9. 主のために
ここまでこれば、イルフィードは当然として、あまり頭が良いとはいえないベルゼビュートも理解した。
サミギナは倒せない。
理由はわからないが、それは間違いない。
ならば諦めるしかないのかと言われたら、答えはNOだ。
死なないのであれば、死んだも同然のレベルまで弱らせてやればいい。
弱体化はベルゼビュートの専売特許である。
「爛れよ、霧雨の夢に抱かれて」
開かれた口が不穏な詩を奏でる。
辺りにうっすらと黒いモヤのようなものが立ち込み始めた。
それが猛毒を孕む死の霧であることは言うまでもない。
敵の体を内部から侵し、じわじわと殺していく残酷な魔法。
サミギナはその苦しみを身をもって味わった。
『死』自体は問題ないが、『死ぬまでの過程』はランクダウンしてしまった<我こそ絶対>では無効化できない。
しかし転んでもただでは起きない彼女は、あの時、<安楽の呪毒>の弱点を看破していたのだ。
術士が死亡、ないし意識不明になればこの毒は消えるということを。
一見無理ゲーかと思ったが、種が割れればこちらのものだ。
「死ね!」
聖剣を振り回し、斬撃を放つ。
狙いは勿論ベルゼビュートだ。
奴が退場すれば、とりあえず一番面倒な能力はなくなるのだ。
しかし、簡単に思い通りにはいかぬもの。
斬撃がベルゼビュートに到達しようとしたその時、彼女の姿が消え失せた。
姿だけではない。
魔力も感知できなくなっている。
「…貴方の仕業ですか」
サミギナはギロリとイルフィードを睨みつけた。
現在進行形で魔法を発動しているベルゼビュートが魔力反応をゼロにすることなど絶対にできない。
ならば考えられるのは、第三者の干渉。
すなわち、イルフィードの発明とやらだ。
「だったら、何?」
イルフィードは真顔のまま、戦闘体勢を取った。
「チェック、メイト、よ。キミは、ベルを、見つけられない」
確かに現状はサミギナにとって些か以上に不利だと言えた。
術士の位置がわからなければ、魔法を止めることはできない。
モタモタと探している間に毒が充満してしまう。
「…どうですかね」
それなのに、サミギナは落ち着いていた。
彼女には現状を突破しうる考えが浮かんでいたからだ。
姿が見えなくなっただけで、この場から消えたというわけではあるまい。
ならば簡単だ。
見渡す限りの全てを、斬り刻んでやればいい。
―――今の私なら、できる。
サミギナは聖剣を両手で構え、全パワーを集中させる。
そして…
「はああああっ!」
ターゲットを定めることなく、目茶苦茶にぶん回しだした。
振るう速度を早く、さらに早くと。
無限の真空の刃がこの世界そのものを蹂躙し尽くす。
彼女は荒れ狂う竜巻のようだった。
「ぐっ!?」
予想外の行動に、イルフィードは思わず怯んでしまう。
何と言う技だ。
いや、これはもはや技ですらない。
ただ意味もなく暴れ回っているだけだ。
所かまわず斬撃が飛び交う。
乾いた大地を深々と抉っていく。
真っ暗な空を引き裂いていく。
「きゃっ…」
上がった小さな悲鳴。
―――そこか。
サミギナはすかさずその空間に刃を突き立てた。
何もないはずの空に刺さった聖剣が血で濡れる。
次の瞬間、風景にノイズが走り、ベルゼビュートが現れた。
透明化の効果が消えたのだ。
「く…そ…」
サミギナが腹に刺さった聖剣を引き抜くと、彼女は喀血し、がくりとうなだれて地に落ちた。
それきりもう動かなかった。
「甘いですね。この程度で私を出し抜こうとは」
サミギナは血の海に横たえるベルゼビュートを冷たい目で見下す。
その体からは微塵も魔力が感じられない。
死んだのか、意識がないだけか。
どちらにせよ、これで魔法は解かれた。
それはサミギナに勝利しうる唯一の可能性を失ってしまったのと同義だ。
「ほら、チェックメイトですよ。あなた方がね」
「まだ、だ!」
一人になってしまっても、イルフィードは諦めようとしなかった。
彼女はまだ、希望を捨てていない。
―――終わり、じゃ、ない!
そう、まだ勝機は残っていた。
サミギナは、彼女達の本当の狙いに気づいていない。
少しでも時間稼ぎをしようと、詠唱を唱えようとして…
「終わりなんですよ」
閃光が走る。
体がぐらりと揺れる。
「がはっ」
口から出てきたのは魔法の言葉ではなく、血の塊だった。
後を追って意識が飛びかけるほどの激痛がやってくる。
そこで初めて、イルフィードは自身が斬られたということに気づいた。
立てない。
力が入らない。
たった一撃で、彼女は瀕死の状態になっていた。
「ま、おう…さ…ま」
お許し下さい。
何一つなし得ることのできなかった不甲斐ない部下を。
そんな謝罪も告げることができず、イルフィードは倒れ伏した。
「さて、残るは貴方だけですね」
「…」
静寂の空の上で、サミギナとディアは再び相対した。
それはまるで戦いが振り出しに戻されたかのような構図。
しかし、そうではないことは三体の血まみれの悪魔が証明している。
「どうですか?これが貴方を信じて戦った奴らの成れの果てですよ」
肩を竦めて嘲笑うサミギナ。
対するディアは視線だけを返した。
殺意を凝縮させた、凍えるような瞳で。
今、魔王は確かに怒っている。
それがたまらない、とでもいうように、サミギナはさらに続けた。
「救われないですね。彼女達は何も残せず、最後には敬愛してやまない主も私に殺されてしまうんですから…」
「それは違う」
その即答は先ほどまでの沈黙が嘘であったかのようだった。
語りを邪魔されたサミギナが一気に不機嫌になる。
私が間違ったことを言ったか?という顔だ。
「余は必ず勝つ。勝たねばならない」
「ふーん…なんでですか?」
―――なぜもなにもあるものか。
ディアは虚空から魔剣アークヘヴンを取り出し、刃に魔力を行き渡らせる。
―――ベルも、レオルも、イルも、余の勝利を信じている。
―――ならば。
「臣下の思いに応えるのが、王たる余の務めだからだ」
ディアが何を言っているのか、サミギナにはこれっぽっちもわからなかった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
「…やっぱり私、貴方のことキライです」
サミギナにとって、戦う理由はそれだけで十分だった。
正義のためとか、誰かのためとか、そんな『らしい』ものなど不要。
「気が合うな。余も同じだ」
こうして、役者は揃った。
一方は気に食わない奴を叩き潰すために。
一方は仲間の思いを繋ぐために。
勇者と魔王の決戦、『神話戦争』のラストシーンが今再現されようとしていた。