第1話 婚約…はき…?
ご覧いただき、ありがとうございます。
全6話+後日談2話となります。お付き合いをいただけると幸いです。
「マリア嬢、あなたとの婚約を破棄させていただきたい」
土曜日の夕暮れ時。
ナイズリー侯爵邸の応接間にて、入室するなりご嫡男のロラン様にそう告げられた。
「……婚約……はき……?」
ロラン様はその琥珀色の瞳で刺すような視線で私を見てくるけれど、告げられた言葉の意味を飲み込むことができずにいる。
そもそも婚約はきって……何だったかしら……? はき……。
「あの……」
「質問は受け付けていない。あなたには身に覚えが無いとは言わせない」
「? は、はあ」
質問を受け付けていないのなら、どうしようかしら……。
そもそもロラン様とは、三年前の私が十六歳の頃に、両家の親同士の判断で婚約を結んだのだ。
男爵家の次女である私が、侯爵家のご嫡男のロラン様と婚約を結ぶことが決まった時は、それはもう驚いたし同時に重圧感も持った。
というのも、幼き頃から特別な教育を施されたことがない私に、次期侯爵夫人が務まるのかと、日々不安に駆られたからだ。
けれど、それを乗り越えるためにも、次期侯爵夫人としての立ち振る舞いや知識を身につけるべく、これまで家庭教師をつけてもらって毎日励んできた。
その甲斐もあり、最近ではようやく自信も付いてきたところだったのだけれど、……まさかロラン様から婚約はきを告げられるなんて……。
けれど、婚約はきって、……本当に何のことだったかしら……。思い出そうとすると何故か酷い眩暈がして思考が働かないのよね……。
「ロラン様」
「何だ」
「その、とてもお恥ずかしいのですが……」
「罪を認めるのか。そうであれば罪を認めたと書類をしたためた上で、情状酌量の余地を与えないこともない」
「情状酌量の余地ですか?」
情状酌量の余地といえば、自分の罪を軽くしてくれることだけれど、……それにしても、どうして私は情状酌量の余地の意味は分かるのに、「婚約はき」は思い至れないのかしら……。
ともかく、意味も分からないまま承諾をするわけにもいかないわ。
「罪と言われましても、私には何のことかさっぱり分からないのです」
「何、分からないだと……⁉︎」
今にも食ってかかりそうな勢いで立ち上がって詰め寄ったロラン様に、両肩を掴まれた。
「い、痛いです、ロラン様」
「すまない」
ロラン様は慌てて私を掴んでいる肩から、手を離した。
普段はとても冷静な方だから、このような行動はこれまで一度も無かったので、呆気に取られてしまった。
「い、いえ……」
私が痛いと訴えたら動揺はしたようだけれど、……だからと言って不当に私を追求したことについて、このまま何も言わないというわけにはいかないわ。
そうよ、これまではただ理不尽に追求されてばかりだったけれど、こちらからも何かを持ちかけるべきだわ。
そうね、まずはロラン様の追求の真意を知るべきね。
「ロラン様は、私が何かロラン様に対して裏切るようなことを行ったのだと、そうお考えになられているのですか?」
「無論そうだが、……まさか自覚が無かったのか⁉︎」
「自覚も何も、私には全く身に覚えのないことです。ロラン様の勘違いなのではないのでしょうか」
ロラン様の瞳の奥の冷気が、少しだけ和らいだように見える。
それから小さく咳払いをすると、私に対して正面のソファにかけ直した。
「……冷静になって、話し合う必要があるな」
私は最初から冷静だったのに、そちらが一方的に激怒しはじめたのですけどね……!
最初は意味もわからず相手のペースに呑まれるだけだったけれど、このままではいけないわ。ともかく「婚約はき」が何のことか聞き出さないと……。
けれど、どうやって切り出そうかしら……。ともかくできるだけ、無難に切り出しましょう。
「ロラン様は『婚約をはき』をなさりたいと仰いましたが、それは何故でしょうか」
ロラン様は目前のコーヒーカップを持って一口含むと、それをテーブルの上に置いて小さく息を吐き出した。
先程よりは落ち着き、冷静さを取り戻しているように見える。
「それは……、あなたが他の男に連絡を取り逢引きをしていたからだ」
「他のおとこ?」
予想外の言葉だったので、思わず気の抜けた声を出してしまった……。
「なんだ、その気の抜けたような声は。まるで身に覚えのないような態度だな」
「ええ、全くありません」
そもそも「婚約はき」が何なのかが分からないのだから、ロラン様からそのような謂れのない言葉を聞くとは思わなかったわ。
「シラを切っても無駄だ。こちらには証拠があるんだ」
ロラン様は足元の鞄から大判の封筒を取り出し、中身の便箋を私に手渡した。
ともかく、それに目を通してみると……。
『親愛なるユリアン様 昨夜はお会いすることが叶いまして、大変感謝をしております。とても素敵なレストランでしたね。また来月にお会いできる日を楽しみにしております。 マリア・アンリ』
…………ひょっとして、これは私が書いた、手紙なのかしら……。
「これを読んでも、なお身に覚えが無いというのか」
「はい。そもそもこの手紙に全く見覚えもないのですが」
「あなたの筆跡だろう」
改めて便箋を確認してみる。
それは一見するとほぼ私の字のように見えるけれど、細かな癖や字の跳ね具合などよく目を凝らして見ると、私の字とは異なるところがあることが分かった。
「何故か非常に似ていますが、よく見ると違います。それにこの便箋からは柑橘系の香りが漂っておりますが、私はこのような香水は持っておりません」
「それは本当か?」
「はい」
このような嘘をついても、仕方がないものね。
「その手紙は、どういった経緯で入手なされたものなのでしょうか」
「これは……」
躊躇いのためか短く息を吐き出してから、ロラン様は続けた。
「一昨日、我が家の家令であるサマスから受け取ったものだ。サマスはアンリ家の使用人から受け取ったと言っていた」
「うちの使用人から……」
何故、うちの使用人がそんなことをしたのかしら。そもそも、そんなことをして誰が得をするというの?
衝撃も強いけれど、疑問の方が強くて反対に冷静になってきた。
それにしても、この香水の匂いどこかで嗅いだような気がするのよね……。そうだわ、確か……。
「…………メアリー……」
「あなたの妹か」
「はい。そういえば最近、妹がこの香水をつけているような気がするのです」
「……そうか」
ロラン様は手を額に当てて、何かを思案するような表情と仕草をした。ダークブラウンの短めの髪がそっと揺れる。
その様子からは先ほどまでの怒りの感情は感じられないので、一先ず胸を撫で下ろしたけれど、同時に便箋に付着していた香水に対しての疑問も湧き上がった。
そう思い巡らせながら小さく息を吐く。身体中に酸素が行き渡ったからか、少し冷静になれた気がした。
お読みいただき、ありがとうございました。
次話もお読みいただけると幸いです。
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