! 時を戻すなんて!」


「時間遡行は私の主人の邪神が、こちらの世界で一回限定で使わせてくれる神力です。こんなチャンスはこれっきりですからね、ここからがあなたの破滅回避への本番です。証拠を集めてこちらから婚約破棄を突き付けるんでしょう?」


「………ええ」


 流石に時が戻ったのは凄い奇跡ではあるけれど彼女の状況は何一つ改善されていないのだ。だが、断罪の三か月前の今からなら、思い出したゲーム知識を駆使して証拠を集めて相手有責でこちらから婚約破棄を叩きつけることができる。

前世の知識を思い出した以上婚約者である王太子クレメンスへの愛情などきれいさっぱり消え失せた。


 そう、あんな顔だけ浮気男、脳内花畑婚約者になど未練は欠片もないけれど、あちらから婚約破棄されて己の経歴の瑕疵にされてはたまったものではない。ましてや、やってもいない罪で拷問などまっぴらごめんだ。ヒロインの口車に乗せられて証拠もないのに断罪される未来を覆すには、まずは、こちら有利の婚約破棄だ。アルフィリアが、婚約破棄を望んでいた以上、リリアーヌ男爵令嬢に嫌がらせを行う理由がないのだから。彼女は気を引き締めると共に、ふと一番大事な事を聞いていない事を思い出した。


「そう言えば、邪神様に捧げる対価って何? できれば痛いのとエッチなこと以外のことでお願いしたいのだけど」


 たとえ魂が対価でも、この破滅から逃れられるなら止む無しとは思ったものの、そもそも、R -18G展開から逃れるために邪神の提案に乗ったのだ。そっち方面の対価では本末転倒だ。先程は切羽詰まっていたとはいえ、対価を聞かずに契約を受けてしまったのは少々軽率であった。己の短慮に少々恥じいりながら問うアルフィリアに、ニアは小さくため息をつき、口を開いた。


「そうならない為に来たんですから、そんな対価じゃないです」


「じゃあ、何なの?」


「お笑いです!」 


「はぁ!?」


アルフィリアの間抜けた声が私室に響いた。



 あまりに、予想外の邪神への対価に戸惑ってしまったアルフィリアの気持ちを落ち着ける為なのか、大ぶりの湯飲みに入ったほうじ茶が出された。

これまた、懐かしい故郷の茶をすすりながらアルフィリアは目の前にちょこんと座る、ニアと名乗った魔導士姿の子供から、彼女の救世主となる邪神の為人(ひととなり)、いや為神(かみとなり)を聞くことになった。ニアはかなり嫌そうに、その為神(かみとなり)を語る。


「私を下僕にされている邪神様は、邪神の中でも変わり種のトリックスターな方で愉快なことが大好きなんです。まあ、そんな方だから邪神ならばとてもやりそうにない悪役令嬢の救済なんて気まぐれなことを言い出したんですけどね。ただ、そんな変わった方ではあっても邪神は邪神、精神や魂のSAN値を削ってなんぼなお仕事がデフォな邪神様のきまぐれ救済なもので、どうせ助けるのなら面白くなくては娯楽にならないと……」


「…………」


 アルフィリアは思わず絶句してしまう。

助けてくれるというのなら、素直に助けてくれればよいのに……とは思うものの、そもそも邪神が人間を助けること自体があり得ないことだ。そうしてみると、このニアと名乗る魔導士姿の子供が語る邪神はかなりの変わり種のようだった。

どうやら、今回のアルフィリアの幸運は恐怖や破滅、絶望には飽き飽きした邪神の本当に単純な気まぐれらしい。そして、更に残念なことに、この救済は結構な対価と縛り、制約があるらしい。


彼女が破滅を回避するために、邪神が望むものは、恋と魔法のファンタジー乙女ゲームでは決してあり得ない要素、お笑いルートであった。そんなものは、どんな後略本にだって存在しないルートだ、選択肢だってない。

しかも、お笑いとは……品行方正を旨として生きてきた公爵令嬢になんという無茶ぶりであろうか。


「あの、私は一応前世の記憶を思い出したけれど、前世は普通のOLで芸人じゃないんだけど……」


「洗練されたプロのお笑いには批評しかできないくらい擦れている方なもので……

その為に私があなたに遣わされたんですけどね。あなたの創るお笑いを全力でサポートするために。一応、力ももらっています。邪神経由なので呪いですけれど」


呪いと聞いてアルフィリアの肩が跳ねる。この世界はなんちゃって中世ヨーロッパ風の剣と魔法の世界だ。もちろん、火、水、風、土、珍しい光魔法に加えて、同様に珍しい闇魔法なんてものもある。そして、闇魔法から派生した呪術も当然ある。適性のない者に使う事はできないが、呪いは強力にして陰惨なものが多い。大概、相手に事故や災厄をもたらし、最終的には呪殺にまで至る。自分を裏切っている婚約者や、冤罪を仕掛けてくるヒロインを呪い殺す?

でも、まだ浮気以外は何もされてないし、そこまでしたいかといえば、やはり前世の日本人的良識が働く……

アルフィリアはごくりと唾を飲み込んで口を開いた。


「……どんな呪いが使えるの?」


「何を考えているかまるわかりですが、そんな葛藤は杞憂ですよ。微妙でしょうもない呪いしか使えませんから」


「例えば?」


若干残念そうな色を浮かべつつ、真剣な表情で見つめるアルフィリアにニアは心底嫌そうな顔で答えた。


「おもにカップルを破局させるために邪神様が面白半分に作った呪いなんです。

マジでキスする1秒前にオヤジくしゃみが出るとか、抱き合ってソファに座った瞬間屁をこいちゃうとか、あーんとかして何か食べさせてもらった後に特大のゲップが出るとか、屋外で一緒にいる時鳥のフンが顔面ヒットするとか、カッコつけているときに固そうなものの角に足の小指を思い切りぶつけるとか、ベンチに座ろうとしたらお尻が破けるとか……」


真面目に聞いていたアルフィリアの眉毛が八の字に下がる。


「確かにしょうもない呪いね……」


「ただ、そのどれかが逢引の最中必ず起こります。おまけに一つだけとは限りません」


「ちょっと待って、わりと地獄じゃない!」


確かにこんなハプニングが逢引き中に起こってしまえば台無しだ。はたから見ていれば愉快かもしれないが悪趣味にもほどがある。


「ええ、真実の愛とかのたまう、頭の沸いた輩には効果覿面ですね、100年の恋も覚めます。私の主人が、ご自分のお笑い欲を満たすために、その呪いで別れさせたカップルの桁は私の全ての指を使っても足りません」


「数じゃなくて、桁って……十億以上のカップルがそんな理由で別れているの?」


「はい、九割九分くらいは成功させてますね。あと指は足の指も入ってますよ」


「……」


絶句する公爵令嬢にニアはとどめのように付け加える。


「あと、過食した覚えもないのに一週間で五キロ太る呪いもあります」


「あ、ちょっと最後の呪い一番怖いんだけど! と、ともかく、私はあのふたりのお花畑の真実の愛をぶち壊しながら証拠固めをして、邪神様にお笑い対価を支払えばいいというわけね」


「そうです、この三か月であなたがやらなければいけない事は、私の使えるしょうもない呪いを駆使して相手有責の証拠を集めて有利な条件で婚約を破棄に持ち込む事、真実の愛とやらに浮かれているバカップルに制裁を下す事、そして私の主のお笑い欲を満たす事。この三点です。最後のが一番重大ですから心してかかって下さいね」


アルフィリアの顔が強張る。結構ハードモードな状況に少し声が震えてしまう。


「その呪いの発動条件は?」


「私と一緒にいること、そしてターゲットの半径十メートル以内に入ることです。そうすれば、なんらかの呪いが自動発動します。一応、アルフィーはこの乙女ゲームの内容を知っているわけですから先回りして攻略イベントの起こる逢引き場所に行くことは可能ですよね」


綺麗なダークブルーの瞳が確認するようにアルフィリアを見つめる。


「えっ、ちょっと待って、私は今クレメンス王太子殿下に意図的に避けられているし、ましてや、ドビッチ男爵令嬢と一緒にいる時には向こうだって警戒しているわ。私が先回りしたところで、イベント自体が発生しないかもしれない。そもそもどうやって近づけばいいの?」


今のアルフィリアは婚約者でありながら、クレメンス王太子から顔を合わせる事すら避けられている状態なのだ。ましてや秘密の逢引きをしている王太子と男爵令嬢のそばに近づく事など無理な相談だ。その問いかけに邪神の下僕はさらりと答える。


「策はありますよ。呪いですけどね。私と一緒に居れば隠形の呪いが発動してあなたの姿が消えますし、声も聞こえません」


「あら、すごく役立つ呪いもあるじゃない」


 そういえば、時間遡行をする前にもさんざん泣きわめきながら和菓子をほおばっている間、専属侍女が来なかったことを思い出す。つまり、今も呪いは発動しているのだろう。なんという事か、密談し放題ではないか。それに、誰からも姿が見えなくなるのなら、浮気の証拠など取り放題だ。

幸いこの世界にもカメラがある。簡易魔導カメラ『撮れるんです!』という便利なものが。これで浮気写真を撮りまくって、ぐうの音も出ないほど破談の証拠を集めまくってやる。

よっしゃ、これで勝つる! アルフィリアがガッツポーズをとりかけた時ニアの言葉が続いた。


「でも、他の呪いとは違って、役に立つだけあって制約が三つあります。ひとつは隠形の呪いは一日一回、時間は無制限ですが掛けなおしはできません。そしてもう一つは隠形の呪いが効いているときは絶対に笑わないこと、呪いが解けます。そして最後の一つは……」


ニアは最後の方は少しくちごもるように小声で囁いた。


「…………っっな!」


今回は淑女のたしなみとして声をあげることは堪えたが、その言葉が耳に届いた時アルフィリアの顔はムンクの叫びもかくやというほど引きつっていた。



*****



―――――王立学園内の、人気のない空き教室



 束の間の時間を惜しむかのように、しっかりと抱きしめ合う、若い男女がいた。共に王立学園の制服を纏った学生らしきふたり。

男性は輝くような金髪と青い瞳が麗しい美青年、グランマルニエ王国の王太子クレメンス、そのたくましい胸に縋るように寄り添うのは、くりっとした小動物のような茶色の瞳とピンクブロンドの柔らかそうな巻き毛も愛らしい美少女、リリアーヌ・ドビッチ男爵令嬢だ。


「やっと二人きりになれたね、リリアーヌ」


「恐れ多いことですわ、殿下。立派な婚約者のおられる殿下を私のような身分違いの男爵令嬢が恥知らずにもお慕いするなど……」


しおらしいことをくちにしているが、その両手はクレメンスが離れないようにそっと指先で制服の襟を摘まんでいる。実にあざとい、意図的にあざとい。


「親が勝手に決めた許嫁だ、真実の愛は君だけに捧げた、リリ……どうか私をクレムと呼んでほしい」


「……クレム様」


恥じらいを含んだ少女の言葉に王太子は、その細い顎をそっと持ち上げる。リリアーヌの瞳が閉じられ、クレメンスも目を閉じた。


そう、まさに唇がふれ合おうとする寸前……


「ぶ、ぶぇーっくしょい!! ……ちきしょうめぇ!!」


 クレメンス王太子の特大くしゃみがさく裂した、しかもイタイい語尾がつくタイプのオヤジくしゃみだ。

キス待ち顔で待っていた顔が一瞬風圧で歪むほどの凄まじいオヤジくしゃみで飛んできた大量の唾に呆然として目を開けてしまったリリアーヌの目に飛び込んできたのは、くしゃみと一緒に出てしまったのか、見事に鼻水がぶらりと垂れ下がる王太子の情けない顔だった。普段美形なだけに、その顔面崩壊具合たるや。


「……ぐぷっ、ぷ……クレム様、ハンカチをどうぞ……」


「っく……すまない。あとで新しいハンカチを贈らせてもらうよ」


「ぶはっ、はい、お待ちしておりますわ」


何とか怒りと笑いを納め切った男爵令嬢は引きつった花のように微笑んだ。しかし、流石に先ほどのムードまで状況を戻すほどの手管は持たなかったのか、しょげかえる王太子を慰めながら空き教室を出ていった。




―――空き教室から完全に人の気配が消えた後


「結構あの男爵令嬢根性ありますね。物語補正が強力なのかな?」


ただ一人の人のためだけに聞こえる声が空き教室に響いた。可愛らしい子供の声だ。しかし、少々感嘆したような言葉の続きは、わりと容赦のない言葉だった。


「……それに引き換え、アルフィーあなたは……」


「わ、笑わなかったんだからセーフよ、セーフ……ぐふっ……ぶふぅ……」


 周囲に聞こえぬ声で会話するのは公爵令嬢アルフィリアと邪神の下僕ニアである。

隠形の呪いで完璧に身を隠しながら、ふたりは最初から先ほどの彼らの後をつけていたのだ。それは、最初からの打ち合わせ通りなので問題ない、それだけなら問題はなかった。


 ニアの足元で、完璧な淑女と名高い、公爵令嬢アルフィリア・サイファスが全裸で腹を押さえ苦しそうに呻いていること以外は……

マジでキスする一秒前のいいスチルを何枚も写した簡易魔導カメラ『撮れるんです!』を手渡し、もとい押し付けた後、ニアの足元で必死で腹を押さえ、爆笑を堪え転がって震え続けるアルフィリアはとても公爵令嬢とは思えぬ状況であった。更にその姿が、一糸まとわぬ素っ裸、今隠形が解けたら令嬢人生はおろか、社会的に死ぬどころではないあられもない姿なのだ。


だが、この状況には浅くて残念な理由があった。それは今の時間帯から一週間ほど遡る三か月時間遡行を終えたばかりの日のことであった。



*****



 卒業パーティ前日から三か月の時を遡ったアルフィリアは始めは気合十分であった。

なにしろ、これから自分が有利の婚約破棄のための証拠写真の入手と、邪神に捧げるお笑いのために、全力をつくさなければならないのだ。

そして、その難題をクリアするためにはニアの提示してくれたしょうもない呪い(たまに割と起こるささやかな不幸)と、唯一有用な呪い隠形に頼るしか手はなかった。


 聞く限りにおいては、その隠形の呪いの効果だけは素晴らしい完成度であった。呪いの発動中は姿も音も全く気付かれないというのだから、はっきり言ってチート級の呪いだ。

つまり、浮気者王太子とお相手の男爵令嬢に全く気付かれずに後をつける事が出来、決定的瞬間を『撮れるんです!』で写真に納め放題、声も聞こえないので彼らの目の前でいい絵をとるための位置取りの相談まで可能という、かなり反則的なものであった。

だが、光或る所に闇あり、好事魔多しとの言葉通り、そのチート呪いを発動するためにはアルフィリアに対しての三つの制約があったのだ。一つ目は隠形の呪いを使えるのは一日一回のみ(時間制限はなし)、二つ目は隠形の呪いが発動中は決して笑わない事(笑うと隠形の呪い解呪)……そして最後の三つ目がよりによってあんまりなものであったのだ。

それは、人前で行う隠形の呪いが発動するのはアルフィリアの肉体と、あと一つだけという制約。当然、証拠集めとして魔導カメラ『撮れるんです!』は外せない、そうなると必然的に……素っ裸にならなければならないのだ。そんな条件は花も恥じらう十八歳の乙女には酷すぎた。当然、その制約を聞いた瞬間、アルフィリアは猛然と抗議した。


『ちょっと待って、裸でカメラ持ってあのバカップルをストーキングしないといけないの? とんだ変態じゃない』


『なにしろ、呪いですからね。誰にも見られないということで許容してもらわないと』


『いやあああ、改善を要求するわ!せめてドロワース(貴族令嬢の下着)くらいはつけさせて!!』


『落ち着いてください、ドロワースだけが空中に浮いている状態になるんですよ! 不自然すぎます』


さんざんごねたが改善されることはなく、やらなければ破滅まっしぐらという現状にアルフィリアは泣く泣くこの条件を承諾する羽目になったのだ。

しきりに淑女としての慎みだの、嗜みだのと、嘆いているアルフィリアを見ながらニアは溜息を一つついた。


(助言は禁じられているから、言えないけどこの人は裸になるよりも厳しい制約に全く気付いていない。大丈夫かな……)


そう、全裸の恐怖のせいでアルフィリアは失念しているが、もっと重大な条件の方に気を配った方がいいのではとその時、ニアは考えていたのだ。

何しろ、この悪役令嬢救済は、善良な神の慈悲ではなく、お笑い欲を満たしたい邪神の気まぐれなのだ。お笑いの提供は、彼女が天誅を下すバカップルだけでなく、彼女自身も担わければいけないということに、今のところ彼女は全く気付いてない。


邪神が満足するようなお笑いを提供しながら、笑わないという制約がどれほど過酷なものであるのか……



公爵令嬢アルフィリアは、後に大いに悔やむことになる。

笑ったら、隠形の呪いがとけるなどというとんでもない制約もまた、お笑い大好き邪神の愉悦のための対価であったことに。



*****



 姿が見えていないとはいえ、爆笑を抑えるために手でくちと腹を押さえ、のたうち回りすぎたせいか、腰砕けになってしまったアルフィリアを、頭の上に『撮れるんです!』を乗せたニアが彼女の両足首を後ろ手に持ち上げてずるずると引きずっていく。


「せめて、おぶってもらえないかしら」


学園内の廊下を自分よりも年上で背の高いアルフィリアを軽々と引きずっているのだ、できそうなものなのだが彼女の割と切実なお願いを華麗にスルーしてニアはくちを開く。


「今回のお笑い対価は邪神様によると、初回だからってことで、ぎりぎり合格だそうですよ。この程度で、仕掛ける側が笑ってどうするんですか、感情制御は貴族の嗜みでしょう?」


お笑いは演者が笑ってしまえば、見ている者が萎えるのはお約束だ。


「そんなこと言ったって、普段取り澄ました顔しか見ない氷の貴公子なんて言われてる殿下がオヤジくしゃみしただけでもきついのに、キス待ち顔のあの女の顔が風圧と唾で化粧がぐしゃぐしゃになった、あの顔……無理……ぶぷ……っ」


「はいはい、今笑ったら呪い解けますからね――」


アルフィリアは慌てて口を押える。三か月後に破滅する前に今破滅してどうする?


「あと、邪神様から一言、アルフィー自身が笑わない為に、リアクションの薄い、つまらない対策を立てるのはNGとするそうです。例えば自分のことをつねるとか。全力で腹筋だけで耐えてください」


「そんなあ……ん、腹筋で耐えるのならどんな使い方をしてもいいのよね」


「……? まあ、そうですね」


「よし、次回からは大丈夫よ!」


強気なアルフィリアの言葉に器用に肩眉だけを顰めながらニアはもくもくと悪役令嬢予定の公爵令嬢を彼女の私室まで容赦なくひきずっていくのだった。




*****



あのちょっとした、最悪のハプニングから一か月後―――


 王立学園には立派な図書館が敷地内にいくつもある。その中でも人気の少ない図書館の大きな本棚が衝立のように視界を阻む絶妙な死角にある机とベンチの傍らで待ち合わせた二人の若い男女がいた。

少し遅れてやってきた金髪碧眼の見目麗しい青年が、先に来て待っていたらしい、愛らしいピンクブロンドの少女に微笑みながら近づいていく。


「リリ、待たせてしまったかな?」


「いいえ、今来たばかりですわ……ク、クレム様」


青年はグランマルシエ王国の王太子クレメンス、はにかみながら、ややあざとく口ごもりながら答えるのは男爵令嬢リリアーヌ・ドビッチ。先日のことはふたりのあいだでは無かったことになっているようだ。


「おいで、リリ、君との貴重な時間を一秒だって無駄にしたくない」


「駄目ですわ、そんな……このような場所で」


とか言いながら躊躇いもなく王太子の胸に飛び込むリリアーヌを王太子は軽々とお姫様抱っこで抱きあげた。きゃぁ、と言う可憐な悲鳴を上げる男爵令嬢の細い腕はしっかりと王太子の首にまわされている。


「ああ、リリは羽のように軽いね、君のかぐわしい香りは僕を魅惑しすぎるよ……」


「ああクレム様こそ、いつも良い香りが……」


クレメンス王太子がリリアーヌをお姫様抱っこしたまま、そのまま膝に乗せるようにしてベンチに腰を下ろした瞬間、


ぶうううううううううぅっ――――


ふたりの尻が同時にシンクロした。かなりの屁力だったらしく、一瞬王太子の尻が浮くほどの威力で。王太子とリリアーヌは驚愕の面持ちで互いを見つめ合った後、とりあえず全力でなかったことにしようと引きつった声でくちをひらく。


「な、何か聞こえた?」


「わ、私、何も聞こえてなど……うっ」


ぷ―――――――――ん……もわわわわんん……


だが、お互いその音をなかったことにしようとも、口裏を合わせようとも、存在を主張する漂う黄色い臭気はごまかしようもなく……ふたりはたまらず席を立って、鼻をつまみ、空いた手で空気を無駄にかき混ぜ、咳き込む。


「ごほ、ごほっ、ちょ、ちょっとここは、空気が悪いようだな……うっ……ぐぅ」


「えっ、ええ……本当に図書館は埃っぽくて……ぐぇ……こほん……」


もはや、物理的にこの空間にいることができず、這う這うの体で図書館から出ていくふたりの後姿に、もはやムードの欠片もなかった。




――――そして完全に人気のなくなった図書室で


「やったあ、婚前の男女の不貞行為のいい写真ゲットぉ! ぐふっ……」


どすっ、どすっ、どすっ!


見えない空間から、聞こえない少女の声と妙な打撃音。それに続くように呆れたような子供の声が響く。


「腹筋で笑いを止めるのはOKとはいいましたけど、まさか物理的に使うとは……まあ、リアクション芸として邪神様が、とても満足しているようですからいいんですけど」


「鍛えに鍛えた、この腹筋に死角はないわよ!」


 この一か月間、アルフィリアは無駄に時間を過ごしていたわけではない。

今後のお笑い対価と笑わないための対策として、魔法による身体強化、高速筋トレ、ニアに出してもらったどら焼き味プロテインを飲みまくりなどのドーピングを重ね、鋼鉄のようなシックスパック腹筋を手に入れていたのだ。

これから甘い時を過ごす気満々のふたりの尻が高らかになった時、アルフィリアは全力で己の腹に痛烈な拳を三発叩き込んで笑いを食い止めたのだ。


「しかし、あの音と臭いのなか、表面上だけにしてもよく耐え抜いたものですね、あのバカップル。あの臭気の中を腕を絡ませたまま優雅に歩いて出ていきましたよ。若干、競歩の速さでしたが」


「うっ、思い出させないで……ごふぅ!」


どすっ、どすどす、どすっ 鍛えに鍛えた腹筋に更に笑い止めの拳を叩き込むとアルフィリアは恨めし気にニアを睨む。


「後姿も、ちゃんと『撮れるんです!』で撮りましたよね。後でちゃんと確認しといてくださいね」


「何を?」


「ふたりとも、お尻破けてますから……」


「………っくぅ」


ニアの呪いはしょうもないが有能なのだ。アルフィリアは無言で己の腹筋に更に拳を五発叩き込んだ。



*****



 窓辺に設えた木製の美しいティーテーブル、椅子は華やかなブリティッシュチェアがふたつ。その片方に、やや品位に賭けるがどかりと音をたてて腰かけると公爵令嬢アルフィリアは大きく伸びをする。

私室に戻り、ようやくドレスを身に着けることができた彼女は早速ニアにいつものお願いをする。対面の椅子にこしかけた邪神の下僕は、心得たようにぱちんと指を鳴らす。

途端に、テーブルの真ん中に三段のケーキスタンドが出現する。

ただ、その上に載っているのは、どら焼き、おはぎ、お団子、大福、ようかん、おかきに、お煎餅etc……

こちらの世界にはない、アルフィリアの大好物の前世の日本の和菓子たちだ。


「ああ、一仕事終えた後は甘いものと美味しいお茶が一番よね。いっただきまーす!」


両手をそろえて唱える食前の言葉。

かつて、日本人であった習慣がつい出てしまうのだが、目の前にいるのはニアだから気にしない。あと、少々、お行儀が悪くても……


「アルフィー最近、地が出すぎですよ。公爵令嬢なんですから、少しは慎みを持ってください」


「あなた以外にこんなはしたない姿見せないわ」


最近公爵令嬢としていささか逸脱しすぎではないかと苦言を呈するニアに、両手にどら焼きと大福をもって交互にかぶりつきつつ、アルフィリアは行動とは反比例する優雅で美しい微笑みで返す。


「太っても知りませんよ」


「ここ一か月の腹筋強化のおかげでむしろ、ウエストが細くなったくらいよ」


「腹筋六つに割れてますけどね……」


公爵令嬢の腹筋がシックスパックになっていていいものなのか?


たっぷり濃い目の緑茶の入った急須と大ぶりの湯飲みを空中から取り出しながらニアは小さくため息をついた。

出会ったときに比べて、たくましくなったものだと遠い目をする邪神の下僕が淹れた緑茶を嬉しそうに、受け取ると、アルフィリアはくちを開いた。


「今回の対価はどんな感じだったかしら?」


「及第点ですよ。特に、アルフィーの斜め上の腹筋活用に、かなり邪神様の対価の満足値が上がりましたね」


「よかったわ」


ほっとしながらアルフィリアはいつもながら絶品の緑茶を堪能する。


「この世界の物語補正って結構強力ですね。普通こんな最低ハプニングが二回も続いた時点で相手への恋心を失うものなんですけれど」


小首を可愛らしくかしげるニアに、アルフィリアは憮然とした表情で答える。


「ヒロインも根性据えて挑んでいるのもあるわね。ゲームでも王太子ルートは王道だし、ハーレムエンドとまではいかないけれど、このルートだと、攻略対象たちは一生ヒロインだけを想って側に仕え続けるっていう美味しい結末なの。だから、ここまで攻略した以上、なんとしても私の断罪劇まで行きたいんじゃないのかしら」


「ふむ、そう考えると、多分あの男爵令嬢も転生者ですね」


おそらく間違いないだろう。

妙にフェア(?)なところがあるのか、主人の邪神からはヒロインの情報についてニアは何も聞いていない。とはいえ、王立学園に光魔法の強い素質があるとはいえ異例の三年生の春に編入してきた男爵令嬢が、たった一年の間に婚約者のいる攻略対象をつぎつぎと篭絡していくのは不自然極まる、効率的に落としているとしか考えられない。

それに、アルフィリアの前世のゲーム知識とも一致する。だが、そんな考察にアルフィリアは鼻にもひっかけない。


「そうかもしれないけど、わりとその情報はどうでもいいわ。あの女が転生者かどうかなんかより、今の私に必要なのは対価よ! 本当だったら、婚約者特権を活かしてお茶会にでもあいつらをご招待してお笑い対価を稼ぎたいところなのに、あの馬鹿王太子ったらお誘いしても悉くお断りしてくるんだから……小出しでもいいから対価を稼ぎたいっていうのに! 全く役に立たないったらないわ」


 王太子に対して、ましてや婚約者に対して言う台詞ではないけれど気持ちはわかる。

彼女は、幼い頃から、いつか婚約者と微笑み合いながらお茶の時間を楽しむというささやかな夢を持っていた。

 だが、そんなものは前世を思い出した時点であり得ない未来だと自覚した。そのうえ、お笑いと証拠獲得の為に無様で間抜けな姿をさんざん見てしまったせいかアルフィリアのなかでかつて抱いた婚約者クレメンスへの恋心など、生ごみ用ディスポーザーで粉砕され、はるか無限の彼方にまで消え去っている。むしろ、思っていた過去自体が黒歴史だ。

今の彼女の頭の中の八割をしめるのは現実的な婚約破棄への証拠の取得と、邪神のきまぐれ救済における対価、お笑いをいかに効率的に稼ぐか、それだけだった。あとは、協力者である邪神の下僕である、ニアが個人的に用意してくれる美味しい和菓子とお茶の事が二割。

そう、婚約者との時間のために特別に作らせたこのティーテーブルセットも、今や対価獲得の為の作戦会議をニアとする為の場所となっていた。特別といえば特別といえるのだが……

アルフィリアは濃い目の緑茶をすすりながらニアに最近懸念している事柄を口にする。


「婚約破棄のための、物証は着々とたまっているけれど邪神様のお笑い対価は、どこまでやればゴールなのかしら」


有責証拠は充分な程、手に入っている。貞節を重んじる貴族の場合、人気のない場所で寄り添うだけでも不貞に当てはまるのだから、既に手に入れた写真だけでも相手有責で婚約破棄は出来るところまで来ている。ただ、まだ邪神様から、対価に満足したという言葉をもらえていないのだ。


「そこは、私にはなんとも。でも、お笑い満足度のラインは決めているようですよ」


スポンサーの機嫌と視聴率に怯える芸人なった気分だが、破滅回避のためには致し方がないことなのだ。アルフィリアは結構開き直っている。


「一気に稼ぎたいところよね。そうなると……」


アルフィリアはニアとお茶を飲みながら作戦を語り合った。



*****



――真の意味で臭い仲になってしまったふたりの久々の屋外での逢瀬



 春の初めにしては暖かな昼下がり、学園校舎から少し離れた森のなかにある高位貴族専用の瀟洒なガゼボ。そこに設えられた白いベンチに恐る恐る、少し離れて座る若い男女がいた。金髪碧眼の美青年、この国の王太子クレメンスと、可憐なピンクブロンドの男爵令嬢リリアーヌだ。そして、ガゼボの入り口から少し離れた位置には、護衛としてヒロインの攻略対象の一人でもある騎士団長令息が苦虫をかみつぶしたような顔で立っている。恋敵の応援などしたくはないのだろう。


「リリ、会いたかったよ……」


「ええ、クレム様私も……」


お互い、さりげなく自身のお尻に手をやり、そこが破けていないことにほっと息をついで微笑み合う。最近、何かと破れることが多いのだ。

その上、最近過食した覚えもないのに体重が妙に増量しており、王太子はトラウザースを、リリアーヌはドレスのウエストを今月に入って二度も直す羽目になっていた。王太子はトラウザースのウエストに東の国からの高価な輸入物であるゴムひもをとおしているし、リリアーヌはドレスのサッシュを長め、幅太目のものにして、その腰の太さを目立たぬようにしているのだ。


「クレム様……久しぶりにお菓子を焼いてまいりましたの」


「やあ、リリのお菓子楽しみだなあ」


ふたりとも以前より十キロ以上体重が増えているのだが、愛しい恋人の手作りお菓子でイチャイチャの誘惑には勝てない。リリアーヌは持参してきたバスケットから一口サイズのカップケーキを取り出し、少しはにかみながら指でつまむと王太子の口許に持っていく。


「はい、あーん」


「あーん」


カップケーキに使った糖蜜よりも甘い空気が……


「うん、美味し……っ……げえぇふぅー」


「え……」


「い、いや、失礼…………ちゅ、昼食を食べすぎたのかな」


嘘である。最近太り気味のため昼食はスープだけにしているのだ。だが、そのスープのチョイスが悪かった。玉ねぎと香辛料がたっぷり入った、更に滋養強壮のために入れられたニンニク、ニラ、ネギ入りスープの激臭げっぷを顔面にくらい、リリアーヌのこめかみに稲妻のような青筋が浮かんだが、微笑みだけは絶やさない。


「も、もう、クレム様ったら……おなかがいっぱいなら」


「いや、食べるよ、食べたいんだ!リリの手作りだし」


再びあーんと口を開ける王太子のくちに、やや気を取り直した男爵令嬢がふたつ目のカップケーキを口に含ませると同時に……


「うん、うま……ぅげぇえぷぅ」


「……」


自分の作ったお菓子を食べてゲップされただけでも腹立たしいのに。強烈に漂う玉ねぎとスパイス、ニンニクの臭いが鼻腔にもろに入って気分は最悪だ。リリアーヌのこめかみがビキビキ震える。


「す、すまない……げふうぅ」


「いえ……」


それでも、めげずに、懲りずに王太子のくちに菓子を運ぶ男爵令嬢、三つ目、四つ目……そして、六個目を口にした瞬間……


「げふぅ、うっぶ、ぶぇーっくしょい!! …………ちきしょうめぇ!!」


度重なるげっぷのせいで鼻孔に入り込んだカップケーキがもたらした特大オヤジくしゃみの炸裂に飛び散った菓子くずが、激しい風圧と共にべちゃりとリリアーヌの顔面にヒットした。


「……っく」


流石にヒロインもブチギレ掛かったが、そこはヒロイン、涙目の上目遣いで美しい引き際を演出しようとする。


「……なにすんだこの大ば……やば……ううっ、クレム様、あんまりですわぁ……」


演出しきれてはいなかった。

が、目元にハンカチをあて、よよと泣き真似をしながらリリアーヌが素早く立ち上がった瞬間……


がんっ!!


ベンチの角に左足の小指がクリーンヒットした。


「ふおおっ、いだぁ……ふっ、ぐう、ぐふぅ!」


「ま、待って……」


片方の足首を両手で掴んで、がに股片足でぴょんぴょんと跳ねながらガゼボから去っていく愛しの男爵令嬢の後ろ姿に追いすがろうと呼びかける王太子の声に……


「リリアー……」――「アァホーォォォ!!」


と、いうカラスの鳴き声がシンクロし、何故か不幸にも口のなかにぷりっと放った糞がダイレクトイン。


「ぶげはっ!ぺっ、ペ ゲフォグフォ、おえええええっ」


ぶちん!


 更なる不幸なことに強烈にえずいた瞬間、トラウザーズのウエストゴムが切れ、最近の肥満ゆえに腰回りが緩やかであったトラウザースがすとんと足元にずり下がり、それに足を引っかけた王太子が下着丸見えで、文字通りガゼボから転がり出てきた。

しかも見事に一回転したおかげで下着までトラウザーズに絡めとられ、お尻まる出しだ。

涙と鼻水まみれでえずく、まるだし王太子、イケメンなだけに、その惨状は、ちょっとした地獄絵図だ。


「……っく、殿下」


 護衛として本来なら、すぐ駆け寄るべきなのだが、王族の醜態を笑うような不敬は許されない。故に、王太子が落ち着くまで、少し離れた場所に控えるヒロインの攻略対象である騎士団長令息は笑いを堪える為に全力で己の尻を両手でつねっていた。




――互いにしか聞こえない声がガゼボの中で響く。


「笑っちゃ駄目ですよ、アルフィー、あの護衛みたいにお尻をつねるのは減点行為ですからねー。ラマーズ呼吸法で笑いを逃してください、はい、ひっひっふー」


「ひっふっ、くっ……ぐほぉ……あなた絶対、それわざとでしょ!?」


どすっ、どすどす、どすぅ……


 腹筋に全力の拳を叩き込みながらアルフィリアは恨めし気にニアを睨む。

当然、お笑い対価を稼ぐために、ニアとアルフィリアは最初からガゼボのなかに王太子と男爵令嬢とともにいたのだ。隠形の呪いを駆使して姿を隠しながら。


「いや、前回アルフィーのリアクションの方に邪神様が高得点くれたものですから……ちょっとした手助けですよ」


「いらないわよ!!」


全力で大爆笑したがる本能を物理的に耐え抜くために、その拳を自身の腹筋に叩き込みながらアルフィリアは息も絶え絶えに答える。


「よく考えてみれば、一週間で五キロも太る呪いって強烈ですね。王太子のトラウザーズがゴムウエストってのがポイント高いそうですよ」


「うっく、さっきのトラウザーズの絶妙な足元への落ち加減……ぐく……っ」


どすっ、どすどす、どす、どすどすどす!


鍛えに鍛えた腹筋に笑い止めのボディブローを連続で叩き込むとアルフィリアは耐えきった、とサムズアップしながらニアに笑いかける。


「ばっちりですよ! お笑いは体力と根性です、この調子で我が主人への対価を稼いで下さい」


やり切ったとニアも珍しくサムズアップを返した。その時、



ぷぅぅぅぅっ――――



背後で響いた絶妙な音。ようやく介抱するために王太子に近寄ってきた護衛の尻が高らかに鳴ったのだ。笑いを堪えるためにつねりすぎたのか、うっかり呪いの射程圏内にはいってしまったのか。よりにもよって油断していた、この時に。


「……っっぷ」


なんというダークホースならぬダーク放屁……耐えきったと気が緩んでいたところに、思わぬところで潜んでいた伏兵ならぬ伏屁。しかも跪くように近寄った護衛のズボンの尻が……


――びりっ!


全力で堪えきったと気が抜けた瞬間の悪夢のようなとどめ。

もう無理、笑い死ぬ!でも笑ったら全裸、社会的に死ぬ!腹筋に拳を打ち込む暇も許さない怒涛の連続爆笑地獄……だが、ここで笑ったら、現実の地獄!

アルフィリアは全力でガゼボの外に生えている手近な木に向かってダイブした。


ゴスッ!


そう、どちらの死も免れる物理的解決策、気絶をアルフィリアは選び、今回のミッション(?)を成功させたのだった。脳内でチカチカ輝く星々に、不敵に中指を突き立てて微笑む公爵令嬢の会心の冒涜的フェードアウト。

白目をむいて鼻血をたらしながらアルフィリアの思うことはただ一つであった。


(邪神様のお笑いポイント更にプラスできたかしら……)



*****



 気がつけば見慣れた自室の天井だった。慌てて起き上がり、自分の格好を見下ろせば普段着の簡易なドレスをきちんと身につけていた。ホッと息を継いだアルフィリアの鼻に香ばしいほうじ茶の香りが漂ってきた。前頭部のたんこぶには湿布があてがわれている。


「脳震盪を起こしてたんですから安静にして下さい。邪神の下僕に回復魔法は期待しないでください」


ニアが感情の色が薄い丁寧語で話す。でも、淡々と話しているようでどこか優しい響きがあるように思えるのは贔屓目なのだろうか。


「あなたの淹れてくれるお茶だけで充分よ、手当てに着替えまでさせてくれてありがとう」


ティーテーブルの上に乗っているのはアルフィリアが特に好きなどら焼きと塩煎餅のみ。脳震盪のあとは気分が悪くなる時もあるのでいつもの量をださず、お茶もほうじ茶にしてくれたのだろう。


初めて会った時はケーキスタンドにてんこ盛りの和菓子や煎餅におかき各種を揃えて濃いめの緑茶を用意してくれた。

初めての出会いを思い出してアルフィリアの唇に微笑みが浮かぶ。

あの時はやけ食いで泣きながら全部平らげた。いや、いつもニアが出してくれ菓子はすべてたいらげているのだけれど……あれで初恋の決別というか踏ん切り着いたのだ。


(本当に何時も何処から取り出すのかしら)


アルフィリアは安静などどこ吹く風とばかり、がばりと起き上がりいそいそとニアと差し向かいで座り、いただきますと手を合わせるのももどかしく、さっそくどら焼きを手に取って頬張る。


「んふふー今日も美味しい! ねえニア、今日の私はかなり高得点とれたんじゃない? 邪神様への対価は次回、どうアプローチしようかしら?」


にこにこと笑いながら、やる気満々のアルフィリアをニアは少しだけ寂しげな顔で見つめ返した。


「王室に送る王太子有責の証拠と婚約破棄の書類も恙無く完成しましたね。公爵令嬢を蔑ろにした慰謝料と賠償金は小さな国位買えそうな額ですし、アルフィーはこれから忙しくなりますよ」


「えっ……」


アルフィリアは手に取っていたどら焼きを取り落し、ニアをまじまじと見つめた。


「貴女の対価は邪神様の満足度をクリアしました。今日から自由です」


ニアは座っていた椅子からひょいと降りると澄んだブルーブラックの瞳でアルフィリアを見つめ返し、言葉を続ける。


「貴女は自力で対価を払い、破滅の運命から未来を勝ち取ったんです。私の役目はここまでです。破滅が起こらなかった以上、私の存在はこの世界の中でイレギュラー、私は邪神のもとに帰り、貴女の時間の中の私という存在の記憶は消えます」


「まだ三か月経っていないわ、そんな真面目な顔しちゃって冗談ばっかり……」


冗談で流してしまいたかった。

でも、アルフィリアは本能的に分かった。ニアの言っていることは真実だ、邪神の欲は満たされ、ニアには二度と会えなくなるのだと。思い出さえも失うのだと。

無情にも、いつも通りのニアの淡々とした返事が部屋に静かに響く。


「私はいつも真面目ですよ」


「嫌よ、ニア。邪神様への対価ならこれからだって払うわ、もっともっと、上質な笑いを捧げるから……だから……だから行かないで……」


 この二か月半の間、ニアと共に過ごした時間は辛く苦しい時もあったが、それ以上に楽しく、心地よく、短い期間でありながら濃密であった。アルフィリアは、いつのまにか、この小さな邪神の下僕をかけがえのない友人として、大好きになっていたのだ。でも、あえて気づかないふりをしていたのだ。

ずっと一緒に居られるわけなどなかったのに。ニアは邪神の下僕なのだから。


「ニア、また会えるって言って……どら焼きもお茶もなくていい、何にもいらないから……お願い……」


アルフィリアはニアの小さな身体に縋りつき強く強く抱きしめた。美しい金色の瞳から涙が溢れ白い頬を濡らす。ニアは小さな子供を諭すように、彼女の震える背中をぽんぽんと軽くたたいた。


「駄目ですよ、下僕とはいえ邪神となんか関りを持ってはいけません。」


そっと肩を押すようにアルフィリアから身を離すと、ニアはにっこりと笑った。初めて見たニアの笑顔……


「さよならアルフィー、もう笑いを堪える必要もない。だから笑ってください」


空気に溶けるようにニアの姿が消えていく。

最後にアルフィリアの耳に届いたニアの声。


「貴女とのお茶の時間……とても楽しかったですよ」


「待って、待ってニア…………」


世界が輝きに満ちた。



*****



「ん…………」


 公爵令嬢アルフィリア・サイファスは吐息のような息をついで我に返った。

目の前にある特注のティーテーブルの上には、自身の婚約者であるこの国の王太子クレメンスとの婚約破棄の為の書類が揃っている。グランマルシエ王立学園の卒業を二週間後に控えて、ようやく全て相手有責で婚約を破棄できるという安心感で、気が抜けてしまったのだろうか。


「いけないわね。これから忙しくなるのに」


 二か月半前に前世を思い出して、破滅を回避する為に王太子クレメンスと男爵令嬢リリアーヌ・ドビッチの不貞や、事実無根のいじめ捏造への反証など全て抜かりなく揃える事が出来たのだ。もう卒業記念パーティに恐れることなど何一つない。

アルフィリアは王室に提出する証拠類を文箱に納めると、王宮に向かうために立ち上がった。


ふと、アルフィリアの視線が対面の椅子に落ちる。今自分が座っていたものと同じ美しいブリティッシュチェア、婚約者と共に微笑みながらお茶を飲むことを夢見ていたこともあった。もう誰も座る予定のない対面の椅子……


「え……?」


ひやりと頬に感じる冷たさに我に返る。

いつの間に自分は泣いていたのだろう。あの浮気者の婚約者に対して未練など欠片もないと断言できる。あんな男の為に流す涙など一滴もないと魂にだって誓える。


でも、目の前にある椅子を見ていると、思い出など何もないというのに涙が溢れて止まらないのだ。何故か大切な事を、大切な人を失ってしまったような喪失感が胸を締め付ける。

声を殺して泣くアルフィリアの涙は、主人の身を心配した専属侍女がドアをノックするまで止まらなかった。



*****



グランマルシエ王国、王立学園の卒業記念パーティーは王立学園主席卒業であるアルフィリアの祝辞をもって華やかに開催された。


 アルフィリアの元婚約者クレメンスは本人有責の婚約破棄に加え、サイファス公爵家の後ろ盾を失い、王太子の地位を第二王子である弟に譲ることとなった。そして、ここ二週間で更に十キロ太って礼服も身体に合わなくなった彼は、王立学園のXLサイズの制服に身を包みパーティ会場で身を縮めている。

男爵令嬢リリアーヌもなぜか肥満が止まらず、せっかくクレメンスに贈ってもらったドレスが入らず、ぴちぴちの制服姿でパーティ出席となり、壁の花、ならぬ肉の壁のようになっている。

流石に、ここまで変わってしまったヒロインに他の攻略対象も目が覚めたのか、エスコートしてくれる相手はいないようだ。


輝くような光沢の濃い蒼色のドレスに見事な銀糸の細やかな刺繍が施されたサッシュを細いウエストに締めた、グランマルシエの花、麗しき公爵令嬢アルフィリアは起こることのなかった断罪劇に想いを馳せる。


(あの姿の二人が壇上に上がって私を断罪する写真も欲しかったわ……)


タキシードやドレスなど、きちんとした正装の生徒たちの中で、ぴちぴちの制服姿で、少しの移動だけで汗だくになり、二人並んだだけでお尻が破けるのだ、その様子はさぞかし満足していただけたのでは……と思考がそこまで進んだ瞬間、アルフィリアは違和感を覚えた。なぜ、そんな風になるに違いないと自分は確信しているのか、そして、誰を満足させるための写真なのか?


「サイファス嬢、どうなさったのですか?」


黒のタキシードに身を包んだ、黒髪黒目の眉目秀麗な青年が心配げにアルフィリアを見つめる。


「いえ、なんでもありませんわ、ディーラ殿下」


アルフィリアは優雅に微笑んで言葉を返す。

彼の名は、アルマ・ディーラ、東の国ディーラから留学してきた王太子である。

急な婚約破棄の為、この日の卒業記念パーティでのエスコート役がいなくなったアルフィリアの為に数日前にエスコートを申し出てくれた親切な級友だ。

アルマは元婚約者の方を見ていたアルフィリアを気遣うようにパーティ会場に設えられた豪華な食事やデザートが並ぶテーブルへと促す。


「今日、用意されたデザートの中には私の国のお菓子もあるのです。この国では馴染みのないものだと思いますが。サイファス嬢は甘いものはお好きですか?」


「ええ……」


 ふたりが向かったデザートが用意されたテーブルの上はまさに甘い色彩の洪水のような絢爛さであった。とりどりのクリームや果物で飾られた豪華なケーキにタルト、焼き立ての蜜色に輝くパイ、白鳥を象ったシュークリーム、色とりどりのマカロンなど色鮮やかなデザートが所狭しと並ぶ中、テーブルの隅に置かれた大皿の上に焦げ茶色の円盤状の見慣れぬ菓子が置かれていた。食べやすいように一口大に切られている断面は黒に近い濃い紫色、どうやら薄く焼いた丸いカステラ生地の間にその黒いペースト状のものを挟んでいるらしい。他の華やかな菓子に比べ、明らかに見た目が地味で中に入っている黒い見慣れぬ中身で敬遠されたのか、まだ誰にも手を付けられていない。

 その様子にアルスは少し寂しそうな顔をしたが、誰にも手に取られていない見慣れぬ菓子をすすめて相手に気遣いをさせぬ様、話題を別の菓子へと変える。


「サイファス嬢は、どんなお菓子がお好きですか?」


「どら焼き……」


「えっ!?」


アルスは驚いた、この菓子はパーティ用に特別に作らせて国から取り寄せたもので、この国ではほとんどの者が知らないはずだ。なのに、目の前に居る令嬢は菓子の名前を口にしたのだ。


「我が国が誇る銘菓、ディーラ焼きをご存知なのですか?」


「私の一番好きなお菓子です」


アルフィリアは、どら焼き、ならぬディーラ焼きを一つ皿に取ると添えられていた竹ようじで大きめに切り分け品良くくちに運んだ。

蜂蜜を練り込んだ柔らかなカステラ生地、ひんやりと品の良い甘さの小豆餡が口のなかでとろける。


「美味しい……」


瞳を潤ませて幸せそうにディーラ焼きを食べるアルフィリアの姿に、公爵令嬢の動向をさり気なく伺っていた他の貴族令息、令嬢たちもディーラ焼きに興味を持ったのか、集まってきた。切り分けられたディーラ焼きを乗せた小皿が次々と手に取られていく。


「まあ、なんて品の良い甘さに口溶け」


「こんなお菓子初めてですわ。それに、なんて素朴で優しい味……」


「美味しいですわ、うちのシェフも作れるかしら」


「ディーラ殿下、このカステラ生地の間に挟まっているものは何ですか? 我が国では見たことがない素材の様ですが」


ディーラ焼きを食べた者たちがその美味しさに舌鼓を打ちながら、菓子の話題に花が咲く。皿の上に山盛りになっていたディーラ焼きが瞬く間に消えていく。


アルスは、アルフィリアが上品に三個目のディーラ焼きを食す姿を微笑みながら見つめ口を開いた。


「ディーラ焼きが本当にお好きなのですね」


「はい、毎日食べても飽きないくらい大好きですわ」


「そんなにお好きならば、私の国にいらっしゃいませんか……できれば一生……」


「留学のお誘いですか、卒業後の予定もありませんし喜んで」


「い、いえ、そうではなく……私と、その……」


真っ赤になって、慌てるディーラ国王太子の熱を帯びた真摯な告白をよそにアルフィリアは別の事を考えていた。ディーラ焼き、どら焼きを見た瞬間全てを思い出してしまったのだ。


(あなたの淹れてくれる緑茶があれば最高なのにね……ニア)




 グランマルシエ王立学園卒業後、アルフィリア・サイファス公爵令嬢は東の国ディーラに渡った。留学生としてではなく、ディーラ王国アルス王太子の婚約者として。後に、ディーラ王国王妃となったアルフィリアはディーラ国銘菓であるディーラ焼きの名をどら焼きと改め、世界中にその美味しさを広げる事を目標とした転移魔法や空間魔法の発展に多大に貢献した。そのおかげでディーラ王国は世界に誇る独自の流通販路と運搬手段を手に入れ、大いに発展していくこととなった。

その功績で、アルフィリアは賢王妃として長く名を讃えられることとなる。そして、王である優しい夫と三人の子宝にも恵まれ、幸福な人生を送った。


 ただ、一つだけ彼女の生涯について不可解な史実が残っている。

アルフィリア王妃は家族や親しい友人とのお茶会を大切にしており、その時間を大層好んだ。テーブルセットにもこだわりがあり、生涯何セットも特注し、居心地のよい空間を提供し、自身も享受する事を愛した。

しかし、祖国から嫁入り道具の一つとして持ってきた美しいティーテーブルと二脚のブリティッシュチェアだけは王妃秘蔵の品で、そこでお茶を飲むときだけは一人であることを好んだ。椅子は二脚あるというのに、愛する夫や子供であろうと、何人も対面に座る事を生涯許さなかった。


『ニアのテーブルセット』と名付けられた、そのテーブルセットは王室の家宝として代々伝えられることとなったが、その名前の由来は彼女のことをよく知る人々も、後の歴史学者も、誰一人として知ることが無かったという。


最後まで読んでくださってありがとうございます。もし、邪神の下僕のニアを、お気に召していただけたなら、またどこか別の異世界で邪神様の気まぐれ救済に付き合わされる物語を書いてみたいと思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] こういうノリ大好き。面白かったー。 ニアとの別れは少し切ないけど、邪神の下僕らしからぬ優しさにキュンとした。
[良い点] 某邪神様なら設定しかねない対価 むしろ、実は密かに人間のモブとして顕現して内心ニヤニヤと悪役令嬢の姿を観察しててもおかしくないレベル もしくは、ヒロイン含めて転生されたり前世思い出させた…
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